9:父として
レイが浜辺で起こした一件から、三日が経った。
幸い、怪我人は出なかった。屋敷にも使用人にも、近隣の住民にも被害はない。浜辺の一部は大きく荒れ、周囲から熱を奪われた砂や海面には霜と薄氷が残っていたが、それも翌日にはほとんど消えていた。
結果だけを見れば、笑い話で済ませられるのかもしれない。
六歳の娘がこっそり攻撃魔術を試し、少々派手に失敗した。
それだけの話だ。
「……そんなわけがないだろう」
執務室の椅子に深く腰掛け、リードは一人呟いた。
机の上には、今回の一件についてまとめた報告書が置かれている。レイ本人への聞き取りに、マリーによる術式の推定。浜辺に残されていた魔力反応と、周囲への影響についても詳しく記されていた。
その隣には、ここ一月ほどマリーから提出されている、レイの魔術に関する記録帳もある。
リードはもう一度、事故報告書の最初の頁へ目を落とした。
レイが行ったこと自体は、理屈の上ではそれほど難解ではない。
周辺の熱を触媒となる物質へ集め、高温の状態で保持したまま海上へ射出する。少なくとも、術式はそこまでレイの意図した通りに働いていた。
問題は、その後だ。
レイ自身も予想していなかった現象が連鎖し、海面を大きく乱した。押し寄せた波は浜辺にまで達し、危うくレイを攫いかけた。
あの場にリードがいなければ、どうなっていたか分からない。
思い出すだけで、今でも背筋が冷たくなる。
あの日は、とにかく娘が無事だったことに安堵した。叱るべきことは山ほどあったが、それ以上に、あの子が生きていることが何より大切だった。
だが、三日も経てば少しは冷静になる。
そして第一級魔術師としてあの光景を振り返った時、父親とは別の立場で考えなければならないことが出てきた。
「……あれを、人に向けていたら」
考えたくはない。
しかし、アスター家当主としても、魔術師としても、目を背けるわけにはいかなかった。
もし、あの魔術が兵士の集団へ向けられていたらどうなっていただろう。
魔術による防御を持たない小隊程度なら、あの一撃で戦列が崩壊していても不思議ではない。直接の威力だけでなく、その後に起こる現象まで考えれば、被害がどこまで広がるか予測することすら難しい。
しかも、あれは大掛かりな儀式魔術ではなかった。
複数の魔術師を集めたわけでも、特別な魔道具を使ったわけでもない。事前に術式陣を刻んでいた様子もなかった。
六歳の子供が、一人で思いついた魔術を浜辺で試した。
ただ、それだけなのだ。
リードは椅子から立ち上がり、窓の外へ目を向けた。
遠くには、屋敷を囲む石壁が見える。
あの壁は頑丈だ。王国の建築士に、王城のものと同じ作りで作らせた。並の魔術師が一人でどうにかできるような代物ではない。
だが、もしレイが時間をかけて術式を組み、持てる魔力を惜しみなく注ぎ込み、純粋に破壊することだけを考えたなら。
「……城壁程度で、止まるのか?」
自分で口にしておきながら、嫌な気分になった。
大袈裟だと笑い飛ばしたかった。実際、レイがどこまで出来るのか、正確には分からない。
それでも、あの一撃を目の当たりにした以上、単なる杞憂だと片付けることもできなかった。
何より恐ろしいのは、あれがレイにとって本気の一撃ですらなかったことだ。
切り札でもなければ、師から教わった秘術でもない。
『強いやつを撃ってみたい』
そんな子供じみた好奇心から、自分で考えて試した魔術だった。
「……冗談ではないな」
リードは額に手を当てた。
魔力が多いだけなら、まだ理解できる。アスター家では珍しくないことだ。操作精度が高いのも、才能として説明できる。
しかし、レイの場合はそれだけでは済まない。
あの子は時折、リード自身ですら聞いたことのない知識を口にする。
水素、酸素、原子、分子。
マリーの記録には、それ以外にも見慣れない言葉がいくつも並んでいた。
本人に意味を尋ねても、『ものを作ってる小さいやつ』だとか、『もっと小さいのもある』だとか、曖昧な説明しか返ってこないらしい。
挙げ句には『たぶんこうだったと思う』で終わることもあるという。
普通なら、子供の思い違いだと片付けてしまうだろう。
だが、レイはその知識を使って魔術を成立させてしまう。それも、既存の理論では説明のつかない形で。
リードは隣に置いてあった記録帳を開いた。
『発生術式によって生成された物質が、術者による制御終了後も残存』
『形質模倣術式による生成物は、制御終了後に魔力へ還元』
