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9/16

9:父として

 レイが浜辺で起こした一件から、三日が経った。

 幸い、怪我人は出なかった。屋敷にも使用人にも、近隣の住民にも被害はない。浜辺の一部は大きく荒れ、周囲から熱を奪われた砂や海面には霜と薄氷が残っていたが、それも翌日にはほとんど消えていた。

 結果だけを見れば、笑い話で済ませられるのかもしれない。

 六歳の娘がこっそり攻撃魔術を試し、少々派手に失敗した。

 それだけの話だ。


「……そんなわけがないだろう」


 執務室の椅子に深く腰掛け、リードは一人呟いた。

 机の上には、今回の一件についてまとめた報告書が置かれている。レイ本人への聞き取りに、マリーによる術式の推定。浜辺に残されていた魔力反応と、周囲への影響についても詳しく記されていた。

 その隣には、ここ一月ほどマリーから提出されている、レイの魔術に関する記録帳もある。


 リードはもう一度、事故報告書の最初の頁へ目を落とした。

 レイが行ったこと自体は、理屈の上ではそれほど難解ではない。

 周辺の熱を触媒となる物質へ集め、高温の状態で保持したまま海上へ射出する。少なくとも、術式はそこまでレイの意図した通りに働いていた。


 問題は、その後だ。

 レイ自身も予想していなかった現象が連鎖し、海面を大きく乱した。押し寄せた波は浜辺にまで達し、危うくレイを攫いかけた。

 あの場にリードがいなければ、どうなっていたか分からない。

 思い出すだけで、今でも背筋が冷たくなる。

 あの日は、とにかく娘が無事だったことに安堵した。叱るべきことは山ほどあったが、それ以上に、あの子が生きていることが何より大切だった。


 だが、三日も経てば少しは冷静になる。

 そして第一級魔術師としてあの光景を振り返った時、父親とは別の立場で考えなければならないことが出てきた。


「……あれを、人に向けていたら」


 考えたくはない。

 しかし、アスター家当主としても、魔術師としても、目を背けるわけにはいかなかった。

 もし、あの魔術が兵士の集団へ向けられていたらどうなっていただろう。

 魔術による防御を持たない小隊程度なら、あの一撃で戦列が崩壊していても不思議ではない。直接の威力だけでなく、その後に起こる現象まで考えれば、被害がどこまで広がるか予測することすら難しい。

