19 痛みのない目覚め(アルヴィス視点)
意識が浮上する感覚とともに、アルヴィスは目を開けた。
(身体が……軽い?)
それは、ここ数年、すっかり忘れていた感覚だった。
寝台に横たわったまま、アルヴィスはしばらく、その違和感を確かめるように動けずにいた。指先を、そっと動かしてみる。掌を、握って、開く。いつもなら、それだけの動作にも鈍い痛みが伴うはずだった。それが今はーー確かに痛みはある。しかし、いつもとは比べ物にならないほど、軽かった。
(そうだ……私はリディアの薬を、飲んで)
そこから先の記憶は、途切れていた。
魔力暴走を起こした後は、いつも意識を失う。今回も、薬を飲んだ直後に、意識を手放したのだろう。
いつもであれば、全身が鉛のように重たく、指一本動かすことすら億劫なほどの倦怠感に苛まれる。骨の髄まで蝕むような痛みと、頭の芯が痺れるような気だるさ。それが、発作の後はより一層増強していた。
だが今は――その倦怠感も、痛みも、これまでとは明らかに違う。
消え去ったわけではないが、耐えることに全神経を集中させなくても、他のことを考える余裕がある。ただそれだけのことが、今のアルヴィスには、ひどく新鮮に感じられた。
程なくして、診察に訪れたグレイが、脈を取り、瞳孔を確認し、丁寧に容態を診ていった。
「……ほう」
記録を取りながら、グレイは何度か、感心したように呟いた。
「鎮痛効果は、これまでの薬より明らかに高い。想定していた以上だ」
「そうだな」
それは、アルヴィス自身が身をもって実感していた。
グレイは記録用紙から目を上げ、少し複雑な表情を見せた。
「しかし、魔力回路の安定作用は……薬湯の時と、大差ないな。軽微なものだな。まあ、魔力を込めて作った薬ではないのだから、当然か」
リディアの魔力が薬湯に作用しているらしいという話は、以前グレイから軽く聞いていた。
「引き続き、経過を見ていこう。無理はしないように」
そう言い残し、グレイは静かに部屋を出ていった。
一人になった部屋で、アルヴィスはもう一度、身体の感覚を確かめるように、ゆっくりと息を吐いた。
いつもであれば、こうして一人になった時間は、ただ痛みに耐えるだけの時間だった。誰にも弱った姿を見せたくなくて、歯を食いしばって、時計の針が進むのを待つだけの。
しかし今は、違った。
カーテンの隙間から差し込む光が、やけに眩しく感じられた。アルヴィスは、痛みに構える必要のない身体で、ゆっくりと寝台に身を起こし、窓の外へ目をやった。
庭の木々が、風に揺れている。いつも見ているはずの景色のはずなのに、今日はやけに鮮明に映った。普段であれば、窓の外を眺める余裕すらない。ただ耐えることだけで、頭がいっぱいになっていたからだ。
(こんなにも、はっきりと見えるものなのか)
そんな、場違いなほど穏やかな感慨が、静かに胸の内に広がっていった。
それから間もなく、控えめなノックの音がした。
「アルヴィス様、失礼致します」
扉の隙間から、リディアが顔を覗かせた。心配そうな表情が、そのまま部屋に入ってくる。
「お加減は、いかがですか?」
リディアはアルヴィスの顔色を確かめるように見つめた。その瞳には、隠しきれない不安が滲んでいる。
アルヴィスは、しばらく黙って、その顔を見返していた。
これまで、誰かにこれほど案じられたことが、あっただろうか。フィアの母も、これまで迎え入れた花嫁たちも、アルヴィスの病を恐れこそすれ、こうして真っ直ぐに、心配そうな顔を向けてくることはなかった。
思えば、自分の身体を気にかけてくれる者など、これまでほとんどいなかった。グレイは医師として当然の職務で診るし、レイモンドやマーサも、気遣ってくれるが、彼らは幼い頃からのアルヴィスを知っており、身内に近しい者だった。
こんな風に、全くの赤の他人から、身を案じる眼差しを向けられた記憶が――アルヴィスには、ほとんどなかった。
アルヴィスは、ゆっくりと口を開いた。
「……君の薬のおかげで」
言葉を選ぶように、一度言葉を切る。
「少し、身体が楽になった」
それは、アルヴィスにとって、久しぶりに誰かへ向けた、感謝に近い言葉だった。
リディアは、大きく目を見開いた。
しばらく、言葉が出てこないようだった。やがて、その顔いっぱいに、嬉しそうな笑みが広がっていく。
「本当ですか……? 良かった……!」
声が、微かに震えていた。よく見ると、その瞳の縁に、うっすらと涙が滲んでいる。
アルヴィスは、その表情から、目を逸らせなかった。
他人のために、これほど素直に喜べる人間がいるのか。
自分がこれまで生きてきた中で、感謝を伝えられて、涙まで浮かべてくれる相手など、一人もいなかった。
だから――目の前で涙ぐみながら笑うリディアの姿は、アルヴィスにとって、あまりにも見慣れないものだった。
窓から差し込む朝の光が、リディアの笑顔を、柔らかく照らしていた。
その笑顔を、アルヴィスは、ひどく眩しく感じた。
目を細めながらも、なぜか、視線を外すことができなかった。




