22 叔父の来訪
朝、リディアが執務室の扉を開けると、淀んだ空気の代わりに、庭の花の香りがふわりと届く。
「おはようございます。今日もいい天気ですね」
そう言って窓を開けるのが、いつからか当たり前の光景になっていた。アルヴィスは書類から視線を上げることはないが、「ああ」と短く返事をしてくれる。「かまうな」とだけ返されていたことを思えば、それだけで十分すぎる変化だった。
朝食のあとは、庭でフィアと一緒に薬草の手入れをする
「これ、きのうより、おおきくなってる」
「本当ですね。よく気づきましたね」
リディアが褒めると、フィアは得意げに小さな胸を張った。その姿が可愛らしい。
昼になれば、毎日ではないけれど、食堂に三人分の食器が並ぶ日が増えていた。
「お父さま、これ、フィアも一緒にやいたの」
「そうか」
そう言うアルヴィスの声は、以前ほど硬くない。フィアは頬を染めながら、隣に座るリディアへちらりと視線を送る。リディアが小さく頷き返すと、フィアの表情がふっと緩んだ。
夕方には薬湯の湯気が、執務室にふわりと立ちのぼる。
「今日は少しハーブの配合を変えてみました。よく眠れるように」
「……ああ」
杯に口をつけるアルヴィスを、リディアはそっと見守る。今では二人にとって、当たり前の時間になっていた。
積み重なる小さな日常が、屋敷全体をゆっくりと温めていた。使用人たちの表情も、以前より柔らかい。
レイモンドなどは、廊下で二人とフィアが笑う声を耳にするたび、目を細めていた。
――このまま、続けばいい。
屋敷の誰もが、口には出さずとも、そう願っていた。
その均衡が崩れたのは、ある日の午後だった。
「お客様がいらっしゃっております」
レイモンドの声には、珍しく緊張の色が滲んでいた。名を聞いたアルヴィスの表情が、わずかに強張る。
「エドガー叔父上か」
応接間に通されたのは、恰幅の良い、アルヴィスとよく似た灰白の髪を持つ男だった。年齢はリディアの父と同じくらいに見える。
「久しいな、アルヴィス」
エドガーはそう言いながら、部屋の隅に控えていたリディアへ視線を向けた。値踏みするような、冷ややかな目だった。
「そちらが、新しい奥方か。ほう……子爵家の、ね」
言葉尻に滲む侮蔑を、リディアは表情に出さず受け流した。アルヴィスの眉がわずかに動く。
「叔父上、リディアは私の妻です。それ以上でも以下でもありません」
「もちろん分かっている。ただ――」
エドガーはゆったりと椅子に腰を下ろすと言葉を続けた。
「お前の身体のことを思えばこそ、な。後継について、そろそろ真剣に考えるべき時期ではないかと思ってな」
部屋の空気が、一段と冷たくなった。
「後継は、フィアと決めています」
アルヴィスの声に、迷いはなかった。しかしエドガーは、その返答を予期していたかのように、ゆっくりと首を振る。
「フィアはまだ五つだ。公爵家の重責を背負えるようになるまで、あと何年かかると思っている? その間、この家を誰が支える?――失礼を承知で言わせてもらえば」
エドガーの視線が、再びリディアへ向いた。
「夫人は子爵家の出だ。公爵家の采配など、荷が重すぎるだろう。それに――お前の身体では、その"何年"を待てるかどうかも分からない」
その一言に、リディアの手が、わずかに膝の上で強張った。だが口を挟むことはできなかった。
アルヴィスは、静かにエドガーを見据えた。
「叔父上のご心配、痛み入ります。しかし」
一拍、間を置く。
「まだ死ぬつもりはありませんので。お引き取りください」
冷静な、しかし有無を言わさぬ声だった。エドガーの片眉が、わずかに上がる。
「……頑固なところは、兄上によく似ている」
そう呟くと、エドガーはゆっくりと立ち上がった。
「まあいい。今日のところは、顔を見に来ただけだ。――また、日を改めて参るとしよう」
そう言い残し、エドガーは応接間を後にした。
見送りに出たアルヴィスは、遠ざかっていく馬車を、玄関の前でしばらく見つめていた。
「アルヴィス様……」
リディアが声をかけようとしたが、その横顔を見て、言葉を呑み込んだ。
馬車が門を抜け、見えなくなった後も、アルヴィスの瞳には暗い色が残っていた。
「……今のは、私が招いたことだ」
ぽつりと、独り言のような声だった。
「叔父上の言うことも、理解できる……私が死ねばフィアは一人残される……」
リディアが何か言おうとする前に、アルヴィスは踵を返し、執務室の方へと戻っていった。その背中は、今朝よりも、少し重く見えた。




