15 アルヴィスの副官カイル
リディアが廊下を歩いていると、向こうから、足早に歩いてくる人影があった。
アルヴィスの副官、カイルだ。
病で屋敷を出られないアルヴィスに代わり、領地の視察や、役人・他領との交渉、書類の受け渡しなど、対外的な用事の一切を担っている人物である。そのため、カイルはほとんど毎日のように屋敷を訪れていた。
これまで、言葉を交わす機会はなかったが、遠目に彼を見かけたことは何度かある。
以前、身なりの良い男が、アルヴィスへの面会を強く求めて屋敷を訪れたことがあった。焦れたようにレイモンドへ詰め寄るその男の前へ、カイルが割って入っていた。
「アルヴィス様はお会いになりません。その件は、私からお伝えいたします」
有無を言わさぬ硬い声で、男が食い下がろうとしても、カイルは眉一つ動かさず、同じ言葉を繰り返すだけだった。根負けしたように男が去っていくのを、リディアは少し離れた場所から見ていた。
アルヴィスに近づこうとする者を、一切通さない――まるで盾のような立ち姿だった。
そのカイルが今、両手いっぱいに書類を抱え、こちらへ向かって歩いてくる。
カイルもリディアの姿に気が付き、軽く会釈をした。
リディアは思わず声をかけていた。
「それは……アルヴィス様にお渡しする書類、ですよね?」
カイルは足を止め、怪訝そうにリディアを見た。
「そうですが。何か?」
抱えた書類は、両腕でようやく支えられる量だった。リディアの脳裏に、毎晩遅くまで、灯りの落ちない執務室の光景が浮かぶ。
「あの……少し、業務を詰め込みすぎではありませんか? アルヴィス様を、少しでも休ませてさしあげるべきかと」
カイルの表情が、わずかに硬くなった。
「アルヴィス様のご意思です……こちらに来たばかりの貴女に、何が分かるのですか?」
突き放すような物言いだった。それでいて、責めているというより、疲れ切ったような響きも混じっている。
「それは……」
リディアは、言葉に詰まった。
アルヴィスが日々どのような仕事を担い、どれほどの責務を負っているのか、リディアはほとんど何も知らない。カイルに言われるまでもなく、屋敷に来てまだ日の浅い自分が、口を出せることではないのは重々理解している。
(確かに、私はなにも知らない。だけど……何も知らないからと言って、黙って見過ごしたくはない)
知識がなくても、分かることはある。このままでは、いずれ壊れる。それだけは、はっきりと分かっていた。
カイルが疑うような目を向けてくるのも、無理のないことだった。それでも――このまま見過ごせば、アルヴィスの命が削られていくだけだ。
リディアは、俯きかけていた顔を上げた。
「確かに、私はアルヴィス様のお仕事について、何も存じません」
カイルが、わずかに目を細める。
「ですが、このままでは……お身体が、壊れてしまいます」
声は震えなかった。むしろ、自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。
「あなたは、アルヴィス様が壊れるまで、働かせ続けるおつもりですか?」
カイルの顔から、表情が消えた。
何か言い返そうとしたのか、口が微かに開きかけたが、言葉にはならなかった。
沈黙が落ちる。
廊下に立つカイルの腕の中で、書類の束が、わずかに軋んだ音を立てた。
「……では、どうしろと言うんですか」
絞り出すような声だった。抱えていた書類を、カイルは少しだけ強く胸に引き寄せた。
「私だって……アルヴィス様には、生きていて欲しいですよ。でも……」
その先が、続かなかった。
仕事を減らせば、公爵家の実務が滞る。この病状を知れば、家督に色目を使う者が現れないとも限らない。アルヴィス自身が、それを許さないだろう。そもそも、休めと言って素直に聞くような人ではない――そんな迷いが、言葉にならないまま、カイルの表情に滲んでいた。
その葛藤する顔を見て、リディアは、ふと、遠い記憶を思い出した。
(あの頃の、後輩と同じ顔だわ)
まだ大丈夫。あと少しだけ。そう自分に言い聞かせながら、際限なく働き続けていた、前世の自分。
心配した後輩に休んだほうがいいと言われても、聞く耳を持たなかった。仕事を放り出せば、誰かが困る。自分が頑張れば済むことだと、そう思い込んでいた。
その果てに倒れ、二度と目を覚ますことはなかった。
カイルの表情は、自分を心配してくれていた後輩と似ていた。
(ああ、この人もアルヴィス様のことを心配しているんだわ)
けれど、どうすることが正解か分からず板挟みになっている。
リディアは、それ以上カイルを責める言葉を続けることができなかった。
ただ、静かにそう思いながら、言葉を探すように、カイルを見つめ返した。
「ほんの少しだけでも良いんです。アルヴィス様が気が付かないくらいの休息でも」
休んで欲しいと言っても、アルヴィスが聞き入れてくれないことは分かっている。だから、本人が気が付かないくらいのささやかな休息を作って欲しい。これは副官であるカイルにしか出来ないことだ。
「気が付かない、くらいの……ですか」
リディアの提案が予想外だったらしく、カイルは目を丸くしている。
「はい。本当はゆっくり休んで欲しいですけど、難しいと思うので」
リディアが苦笑すると、つられたようにカイルも少しだけ表情を崩し「そうですね」と言った。