『同一術者でありながら、生成方法によって残存性が変化』
『術者本人の認識が、生成物の性質に何らかの影響を及ぼしている可能性あり』
その先にも、いくつかの仮説が続いている。
マリーらしく、慎重な書き方だった。分かっていることと推測をきちんと分け、確証のない部分には必ずその旨が記されている。
それでも、読み進めるうちに、リードの頭には一つの言葉が浮かんでいた。
『魔法』
その言葉の持つ意味は、単に強力な魔術といった単純なものではない。
どれほど巨大な炎を生み出そうと、何百人もの兵士を倒せようと、既存の術式と理論で説明できるなら、それはあくまで魔術だ。
だが、魔法は違う。
現在の魔術学では説明できず、知られている世界の理からも外れている。それなのに、確かに成立してしまう現象。
そうした既存の体系では解き明かせない術を、人々は『魔法』と呼んでいた。
そして、それを己のものとして操る者が、魔法使い、あるいは魔女と呼ばれる。
世界を見渡しても、数えるほどしか存在しない者たちだ。
第一級魔術師であるリードも、何人かの名前は知っている。だが、彼らを単に第一級より優れた魔術師だと考えたことはなかった。
そもそも、魔法使いという存在は、魔術師の階級だけで測れるものではない。
常人とは異なる世界の見方を持ち、誰にも理解できない術を扱う。魔法使い同士で交流することはあっても、王侯の命令に従って軍へ所属するような者はほとんどいない。
仮に王が命じたところで、従わせられるとは限らないのだ。
爵位を与えて囲い込むことも、軍を差し向けて従わせることも難しい。一人一人が国家にとって無視できない存在である以上、各国も迂闊には手を出せない。
刺激せず、敵に回さず、必要があれば交渉する。
それが、魔法使いとの一般的な付き合い方だった。
では、そんな魔法に通じるかもしれない力が、六歳の娘に宿っているとしたら?
リードは思わず目を閉じた。
悪寒が背筋を通り抜け、身の毛がよだつような感覚がする。
考えたくもない話だった。
レイの発生魔術そのものが魔法なのか。それとも、何らかの未知の力によって得た知識が、あの子の魔術に影響しているのか。
あるいは、まだ誰も知らないだけで、魔術として説明できる現象なのかもしれない。
今の段階では、何一つ断定できない。
ただ、第一級魔術師である自分にも、第二級魔術師のマリーにも説明できない現象が、実際に目の前で起きている。
少なくとも、その可能性を疑うには十分だった。
「あなた、また難しい顔をしているわよ」
声をかけられ、リードは顔を上げた。
執務室の扉の前に、妻のリシアが立っていた。
「ノックは?」
「しました。三回も」
「……そうか」
「まったく。何をそんなに考え込んでいたの?」
リシアは部屋へ入ると、机の向かい側に腰を下ろした。広げられた報告書へ目を向ける。
「レイのこと?」
「ああ」
「怪我はなかったのでしょう?」
「なかった」
「なら、まずはそれを喜びましょうよ」
「お前は随分と簡単に言うな」
「簡単になんて考えていないわ」
穏やかな口調だったが、リシアの表情は真剣だった。
「私だって、話を聞いた時は肝が冷えたもの。あの子が無事だと分かるまで、どんな気持ちだったと思っているの?」
「それは……」
「でも、もう三日よ。いつまでも父親がそんな顔をしていたら、レイだって気にするでしょう?」
リードは口を閉じた。
確かに、その通りだった。
レイはあれでいて、周囲の様子をよく見ている。父親がいつまでも険しい顔をしていれば、何かあったのかと勘繰るだろう。
「……心配しているのは、それだけじゃないんだ」
リードは机の報告書へ視線を落とした。
「リシア。私は今まで、あの子の才能を喜んでいた」
「知っているわ」
「四歳で魔術を使った時もそうだ。窓を一枚駄目にしたというのに、最初に思ったのは『さすが私の娘だ』だった」
「だから怒ったのよ」
「……ああ」
その件については、今でも言い返せる気がしない。
「あの頃は、才能があればあるほど良いと思っていた。強くなれば自分の身を守れるし、アスター家に生まれた以上、魔術の才能があるのは悪いことではないからな」
「今は違うの?」
「いや、今でもそう思っている。ただ……」
リードは言葉を選んだ。
「私は、あの子が持っている力を甘く見ていたのかもしれない」
リシアの表情から、僅かに笑みが消えた。
「……あの魔術、そんなに凄かったの?」
「凄い、という言葉では片付けられない。異質なんだよ」
