26 調和
指先が、アルヴィスの胸に触れた瞬間。
――逆流してくる。
そう表現するのが、一番近かった。触れた場所から、暴走した魔力が流れ込んできた。身体の奥を、内側から引き裂かれるような感覚。喉の奥から、悲鳴にならない声が漏れた。
「――ッ、あ……!」
視界が、白く点滅する。腕の感覚が、一瞬消える。
それでも、リディアは手を離さなかった。
離せば終わりだ。この一瞬を逃せば、もう二度と触れられないかもしれない。そう思うと、痛みよりも、その恐怖の方が勝った。
――大丈夫。大丈夫。
震える手のひらに、自分の魔力を、そっと集める。多く流し込めば、何が起こるか分からない。焦る気持ちを抑え込み、ほんの少しずつ、慎重に。まるで、消えかけた蝋燭の火に、そっと息を吹きかけるように。
わずかな魔力が、指先から流れ込んでいく。
一瞬、逆流の勢いが緩んだ気がした。
――今のは。
もう一度。今度は、先ほどより少しだけ、多く。
震えていた手のひらの感覚が、じわりと変わる。突き刺すような痛みが、ほんの僅かに和らいだ。
――効いている……気がする。
確信が持てたわけではなかった。それでも、リディアはそのわずかな手応えにすがるように、慎重に、少しずつ、注ぎ込む量を増やしていった。
不思議な感覚だった。
まるで、二つの水面が触れ合って、少しずつ溶け合っていくような、そんな感覚が、指先から伝わってくる。
荒れ狂っていた奔流が、ほんの少し、揺らぎを緩めた。
リディアは、そのわずかな変化を逃さないよう、意識を集中させた。
暴れていた魔力の輪郭が、指先を通して伝わってくる。獣が暴れているような、荒々しい波。それに逆らうのではなく、寄り添うように。自分の魔力を、その波の隙間に、そっと滑り込ませる。
――馴染んできた?
そう感じた瞬間、腕を焼いていた熱が、ほんの少し引いた。
不思議なことに、抗おうとするほど強く弾かれていた反発が、寄り添おうとした途端、少しずつ緩んでいく。まるで、警戒していた獣が、ゆっくりと牙を収めていくように。
「大丈夫ですよ」
囁くような声だった。
かつて、病室で幾度となく口にした言葉。不安に震える患者の手を握りながら、何度も、何度も繰り返した言葉。
「大丈夫。ここにいますから」
その声に、意味があるのかどうかは分からなかった。固く目を閉じ魔力の暴走に耐えるアルヴィスに、届いているという確証はなかった。それでも、リディアは声をかけ続けた。まるで、その声自体が、何かのまじないであるかのように。
指先から伝わる魔力の波が、少しずつ、穏やかになっていく。
先ほどまで、稲妻のように荒れ狂っていた気配が、緩やかな川の流れのように、なだらかになっていく。リディアは、自分の魔力を、もう少しだけ強く、けれど決して急がずに、流し込み続けた。
すると、ふいに。
抵抗が、ふっと軽くなった。
まるで、固く握りしめられていた拳が、ゆっくりと開いていくような感覚だった。荒れていた魔力の輪郭が丸みを帯び、指先に伝わる熱も、和らいでいく。
二つの異なる魔力が、反発するのではなく、互いの形を確かめ合いながら、ゆっくりと馴染んでいく。かつて感じたことのない、不思議な一体感だった。
室内に満ちていた圧迫感が、少しずつ、薄れていった。
軋んでいた調度品の音が、静かになる。震えていた窓ガラスも、それ以上、亀裂を広げることはなかった。空気の密度が、ゆっくりと、元に戻っていく。
リディアの指先に伝わる波動が、少しずつ、規則正しさを取り戻していった。
「――ッ、はぁ……」
アルヴィスの荒かった呼吸が、少しずつ、穏やかになっていった。
まだ触れている手のひらの下で、暴れていた何かが、静かに凪いでいくのを、リディアははっきりと感じ取っていた。
そこへ、廊下を駆けてくる足音が響いた。
「アルヴィス様!」
扉を開け放ったのは、グレイだった。すぐ後ろに、レイモンドの姿もある。
だが、二人が目にしたのは、想像していた光景ではなかった。
床に横たわるアルヴィスの傍らで、リディアがその胸にそっと手を当てている。荒れ狂っていたはずの魔力の気配は、すでにほとんど収まっていたが、窓の亀裂だけが、先ほどまでの激しさを物語っていた。
「……これは」
グレイの声が、掠れた。
これまで、幾度となくアルヴィスの発作を見てきた。薬でも、時間でも、どうにもならない暴走を。
言葉を失ったまま、グレイはただ、その光景を見つめていた。
リディアが、ゆっくりと顔を上げる。グレイの姿を認めた瞬間、強張っていた肩から、力が抜けた。
「先生……」
そう呟いた声は、今にも消えてしまいそうなほど、か細かった。
リディアの身体が、糸の切れた人形のように傾いた。
「リディア様!」
レイモンドが、悲鳴のような声を上げた。
グレイが慌てて駆け寄り、その身体を支える。脈を確かめる指先が、微かに震えていた。
「……大丈夫だ。呼吸も脈もある」
グレイの声に、レイモンドが詰めていた息を吐き出した。
それでも、意識を失ったまま動かないリディアの姿に、空気は、まだ張り詰めたままだった。
窓の外は、いつの間にか白み始めていた。
割れることのなかった窓ガラスに、朝の光が、静かに差し込み始めていた。




