9 フィアとの交流
嫁いだ初日、アルヴィスから頼まれたのはただ一つ、「娘の世話をしてほしい」ということだけだった。
それなのに、リディアはまだ、フィアと言葉を交わしたことすらない。庭で一度姿を見かけたきり、声をかける間もなく逃げられてしまって以来だった。
(どうすれば、フィア様とお近づきになれるかしら)
警戒されている相手だ。
それも幼い子どもを、無理やり懐柔しようとするのは悪手でしかない。焦れば焦るほど、フィアはますます心を閉ざしてしまうだろう。
そう分かってはいたものの、何もせずにいるのも落ち着かなくて、リディアは薬草の世話をしながら、ぼんやりとそんなことを考える日々を過ごしていた。
意外にも、その機会は自然に訪れた。
庭で土をいじっていると、視界の端に小さな人影が映るようになったのだ。
最初は遠く、木の陰からこちらを窺うだけだった。目が合うと、弾かれたように姿を隠してしまう。
それでも、しばらくすると、また同じ場所からそっと覗いている。
(ふふ、まるで子猫みたい)
リディアは声をかけたい衝動をぐっと堪えて、気づかないふりをした。代わりに、目が合った時にだけ、そっと微笑みかけてみる。
するとフィアは、驚いたようにサッと隠れてしまうのだが――それでも、次の日にはまた同じ場所に、小さな影が現れるのだった。
そんな、声のない交流が数日続いたある日のこと。
朝から薬草の植え替えをしていたリディアは、根の張り方を確認しながら土に向き合い続け、気づけば昼近くまで庭にしゃがみ込んでいた。
少し根を詰めすぎたかもしれない。
息抜きも兼ねて、リディアは厨房を借りることにした。前世でも、手が空いた時間にお菓子を作ることが、ささやかな気分転換だった。
注文していたハーブが余っていたのを思い出し、それを使ってクッキーを焼くことにする。生地を捏ね、型を抜き、オーブンに入れる――手を動かしているうちに、強張っていた肩がゆるんでいくのが分かった。
ふわりと甘い香りが漂い始めた頃、扉の陰から、そっと中を窺う気配に気づいた。
「……」
フィアだった。
銀の髪が扉の隙間から覗き、氷青の瞳が忙しなく動いている。焼きたてのクッキーが並んだ天板を見て、それからリディアの顔を見て、また天板に戻り――迷うように、その視線は何度も往復していた。
リディアは驚かせないよう、ゆっくりと膝を折り、フィアの目線に合わせてしゃがみこんだ。
「フィア様。よろしければ、少し召し上がりませんか?」
優しく問いかける。
フィアの視線が、びくりと跳ねるようにリディアの顔に向いた。それから、扉の取っ手と、クッキーの皿との間を、何度も行ったり来たりする。
逃げるべきか、それともこのままでいいのか――迷いがそのまま、目の動きに表れているようだった。
リディアは急かさなかった。ただ静かに、焼きたてのクッキーが載った皿を、フィアにも見えるように少しだけ差し出す。
甘い匂いが、扉の隙間から漂っていく。
フィアの視線が、皿の上でようやく止まった。
しばらくの沈黙の後、小さな足が、一歩、また一歩と、匂いに誘われるようにこちらへ近づいてきた。
ハーブそのままの味では、子どもには少し苦いだろう。そう考えてリディアは、あらかじめミルクとココアを混ぜて焼いた、甘いクッキーを選んで差し出した。
「どうぞ」
フィアは小さな手を伸ばし、恐る恐るクッキーを受け取った。上目遣いにリディアの様子を一度確かめてから、ぱくり、と小さな口で齧る。
もぐもぐと咀嚼する様子を、リディアは息を詰めて見守った。
「美味しいですか?」
そっと尋ねると、フィアは無言のまま、こくり、と小さく頷いた。
その、ほんの小さな頷きに――リディアの胸が、じんわりと温かくなる。
人に懐かない子猫が、初めて手のひらに擦り寄ってくれたときのような、そんな気持ちだった。




