23 積み上がる書類
エドガーが去った日を境に、屋敷の空気が変わった。
穏やかな日々に、また薄い影が差し始めていた。誰もそれを口には出さなかったけれど、屋敷で働く者なら誰もが、その変化に気づいていた。
アルヴィスは以前にも増して執務室にこもるようになり、寝室へ戻る時間はどんどん遅くなっていった。いや――戻らない日の方が、多くなっていた。
「旦那様、お食事の準備が整いました」
レイモンドが声をかけても、返ってくるのは「後で」という短い言葉だけ。その「後で」が実行されることは、ほとんどなかった。手つかずのまま冷えた料理を見て、レイモンドが小さくため息をつく回数が増えていった。
「せっかく最近は、召し上がるようになられたのに……」
厨房でそう呟くマーサの声に、リディアは何も言えなかった。
食堂に、三人分の食器が並ぶことはなくなった。フィアは何も言わなかったが、空いた席をちらりと見る回数が増えていた。
「お父さま、今日もいそがしいの?」
そう尋ねるフィアに、リディアは「そうみたいですね」としか答えられなかった。
「フィア、まっててもいい? お父さま、いつかまたいっしょにごはん、たべてくれる?」
その問いに、リディアは笑顔を作りながら頷いた。
「ええ、きっと。もう少し落ち着いたら、また一緒に食べてくれますよ」
「うん」
素直に頷くフィアの表情に、以前のような諦めの色が、うっすらと戻ってきているのを、リディアは見逃さなかった。せっかく開き始めた心が、また閉じていってしまうのではないか――そう思うと、胸の奥が冷たくなった。
執務室に運ばれる書類の量は、日に日に増えていく。カイルが心配そうな顔で、それでも黙って運び込む姿を、リディアは何度も見かけた。
「カイルさん」
ある日、廊下で声をかけると、カイルは少し気まずそうに視線を逸らした。両手に抱えた書類の束が、以前よりも一回り分厚くなっている。
「……前に、あなたに言われたことは、覚えています。壊れるまで働かせ続けるのか、と」
「はい」
「あれから、できる限り調整はしたんです。急ぎでない書類は後回しにするよう、私の判断で振り分けて……急ぎではないものは、私の裁量で止められる限り止めています。しかし最近は……」
カイルは書類の束に視線を落とした。
「アルヴィス様は私が仕事を調整していたことには気がついていたようで……『全て持って来い』と。私が『少しお休みを』と申し上げても、『後で』の一点張りで……正直、どうすればいいのか、私にも分からなくなってきています」
そう吐き出すように言うと、カイルは自嘲するように小さく笑った。
「あなたに突っかかっていた頃の自分が、馬鹿らしく思えます。あなたの方が、ずっと前から公爵様のことを見ていた」
「そんなことは」
「いえ」
カイルは首を振った。
「あの方は、限界まで働くことを、責任だと思っている節がある……私では、力不足のようです」
その背中を見送りながら、リディアの中に、じわりと焦りが広がった。
アルヴィスは、薬湯だけは毎晩欠かさず飲んでくれる。それが、せめてもの救いだった。しかし杯を持つ手が、以前より少し痩せてきていることに、リディアは気づいていた。指先も、心なしか冷たい。顔色も、明らかに悪い。目の下の隈は日に日に濃くなり、時折、書類を捲る手が止まって、そのまま動かなくなる瞬間があった。
「少しでいいので、休んでください」
夜、薬湯を運びながらそう声をかけても、返ってくるのは「分かっている」という返事だけだった。分かっている、という言葉を、アルヴィスは何度も口にした。分かっているのに、止まれない。そんな風に見えた。
定期診察に訪れたグレイも、その変化には気づいていた。
「脈が、少し速いですね。眠れていますか」
「問題ない」
眠れているではなく、問題ないと短く返すアルヴィスに、グレイは軽くため息をついた。診察を終えて部屋を出たところで、廊下に控えていたリディアと目が合う。
「……あまり良くない兆候だ。以前ほどではないにせよ、無理を重ねれば、また発作の頻度が上がるだろう 」
グレイの声は静かだったが、その分、重みがあった。
「何か、彼を止める方法は……」
「止められるなら、とっくに止めている」
グレイは苦笑を浮かべたが、その目は笑っていなかった。
「公爵は、"働くこと"でしか、自分を保てないのかもしれない。何もしていない時間があると、考えてしまうのだろう」
その言葉に、リディアの胸が、ちくりと痛んだ。
その感覚を、リディアは知っていた。
まだ大丈夫。あと少し終わらせたら休もう。今日だけ乗り切れば。次の会議が終わったら。この書類さえ片付けば。
そう自分に言い聞かせながら、気づけば身体の限界を超えていた、あの頃の自分と。
前世、リディアもそうだった。目の前の仕事を放り出せなくて、休むことを後回しにし続けて――そして、二度と目を覚まさなかった。
執務室の扉の隙間から、明かりが漏れているのを見た夜、リディアは足を止めた。
そっと中を覗くと、机に向かうアルヴィスの横顔が見えた。蝋燭の灯りに照らされたその顔は、疲労の色を隠しきれていなかった。目は書類を追っているようで、実際には同じ行を何度も往復しているようだった。
それでも手を止めようとしない、その頑なな姿は。
――あの頃の、自分と同じ顔をしている。
そう気づいた瞬間、リディアの中で、何かが静かに軋んだ。
しかし、どう声をかければ届くのか、リディアにはまだ分からなかった。強く言えば拒まれる。優しく言っても、聞き流される。
薬湯の入った杯を持つ手に、無意識に力がこもった。
扉の向こうで、紙をめくる音だけが、静かに続いていた。