リードは静かに答えた。
「もし人に向けていれば、魔術師のいない兵の一団程度なら、あの一撃で戦えなくなっていたかもしれない」
「……六歳の子が?」
「ああ」
リシアは黙り込んだ。
「しかも、レイは自分の限界まで力を使ったわけじゃない。恐らく本人に聞けば、『ちょっと強い魔術を試したかった』程度のつもりだったんだろう」
「……あの子らしいわね」
「笑い事じゃないぞ」
「笑ってないわよ」
少しの間、二人とも口を開かなかった。
やがて、リシアが静かに尋ねた。
「それで、あなたはレイが怖いの?」
リードはすぐには答えられなかった。
娘が怖い。
そう言われると、ひどく嫌な気分になる。
確かに、あの魔術には恐ろしさを感じた。だが、それはレイという娘を恐れているのとは違う。
「……いや、違う」
リードは首を振った。
「レイが怖いんじゃない。あの子が、自分の力で何が起こるのか、まだ十分に分かっていないことが怖いんだ」
リシアは黙って聞いていた。
「普通の六歳児なら、そもそも扱える魔術に限界がある。魔力が足りなかったり、術式を組めなかったり、どこかで止まるものだ」
だが、レイは違う。
あの子には、今の魔術学では説明できない知識がある。本人も仕組みを完全には理解していないようなのに、それを使って魔術を成立させてしまう。
しかも、成功した先に何が起こるのかまでは考えが及んでいない。
「浜辺の件だってそうだ。あの子は魔術を成功させた。その結果、危うく自分が巻き込まれるところだったんだ」
「……そうね」
「今度も運良く助かるとは限らない」
あの日、波に攫われかけたレイの姿が脳裏に浮かぶ。
もう少し遅れていたら。
もう少し遠くにいたら。
考えたくもないが、どうしても考えてしまう。
「魔術をやめさせるの?」
「いや」
その問いには、迷わず答えられた。
「禁止しても、あの子はやるだろう」
「そうね、あなたの娘だものね」
「ああ、私の娘だからな」
「そこ、胸を張るところかしら」
「違うのか?」
「違います」
即答された。
少し傷つく。
「それじゃあ、どうするつもり?」
「教えるしかないだろうな」
リードは報告書を閉じた。
「危険だから触るな、では駄目なんだ。何が危険なのか、なぜ危険なのかを教えなければならない。魔術が成功したからといって、それで終わりではないこともな」
術式の完成だけを目標にしてはいけない。
狙った通りに発動したとしても、その先に何が起こるかまで考えられなければ、いつか取り返しのつかない失敗をする。
今のレイに必要なのは、もっと強い魔術でも、複雑な術式でもない。
自分の力を理解し、扱うための知識と経験だった。
「もし、本当にあなたが考えているような力を持っていたとしても?」
リシアにそう尋ねられ、リードは顔を上げた。
魔法。
その言葉が、また頭をよぎる。
だが、まだ確証はない。何より、六歳の娘を魔女かもしれないなどと呼びたくはなかった。
「……だからこそだ」
結局、そう答えるにとどめた。
リシアはしばらくリードを見つめていたが、それ以上は追及しなかった。
その時、扉が軽く叩かれた。
「失礼します」
入ってきたのは、先ほど人を遣って呼んでおいたマリーだった。いつも通りの落ち着いた表情で、腕には何冊かの帳面を抱えている。
「お呼びでしょうか、リード様」
「ああ。レイについて少し相談したくてな」
「浜辺の件でしたら、報告書にまとめましたが……」
「それもあるが、今日はこっちの話を聞きたい」
リードは机に置かれた、もう一冊の記録帳を指先で叩いた。
「発生魔術についてだ」
マリーの視線が記録帳へ向かう。
「……何でしょう?」
「率直に聞く。お前はレイの魔術をどう見ている?」
「どう、とは?」
「通常の発生魔術の範囲内だと思うか?」
マリーはすぐには答えなかった。
しばらく考え込んだあと、静かに口を開く。
「……分かりません」
「分からない?」
「はい」
「第二級魔術師のお前が、一月も調べてか?」
「だからこそです」
マリーは抱えていた帳面を机へ置いた。
「最初は特殊な発生術式だと思っていました。次に、アスター家の血統に由来する魔術ではないかと疑いましたし、魔力器官そのものに何か異常がある可能性も考えました」
「それで?」
「どれも、説明がつかない部分が残るんです」
マリーは記録帳の頁を開いた。
「例えば、形質模倣です。あれを使えば、レイさんも普通の発生魔術と同じように、制御終了後に消える虚構物質を作れます」
