24 壊れてしまう
夜半、廊下を歩いていたリディアの足が止まった。
夜中に目が覚めてしまい、水でも飲もうと、水差しを取りに厨房へ向かう途中だった。
執務室の隙間から、明かりが漏れていた。
時刻はとうに深夜を回っていた。使用人たちも寝静まり、屋敷は静まり返っている。それなのに、あの部屋だけが、眠ることを拒むように明かりが灯っていた。
(アルヴィス様、まだ仕事をしているんだわ)
嫁いできた頃のように――いや、それ以上に鬼気迫る様子で執務をこなしている姿が、脳裏をよぎる。迷惑がられるかもしれない。それでも、リディアはアルヴィスの執務室に足を向けた。
執務室の扉をノックするが、返事はない。リディアはそっと扉を開け、室内へ足を踏み入れた。
「――アルヴィス様」
声をかけて、息を呑んだ。
机の上には、これまで見たどの日よりも高く書類が積まれている。その中心で、アルヴィスは俯いたまま羽根ペンを握っていた。顔色は紙のように白く、呼吸は浅く、肩が小刻みに上下している。時折、握ったペンの先が、意味もなく紙の上をなぞるだけで止まっていた。
明らかに、限界を超えている。
「休んでください」
リディアは、努めて静かに声をかけた。だがアルヴィスは顔も上げず、掠れた声で返す。
「……問題ない」
「でも、顔色が」
「かまうな」
何度も聞いてきた、突き放すような響き。以前のリディアなら、そこで引いていたかもしれない。けれど今日は、違った。
前世の光景が、脳裏をよぎった。「まだ大丈夫」そう繰り返しながら、ある日目覚めない眠りについた自分の姿。
リディアは、一歩前へ出た。
「かまいます」
はっきりとしたリディアの声に、アルヴィスが、初めて顔を上げる。
「そのように無理をしたら」
リディアの声が、震えた。
「病気でなくても、死んでしまいます」
その一言に、アルヴィスの瞳が揺れた。しかしすぐに、視線を書類へ戻す。
「知ったような口を利くな」
「知っています」
リディアは、机に手をついた。
「働きすぎて、倒れて、それきり目を覚まさなかった人を――私は、知っています」
アルヴィスの手が、一瞬止まった。だが、彼はそれ以上何も聞かず、再びペンを取ろうとする。その手を、リディアはそっと押さえた。
「離せ」
「離しません」
「――ッ」
アルヴィスが、ペンを強く握りしめた。ギリ、と小さく軋む音がした。
「分かっている!」
珍しく荒らげた声が、静かな室内に響く。リディアは、思わず息を呑んだ。
「分かっている……分かっているんだ、こんなことをしていても、意味がないと。それでも、何かしていないと――落ち着かないんだ。手を止めれば、考えてしまう」
「何を、ですか」
リディアの問いに、アルヴィスはしばらく答えなかった。ただ、荒い呼吸だけが、部屋に満ちていた。
やがて、絞り出すように、彼は口を開いた。
「いつ死んでもいいように、全て整理してきた。後継のことも、財産のことも、領地のことも……何一つ、思い残すことがないように」
その声には、これまで聞いたことのない、剥き出しの疲労が滲んでいた。
「だが……叔父のような連中が現れれば、簡単に崩れる。私が積み上げてきたものなど、私が死んだ瞬間、いくらでも作り替えられてしまう」
アルヴィスは、俯いたまま、拳を握りしめた。
「フィアの未来も。この屋敷も。使用人たちの暮らしも……」
そこで、一度言葉を切る。
「――君も」
リディアは、動けなかった。
「守りたいものが、増えすぎた」
掠れた声だった。まるで、その事実に自分自身が戸惑っているかのような。
「以前は、何も惜しくなかった。失うものがなければ、死ぬことも、ただの終わりでしかなかった。それなのに、今は」
アルヴィスは、顔を上げた。その目に浮かんでいたのは、これまでリディアが一度も見たことのない、剥き出しの弱さだった。
「まだ……死にたくない」
静かな、けれど確かな声だった。
その一言に、リディアの視界が、じわりと滲んだ。
目の前で本音を吐き出しているアルヴィスの姿に、あの日の患者の姿が、重なって見えた。
けれど、違う。
アルヴィスは、まだ生きている。まだ、間に合う。
リディアは、震える手を伸ばし、アルヴィスの背に、そっと触れた。
「大丈夫です」
囁くように、そう告げる。
「まだ、死にません」
その言葉に、アルヴィスの肩が、小さく震えた。
長い沈黙が続いた。
やがて、静かな室内に、押し殺した嗚咽が、微かに聞こえた。
リディアは何も言わず、ただその背を、ゆっくりと撫で続けた。蝋燭の灯りが、二人の影を、壁に長く映していた。
――その時だった。
ふいに、アルヴィスの身体が、びくりと強張った。
「アルヴィス様?」
呼びかけたリディアの手のひらに、これまで感じたことのない、奇妙な熱が伝わってくる。
アルヴィスの呼吸が、急速に乱れていく。
嫌な予感が、リディアの背筋を駆け抜けた。




