25 魔力暴走
アルヴィスの身体が、大きく痙攣した。
身体が傾いたアルヴィスは、机に手をついて堪えようとしたが、支えきれず、そのまま床に崩れ落ちた。書類が音を立てて散らばり、羽根ペンが床を転がっていく。
「アルヴィス様!」
リディアが、駆け寄ろうとした瞬間――空気が、震えた。
肌が粟立つ。
耳の奥で、低く唸るような音がした。
まるで、大きな鐘の中に閉じ込められたような、重い振動。机の上の書類が、見えない風に煽られたように舞い上がった。棚の上の小物が、カタカタと音を立てて震え始める。壁にかけられた絵画が、ガタンッと音を立てて傾いた。
「ぐ……ッ」
アルヴィスが、喉の奥から絞り出すような呻き声を上げた。床に爪を立て、身体を折り曲げる。その周囲だけ、空気の密度が変わったように、陽炎のように、輪郭が揺らいでいる。
――これは……魔力暴走。
そう感じた瞬間、パンッと乾いた音がした。窓ガラスに、一筋の亀裂が走った。続けて、もう一筋。まるで薄い氷にヒビが広がるように、ガラス全体へと広がっていく。
「そんな……」
リディアは目を疑った。これまでの発作とは、規模が違う。前回、前々回とも比較にならない。これは、屋敷そのものが軋んでいるのではないかと錯覚するほどの、圧倒的な気配だった。
「アルヴィス様、しっかり――」
リディアが、手を伸ばした瞬間だった。
見えない壁に、突き飛ばされた。
「……ッ!?」
全身に、電流のようなものが駆け抜ける。皮膚の表面が、じりじりと焦げるように熱い。
息が、詰まる。
吸おうとしても、肺が圧迫されたように、空気が入ってこない。
一瞬、意識がかすみ、両手を床につく。
これまでの反発魔力とは、まったく違う。あれは「押し返される」程度の感覚だった。今のは――拒絶、そのものだった。まるで、近づくことそのものを、身体の芯から否定されているような。
床に手をついたまま、リディアは荒く息をついた。指先が、小刻みに震えている。目の前で、アルヴィスが苦痛に顔を歪めていた。それなのに、近づくことができない。
「来るな……ッ」
アルヴィスが掠れた声で呟いた。
「来る、な……巻き込まれ、る……」
苦しみの中で、それでもリディアを案じているのが伝わってきた。その声に、リディアの胸が引き絞られた。
――脳裏を、いくつもの言葉がよぎる。
「元々、明日生きられるかも分からない身体だ」
いつか、アルヴィスが静かに口にした言葉。
「暴走に、身体が耐えきれなくなる」
グレイが、以前険しい顔で告げていた言葉。
まさか。まさか、今――
「レイモンドさん! 誰か!!」
リディアは、声の限り叫んだ。
「グレイ先生を! 早く!」
廊下の向こうで、慌ただしい足音が響く。程なくして、レイモンドが扉を開け放った。
「これは……!」
一瞬、レイモンドの顔から血の気が引いた。長年アルヴィスに仕えてきた彼をもってしても、これほどの発作は見たことがなかったのだろう。
「グレイ先生を、今すぐ!」
「は――はい、すぐに呼んでまいります!」
踵を返して駆けていくレイモンドの足音が、遠ざかっていく。
アルヴィスの呼吸が、目に見えて浅くなっていく。肩が大きく上下し、唇の色が、みるみる悪くなっていった。額に浮かぶ汗が、次々と床に落ちる。折り曲げた身体の下で、指先が痙攣するように動いていた。
――間に合わない。
グレイが来るまで、待てるかどうか分からない。そう直感的に思った。
――どうすれば。
前世の知識も、今世で学んだ薬学の知識も、この状況では何の役にも立たない。魔力の暴走を、薬でどうにかできる段階はとうに過ぎている。目の前で人が壊れていくのを、ただ見ていることしかできない――その無力感は、前世で何度も味わったものだった。
同じだ。また、同じことを繰り返すのか。
リディアは、無力感に歯を食いしばった。
どうすることもできないのか――そう思いかけた、その時。
リディアの中で、何かが繋がった。
薬湯。鎮痛剤。あの二つに共通していたのは――リディアの魔力だ。グレイが調べて、驚いていたあの、微弱な調和の魔力。理論上は、魔力循環の安定と相性がいいと、彼は言っていた。
薬という「器」を介さなければ、効果がないと、そう思い込んでいた。
けれど、もし。
もし、直接――
馬鹿げている、と頭の片隅で誰かが囁いた。今この瞬間、近づくことすら許されないほどの反発魔力が渦巻いているのだ。触れることさえ、できるかどうか分からない。効くという保証も、どこにもない。
それでも。
このまま何もせず、アルヴィスを失うくらいなら。
もう一度、同じ後悔をするくらいなら。
リディアは、震える手を持ち上げた。
少しだけでもアルヴィスに触れることが出来れば。
反発の圧力に耐えながら、リディアは膝で這うようにして、アルヴィスの傍へとにじり寄った。一歩進むごとに、肌を炙るような熱が強くなる。腕に、じりじりと痛みが走る。それでも止まらなかった。
窓の外で、また硝子の軋む音がした。
「アルヴィス様」
呼びかける声は、我ながら情けないほど震えていた。
「触れます……ごめんなさい」
どうして謝ったのか、わからない。
「来るな」という声に反したからなのか、それとも確証もなく調和の魔力を使おうとしていることに対してなのか――その両方か。
リディアは震える手を、アルヴィスの胸へ、そっと伸ばした。




