↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結】余命わずかな冷徹公爵様に嫁いだので、最期くらいは穏やかに過ごしていただくはずでした  作者: 佐倉穂波


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
25/31

24 壊れてしまう

 夜半、廊下を歩いていたリディアの足が止まった。

 夜中に目が覚めてしまい、水でも飲もうと、水差しを取りに厨房へ向かう途中だった。

 執務室の隙間から、明かりが漏れていた。

 時刻はとうに深夜を回っていた。使用人たちも寝静まり、屋敷は静まり返っている。それなのに、あの部屋だけが、眠ることを拒むように明かりが灯っていた。

(アルヴィス様、まだ仕事をしているんだわ)

 嫁いできた頃のように――いや、それ以上に鬼気迫る様子で執務をこなしている姿が、脳裏をよぎる。迷惑がられるかもしれない。それでも、リディアはアルヴィスの執務室に足を向けた。

 執務室の扉をノックするが、返事はない。リディアはそっと扉を開け、室内へ足を踏み入れた。

「――アルヴィス様」

 声をかけて、息を呑んだ。

 机の上には、これまで見たどの日よりも高く書類が積まれている。その中心で、アルヴィスは俯いたまま羽根ペンを握っていた。顔色は紙のように白く、呼吸は浅く、肩が小刻みに上下している。時折、握ったペンの先が、意味もなく紙の上をなぞるだけで止まっていた。

 明らかに、限界を超えている。

「休んでください」

 リディアは、努めて静かに声をかけた。だがアルヴィスは顔も上げず、掠れた声で返す。

「……問題ない」

「でも、顔色が」

「かまうな」

 何度も聞いてきた、突き放すような響き。以前のリディアなら、そこで引いていたかもしれない。けれど今日は、違った。

 前世の光景が、脳裏をよぎった。「まだ大丈夫」そう繰り返しながら、ある日目覚めない眠りについた自分の姿。

 リディアは、一歩前へ出た。

「かまいます」

 はっきりとしたリディアの声に、アルヴィスが、初めて顔を上げる。

「そのように無理をしたら」

 リディアの声が、震えた。

「病気でなくても、死んでしまいます」

 その一言に、アルヴィスの瞳が揺れた。しかしすぐに、視線を書類へ戻す。

「知ったような口を利くな」

「知っています」

 リディアは、机に手をついた。

「働きすぎて、倒れて、それきり目を覚まさなかった人を――私は、知っています」

 アルヴィスの手が、一瞬止まった。だが、彼はそれ以上何も聞かず、再びペンを取ろうとする。その手を、リディアはそっと押さえた。

「離せ」

「離しません」

「――ッ」

 アルヴィスが、ペンを強く握りしめた。ギリ、と小さく軋む音がした。

「分かっている!」

 珍しく荒らげた声が、静かな室内に響く。リディアは、思わず息を呑んだ。

「分かっている……分かっているんだ、こんなことをしていても、意味がないと。それでも、何かしていないと――落ち着かないんだ。手を止めれば、考えてしまう」

「何を、ですか」

 リディアの問いに、アルヴィスはしばらく答えなかった。ただ、荒い呼吸だけが、部屋に満ちていた。

 やがて、絞り出すように、彼は口を開いた。

「いつ死んでもいいように、全て整理してきた。後継のことも、財産のことも、領地のことも……何一つ、思い残すことがないように」

 その声には、これまで聞いたことのない、剥き出しの疲労が滲んでいた。

「だが……叔父のような連中が現れれば、簡単に崩れる。私が積み上げてきたものなど、私が死んだ瞬間、いくらでも作り替えられてしまう」

 アルヴィスは、俯いたまま、拳を握りしめた。

「フィアの未来も。この屋敷も。使用人たちの暮らしも……」

 そこで、一度言葉を切る。

「――君も」

 リディアは、動けなかった。

「守りたいものが、増えすぎた」

 掠れた声だった。まるで、その事実に自分自身が戸惑っているかのような。

「以前は、何も惜しくなかった。失うものがなければ、死ぬことも、ただの終わりでしかなかった。それなのに、今は」

 アルヴィスは、顔を上げた。その目に浮かんでいたのは、これまでリディアが一度も見たことのない、剥き出しの弱さだった。

「まだ……死にたくない」

 静かな、けれど確かな声だった。

 その一言に、リディアの視界が、じわりと滲んだ。

 目の前で本音を吐き出しているアルヴィスの姿に、あの日の患者の姿が、重なって見えた。

 けれど、違う。

 アルヴィスは、まだ生きている。まだ、間に合う。

 リディアは、震える手を伸ばし、アルヴィスの背に、そっと触れた。

「大丈夫です」

 囁くように、そう告げる。

「まだ、死にません」

 その言葉に、アルヴィスの肩が、小さく震えた。

 長い沈黙が続いた。

 やがて、静かな室内に、押し殺した嗚咽が、微かに聞こえた。

 リディアは何も言わず、ただその背を、ゆっくりと撫で続けた。蝋燭の灯りが、二人の影を、壁に長く映していた。

 ――その時だった。

 ふいに、アルヴィスの身体が、びくりと強張った。

「アルヴィス様?」

 呼びかけたリディアの手のひらに、これまで感じたことのない、奇妙な熱が伝わってくる。

 アルヴィスの呼吸が、急速に乱れていく。

 嫌な予感が、リディアの背筋を駆け抜けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。