20 穏やかな昼食
昨日、アルヴィスが魔力暴走を起こし、意識を失った。
リディアの作った痛み止めを飲んだ、直後のことだった。
(もしかして、私の薬が……)
真っ先に浮かんだのは、その疑念だった。血の気が引き、指先まで冷たくなったのを覚えている。
「魔力暴走のあとは、身体に過度な負荷がかかる。いつも、こうして気を失うんだ……君の痛み止めのせいじゃない」
グレイの言葉に、少しだけ、肩の力が抜けた。それでも――アルヴィスが倒れたという事実そのものは、何一つ変わらない。心配な気持ちは、消えなかった。
リディアは、看病をさせてほしいと申し出た。
寝台の傍の椅子に腰かけ、リディアは、静かに眠るアルヴィスの顔を見つめ続けた。
カーテンの隙間から差し込む午後の光が、青白い横顔をぼんやりと照らしている。規則正しい呼吸が、時折、ひどく浅く感じられる瞬間があった。そのたびに、リディアは思わず身を乗り出し、胸の上下を確かめ、指先で脈を測った。
大丈夫、ちゃんと動いている――そう自分に言い聞かせながら、何度も、何度も繰り返した。
時計の針が進む音だけが、静かな部屋に響いていた。
「リディア様、そろそろ少し休んでください」
マーサに、そう声をかけられ、レイモンドも心配そうな顔で頷いていた。
「もう少しだけ」
リディアは、そう返した。
やがて診察に訪れたグレイに「目を覚ましたら、すぐに知らせる。今は休みなさい」と、有無を言わさぬ口調で部屋に帰された。
「目の下に、隈ができている。君も病人になるつもりか」
その一言に、リディアは自分でも気づいていなかった疲労を、ようやく自覚した。気を張り詰めていて、自分が疲れていることに気が付かなかった。
しかし、部屋に戻っても、なかなか寝つけなかった。目を閉じても、苦悶に顔を歪めたアルヴィスの姿が、瞼の裏に浮かんでは消える。それでも、横になっているだけで、いくらか身体は休まっていたようだった。
数時間が経った頃、控えめなノックの音とともに、レイモンドが顔を出した。
「リディア様。旦那様が、お目覚めになりました」
リディアは、すぐに部屋を出た。
アルヴィスは、顔色はまだ優れないが、意識ははっきりしているようだった。
「アルヴィス様……お加減はいかがですか?」
「……君の薬のおかげで、少し身体が楽になった」
その声は、掠れてはいたが、確かな実感の滲む響きだった。
顔色こそ悪いままだったが、アルヴィスの表情は、これまでリディアが見てきたどの顔よりも、穏やかで、取り繕った言葉ではないことは疑いようもなかった。
リディアは、詰めていた息を、ようやく吐き出した。
「良かった……本当に……」
安堵のあまり、声が微かに震えた。目の縁が、じんわりと熱くなる。
それを見て、アルヴィスは、少し困ったように視線を向けた。その瞳は、以前とは違う柔らかさが滲んでいた。
それから、数日が経った。
昼食のため、リディアは食堂を訪れていた。
この頃では、庭の手入れが終わると、そのままの流れでフィアと共に食事を取ることが多くなっていた。今日も、隣にはフィアが座っている。焼き菓子の話をしながら、リディアはスープに口をつけようとしていた。
その時、食堂の扉が開いた。
「――アルヴィス様?」
思わず、声が漏れた。
現れたのは、アルヴィスだった。
アルヴィスが食堂を訪れた姿を見たことは一度もなかった。いつも、執務室で食事をしていたからだ。
隣に座るフィアの肩が、びくりと強張るのが分かった。久しぶりに間近で顔を合わせる父親に、緊張しているのだろう。
食堂内の空気が、一瞬にして張り詰めた。
配膳をしていた使用人たちも、動きを止めている。誰もが、驚きを隠しきれない様子だった。予想外の出来事に、誰も、どう反応すればいいのか分からずにいるらしい。
(皆にとっても、思いがけないことだったのね)
そう理解しながら、リディアは、静まり返った空気の中で、ぎこちなく立ち尽くすアルヴィスへ視線を向けた。彼自身も、どこか居心地悪そうに、部屋の中を見回している。
このままでは、せっかくの機会が、気まずいだけの時間になってしまう。
リディアは、努めて明るい声で、口を開いた。
「アルヴィス様、ちょうど良かったです。今日のスープ、とても美味しいんですよ」
あえて、何でもないことのように、そう告げる。それから、フィアの方にも視線を向けた。
「フィア様も、そう思いませんか?」
問いかけられたフィアは、びくりと肩を揺らしたが、こくん、と小さく頷いた。
その様子に、張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。
アルヴィスは、しばらく戸惑うように立っていたが、やがて、静かに歩み寄り、リディアたちの向かいの席に腰を下ろした。
使用人たちが、慌てたように、しかしどこか嬉しそうに、食事の準備を整え始める。
スープが運ばれてくると、リディアは、何気ない調子で話を続けた。
「今日のスープ、庭で採れたハーブを少し使っているそうなんです。爽やかな香りがして、私、好きなんですよね」
誰へともなく呟くように言うと、フィアが、小さな声で答えた。
「……わたしも、すき」
少し緊張が解けた様子のフィアに、ホッとした。
「美味しいですよね」
それから、話題は、自然と庭の話へと移っていった。
「そういえば、球根から芽が出てきたんですよ。フィア様と一緒に見つけたんです」
「うん。ちいさい、みどりの、め」
たどたどしく言葉を継ぐフィアに、リディアは相槌を打ちながら、話を広げていく。薬草の話、庭に来る小鳥の話――特別なことは何もない、ただの他愛もない会話だった。
アルヴィスは、そのやり取りを、黙って見つめていた。時折、フィアの言葉に、微かに口元を緩めることもあった。自分から言葉を挟むことはなかったが、その沈黙は、これまでの張り詰めたものとは違う、穏やかな質を帯びていた。
食事が進むにつれ、フィアの肩からも、少しずつ力が抜けていくのが分かった。最初こそ俯きがちだったその顔が、今は時折、父親の方をちらりと窺うようになっている。
食事を終える頃には、食堂に満ちていた張り詰めた空気は、すっかり和らいでいた。
給仕をしていたレイモンドが、そっと目頭を押さえているのに、リディアは気づいた。
「……旦那様が、食堂でお食事をされたのは、何年ぶりでしょうな」
声が、微かに震えていた。長年この屋敷に仕えてきた執事の目に、今日の光景がどれほど深く映っているか、その一言だけで、十分に伝わってきた。
傍らでは、マーサが、エプロンの端でそっと目元を拭っている。
「本当に……本当に、良かったこと」
言葉を詰まらせながら、マーサは何度も頷いていた。
その様子に、フィアが不思議そうに首を傾げる。
「マーサ、ないてるの?」
「いいえ、嬉しいだけですよ、フィア様」
涙声のまま、マーサは笑った。
リディアは、その光景を、静かに見守っていた。窓から差し込む午後の光が、食堂全体を、柔らかく包み込んでいる。
まだ、ぎこちなさは残っている。それでも、この屋敷に、確かに何かが――これまで欠けていた、家族としての時間が、今、静かに芽生えようとしているのを、リディアは感じていた。