「ああ、報告にもあったな」
「ですが、自分の知識をもとに一から物質を構築すると、制御を終えても残ってしまう。同じ術者が、同じ発生系の魔術を使っているのにです」
「その違いは何だと思う?」
「……考え方、でしょうか」
マリーはそこまで言って、少し眉を寄せた。
「もちろん、まだ仮説にすぎません。ただ、あの子が何を作るつもりで、どうやって術式を組み立てているのか。それが関係している気がするんです」
「考え方か……」
「レイさんは、私たちとは違う知識を持っています。同じものを見ていても、頭の中ではまったく別の理屈を組み立てているのかもしれません」
その言葉を聞いた瞬間、リードは先ほどまで考えていたことを思い出した。
魔法使いは、常人とは異なる世界の見方をする。
そう言われている。
もちろん、それだけでレイが魔法使いだと決まるわけではない。
だが、偶然だと片付けるには引っかかる。
「マリー」
「はい」
「一つ、聞いてもいいか?」
リードは恐る恐る、その問いを口にする。
「……魔法の可能性は?」
マリーの手が止まった。
隣では、リシアが小さく息を呑む。
「……リード様」
「断定しろとは言っていない。可能性の話だ」
マリーは記録帳へ目を落とした。
しばらく沈黙が続く。
やがて、彼女は顔を上げた。
「否定は、できません」
静かな声だった。
「ただし、魔法だと判断できるだけの根拠もありません。少なくとも、今の私には分からないことの方が多すぎます」
「ああ。分かっている」
リードはゆっくり頷いた。
それでも、胸の奥に重いものが残った。
世界に数えるほどしかいない、魔法使いと呼ばれる者たち。
王侯ですら容易には干渉できず、一人で国のあり方に影響を及ぼしかねない存在。
もし、自分の娘がそんな存在になる可能性を秘めているとしたら。
普通の魔術師であれば、喜ぶべきことなのかもしれない。自分の子供が誰にも届かない領域へ進もうとしているのだ。親として、誇らしく思う部分もあるだろう。
だが、リードの口から出たのは、まったく別の言葉だった。
「……まだ子供なんだ」
マリーが驚いたように顔を上げた。
「リード様?」
「いや……すまない」
リードは小さく首を振った。
六歳だ。
魔術師としてどれほどの才能があろうと、未知の知識を持っていようと、あの子はまだ六歳なのだ。
朝になれば寝癖をつけて食卓に着くし、苦手な野菜を皿の端に寄せてリシアに叱られる。ロイスと喧嘩をして、泣きそうな顔で言い返していることだってある。
そんな子供が、魔法使いかもしれない。
そう考えると、ひどく落ち着かなかった。
強大な力を持つことと、その力を扱えることは別だ。
まして、周囲がその力をどう見るかなど、レイ自身にはまだ想像もつかないだろう。
もし魔法の可能性が知られれば、あの子を見る目も変わるかもしれない。
今まで通り、ただのアスター家の末娘として暮らせるのかどうか。
そこまで考えて、リードはやめた。
まだ何も分かっていない段階で、先のことばかり心配しても仕方がない。
今、自分にできることを考えるべきだ。
「……しばらく、私もレイの訓練を見ることにする」
「リード様が、ですか?」
「ああ。特に攻撃魔術については、私も直接教えようと思う」
「それは心強いですが……当主としてのお仕事は?」
「時間は作る」
その途端、横からリシアの視線が飛んできた。
「……仕事を後回しにするという意味ではないぞ」
「そう願います」
「信用がないな」
「日頃の行いです」
妻は厳しい。
マリーが口元に手を当て、僅かに笑っていた。
「マリー。お前に家庭教師を辞めてもらうつもりはない。むしろ、これからも今まで通り見ていてほしい」
「もちろんです」
「それと、レイが何か新しいことを言い出したら、出来る限り記録してくれ」
「新しい魔術のことでしょうか?」
「いや、魔術だけじゃない」
リードは記録帳へ目を向けた。
「新しい考え方だ。あの子が何を知っていて、どういう理屈で魔術を捉えているのか。それを少しずつ確かめたい」
マリーは少し驚いたようだったが、すぐに頷いた。
「分かりました。私も、そこは気になっていましたから」
「頼んだぞ」
そう言って、リードはようやく肩の力を抜いた。
魔法かどうかは、まだ分からない。
今すぐ答えを出す必要もないだろう。
それより先に、教えなければならないことが山ほどある。
何しろ、肝心の本人は六歳なのだから。
午後になり、仕事を一段落させたリードは屋敷の庭へ出た。
