21 フィアの笑顔(アルヴィス視点)
執務室を出たのは、珍しく気まぐれだった。
そんな気分になれる程度に体調が良かった。
少し風にでも当たろうと廊下に出たアルヴィスの足を止めたのは、厨房の方角から流れてくる甘い香りと、最近は聞き慣れた笑い声だった。
「おいしそうに焼けましたね」
「うん」
リディアとフィアの声だ。
アルヴィスは、厨房の入り口にそっと近付き中の様子をみた。開いた扉の隙間から、テーブルの端を掴み背伸びをして覗き込むフィアと、オーブンから取り出した皿をテーブルに置くリディアの姿が見えた。
「ハーブを混ぜているので、匂いが良いですね」
「お庭の草?」
フィアが少し驚いたように、目を瞬いている。「あの草を入れたの?」と言いたいのだろう。
「ふふ、そうですよ」
フィアを、微笑ましそうに見つめながらリディアが答えている。
フィアは「へぇ~」と鼻を近づけ匂いを嗅いでから、こくりと頷いた。それから、はにかむように小さな声で続けた。
「おとうさま、たべてくれるかな」
――その一言が、アルヴィスの胸を静かに、しかし確かに突いた。
フィアは、自分を恐れていると思っていた。
無理もない、とアルヴィスは思っていた。父親が血を吐き、魔力を暴走させる姿など、幼い子どもには衝撃的だろう。
――フィアの母も、そうだった。
政略で嫁いできた彼女は、もとより身体も心も強い方ではなく、慣れない公爵家での暮らしに気を張り詰めていた。それでもフィアが生まれた時は、確かに二人で喜んだ。他人同士が、フィアを通して家族になった――そう思えた。
しかし、長くは続かなかった。
アルヴィスの魔力暴走の現場を目撃した彼女は、恐怖に耐えきれず、屋敷を去った。彼女の怯えきった目を、アルヴィスは今でもふとした瞬間に思い出す。
病が発覚してから、アルヴィスはフィアと距離を置いた。
アルヴィスが亡くなったときにフィアが悲しまないように――最初から、情を持たせない方がいい。そう決めた。
レイモンド達も、アルヴィスの気持ちを察したのか、フィアとの関係について何か言ってくることはなかった。
フィアは年の割に大人しく感情表現の少ない子どもだった。
けれど今、目の前でフィアが浮かべているのは、年相応の無邪気な笑顔だった。
自分の前では、決して見せない顔だ。
喉の奥が、鈍く締めつけられる。
その顔を引き出したのはリディアだった。
嫉妬に似た感情がないと言えば嘘になる。しかし、それ以上に強かったのは、安堵だった。
(彼女と一緒なら……フィアは大丈夫……)
そう思った瞬間、ツキリと胸が痛んだ。ずっと蓋をしていた感情が、静かに漏れ出してきた。
遠ざけたのはフィアのためだと思い込んでいた。しかし本当はーーフィアとの思い出が増えるほど、死んでいく自分がその重みに耐えられない。そう恐れていただけなのかもしれない。娘を守るためではなく、自分が壊れないための距離だったのかもしれない。
アルヴィスは小さく自嘲した。
(まったく、情けない)
厨房の中では、フィアが小皿に載せた焼き菓子を、大事そうに両手で持ち上げていた。
「りでぃあ、これ、おとうさまにもってっていい?」
「もちろんです。後で薬湯と一緒に持って行きましょう」
「よろこんでくれる?」
「ええ、きっと喜んでくれますよ」
フィアの表情が、ぱっと明るくなる。
その笑顔は、アルヴィスに喜んで貰いたいという気持ちがこもっていた。
父親らしいことは、何一つしてやれていないアルヴィスを、それでもフィアは慕ってくれていた。
(いつ私がいなくなっても良いように、準備してきたのに……)
フィアを見ていると、気持ちが大きく揺らいだ。
『生きて、この子が大人になるところを見たい』
その願いは、これまで意図的に押し殺してきたものだった。願っても叶わないと分かっているから、願うことすら自分に許してこなかった。
けれど一度芽生えてしまった想いは、簡単には消えてくれそうになかった。
アルヴィスは静かに踵を返し、廊下の角へ身を隠した。
――生きたい。
誰にも聞かせるつもりのない思いが、静かな廊下に溶けて消えた。