訓練場所の方から、聞き慣れた声がする。
「もう一回!」
「駄目です」
「なんで!」
「さっき五回やりましたよね」
「まだできる」
「できるかどうかの問題ではありません」
レイとマリーだった。
庭の隅に設けられた訓練場所で、二人が言い争っている。
いや、正確にはレイが一方的に抗議し、マリーが淡々と却下しているだけだった。
「マリー師匠、あと一回」
「駄目です」
「一回だけ」
「駄目です」
「じゃあ半回」
「……半回とは何ですか?」
「小さいやつ」
「駄目です」
リードは思わず笑ってしまった。
その声に気づいたのか、レイがこちらを振り返る。
「あ、父さん!」
「ちゃんと先生の言うことを聞いているか?」
「聞いてる」
「聞くだけで、従ってはいませんけどね」
すかさずマリーが訂正した。
「レイ?」
「……だいたい従ってる」
「レイ」
「はい」
こういうところを見ると、どこにでもいる普通の子供なのだと思う。
先ほどまで執務室で頭を悩ませていたのが、少し馬鹿らしくなってきた。
「父さん、今日から一緒にやるの?」
「ん? 聞いたのか?」
「母さんから」
早い。
あれから、まだそれほど経っていないというのに。
「そうだ。しばらく攻撃魔術については、私も一緒に教えることにした」
「ほんと!?」
「ああ」
レイの顔がぱっと明るくなった。
「じゃあ、強いやつ教えて!」
「まずは基本からだ」
「ええ……」
「不満か?」
「だって、マリー師匠と同じこと言ってる」
「いい先生だからな」
「……そうですか」
横でマリーが僅かに視線を逸らした。
照れているのだろうか。
付き合いはそれなりに長いが、彼女にもこういうところがあるらしい。
「それと、レイ。一つ約束してほしいことがある」
「なに?」
「これから新しい攻撃魔術を考えた時は、勝手に試さないこと」
「……はい」
途端に声が小さくなった。
浜辺での一件を思い出したのだろう。
「その代わり、私かマリー先生に見せなさい」
「見せたら止める?」
「危険なら止める」
「やっぱり……」
「だが、頭ごなしに駄目とは言わない。どうすれば安全に試せるか、一緒に考えよう」
レイはきょとんとした顔でリードを見上げた。
「……いいの?」
「ああ。ただし、安全に試せないものは、ちゃんと理由を説明する。その時は我慢しなさい」
「んー……」
レイは腕を組み、何やら真剣に考え始めた。
どうやら、よほど悩ましい条件らしい。
やがて、渋々といった様子で頷いた。
「……分かった。じゃあ見せる」
「約束だぞ」
「うん」
困った子だ。まったく、誰に似たのやら。
リシアに聞けば、間違いなく自分だと言われるのだろうが。
ふと、目の前のレイを見た。
まだ少し不満そうにしているが、それでもこちらの話を聞くつもりではいるらしい。時折、訓練用の的をちらちら見ているあたり、隙があれば魔術を撃ちたいのだろう。
けれど、そんな姿を見ていると、自然と笑みが浮かんでくる。
以前の自分なら、この子がどこまで強くなるのか、そればかり楽しみにしていただろう。
第一級魔術師になれるか。その先へ進めるか。いつかアスター家の名をさらに高めるような魔術師になるのではないか。
そんなことを考えていたはずだ。
だが、今は少し違う。
第一級魔術師でも、魔法使いでも、魔女でもいい。
いや、別にそんなものにならなくたって構わない。
ただ、レイが望むのなら、その道を無理に閉ざしたくはなかった。
この子には、きっと大きな才能がある。
それを無理に押さえつけることが、正しいとも思えない。ならばせめて、自分の力を理解し、責任を持って扱えるようになってほしい。
強いからといって、何でも出来ると思い上がることなく。かといって、その力を必要以上に恐れることもなく、失敗したら反省し、分からないことがあれば学べばいい。
そして何より、困った時には誰かを頼ってほしかった。
何もかも、一人で抱え込む必要はないのだから。
「父さん?」
「ん? ああ、どうした?」
「だから、始めないの?」
気がつけば、レイが不満そうに頬を膨らませていた。
どうやら、また考え事に夢中になっていたらしい。
「すまん、すまん。では始めようか」
リードは苦笑しながら、訓練用の的へ歩き出した。
いつかこの小さな子供が、自分の手を必要としなくなる日まで、俺は第一級魔術師としてでも、アスター家当主としてでもない。
ただ一人の父親として、レイが大人になる姿を見届けたい。
リードは切にそう願うのだ。