 しかも、あれは大掛かりな儀式魔術ではなかった。

 複数の魔術師を集めたわけでも、特別な魔道具を使ったわけでもない。事前に術式陣を刻んでいた様子もなかった。


 六歳の子供が、一人で思いついた魔術を浜辺で試した。

 ただ、それだけなのだ。

 リードは椅子から立ち上がり、窓の外へ目を向けた。

 遠くには、屋敷を囲む石壁が見える。

 あの壁は頑丈だ。王国の建築士に、王城のものと同じ作りで作らせた。並の魔術師が一人でどうにかできるような代物ではない。

 だが、もしレイが時間をかけて術式を組み、持てる魔力を惜しみなく注ぎ込み、純粋に破壊することだけを考えたなら。


「……城壁程度で、止まるのか?」


 自分で口にしておきながら、嫌な気分になった。

 大袈裟だと笑い飛ばしたかった。実際、レイがどこまで出来るのか、正確には分からない。

 それでも、あの一撃を目の当たりにした以上、単なる杞憂だと片付けることもできなかった。

 何より恐ろしいのは、あれがレイにとって本気の一撃ですらなかったことだ。


 切り札でもなければ、師から教わった秘術でもない。

『強いやつを撃ってみたい』

 そんな子供じみた好奇心から、自分で考えて試した魔術だった。


「……冗談ではないな」


 リードは額に手を当てた。

 魔力が多いだけなら、まだ理解できる。アスター家では珍しくないことだ。操作精度が高いのも、才能として説明できる。

 しかし、レイの場合はそれだけでは済まない。

 あの子は時折、リード自身ですら聞いたことのない知識を口にする。

 水素、酸素、原子、分子。

 マリーの記録には、それ以外にも見慣れない言葉がいくつも並んでいた。

 本人に意味を尋ねても、『ものを作ってる小さいやつ』だとか、『もっと小さいのもある』だとか、曖昧な説明しか返ってこないらしい。

 挙げ句には『たぶんこうだったと思う』で終わることもあるという。

 普通なら、子供の思い違いだと片付けてしまうだろう。

 だが、レイはその知識を使って魔術を成立させてしまう。それも、既存の理論では説明のつかない形で。

 リードは隣に置いてあった記録帳を開いた。


『発生術式によって生成された物質が、術者による制御終了後も残存』

『形質模倣術式による生成物は、制御終了後に魔力へ還元』

『同一術者でありながら、生成方法によって残存性が変化』

『術者本人の認識が、生成物の性質に何らかの影響を及ぼしている可能性あり』


 その先にも、いくつかの仮説が続いている。

 マリーらしく、慎重な書き方だった。分かっていることと推測をきちんと分け、確証のない部分には必ずその旨が記されている。

 それでも、読み進めるうちに、リードの頭には一つの言葉が浮かんでいた。

『魔法』

 その言葉の持つ意味は、単に強力な魔術といった単純なものではない。

 どれほど巨大な炎を生み出そうと、何百人もの兵士を倒せようと、既存の術式と理論で説明できるなら、それはあくまで魔術だ。


 だが、魔法は違う。

 現在の魔術学では説明できず、知られている世界の理からも外れている。それなのに、確かに成立してしまう現象。

 そうした既存の体系では解き明かせない術を、人々は『魔法』と呼んでいた。

 そして、それを己のものとして操る者が、魔法使い、あるいは魔女と呼ばれる。

 世界を見渡しても、数えるほどしか存在しない者たちだ。

 第一級魔術師であるリードも、何人かの名前は知っている。だが、彼らを単に第一級より優れた魔術師だと考えたことはなかった。

 そもそも、魔法使いという存在は、魔術師の階級だけで測れるものではない。

 常人とは異なる世界の見方を持ち、誰にも理解できない術を扱う。魔法使い同士で交流することはあっても、王侯の命令に従って軍へ所属するような者はほとんどいない。

 仮に王が命じたところで、従わせられるとは限らないのだ。

 爵位を与えて囲い込むことも、軍を差し向けて従わせることも難しい。一人一人が国家にとって無視できない存在である以上、各国も迂闊には手を出せない。


 刺激せず、敵に回さず、必要があれば交渉する。

 それが、魔法使いとの一般的な付き合い方だった。


 では、そんな魔法に通じるかもしれない力が、六歳の娘に宿っているとしたら?


 リードは思わず目を閉じた。

 悪寒が背筋を通り抜け、身の毛がよだつような感覚がする。


 考えたくもない話だった。

 レイの発生魔術そのものが魔法なのか。それとも、何らかの未知の力によって得た知識が、あの子の魔術に影響しているのか。

 あるいは、まだ誰も知らないだけで、魔術として説明できる現象なのかもしれない。

 今の段階では、何一つ断定できない。


 ただ、第一級魔術師である自分にも、第二級魔術師のマリーにも説明できない現象が、実際に目の前で起きている。

 少なくとも、その可能性を疑うには十分だった。


「あなた、また難しい顔をしているわよ」


 声をかけられ、リードは顔を上げた。

 執務室の扉の前に、妻のリシアが立っていた。


「ノックは?」


「しました。三回も」


「……そうか」


「まったく。何をそんなに考え込んでいたの?」


 リシアは部屋へ入ると、机の向かい側に腰を下ろした。広げられた報告書へ目を向ける。


「レイのこと?」


「ああ」


「怪我はなかったのでしょう?」


「なかった」


「なら、まずはそれを喜びましょうよ」


「お前は随分と簡単に言うな」


「簡単になんて考えていないわ」


 穏やかな口調だったが、リシアの表情は真剣だった。


「私だって、話を聞いた時は肝が冷えたもの。あの子が無事だと分かるまで、どんな気持ちだったと思っているの?」


「それは……」


「でも、もう三日よ。いつまでも父親がそんな顔をしていたら、レイだって気にするでしょう?」


 リードは口を閉じた。

 確かに、その通りだった。

 レイはあれでいて、周囲の様子をよく見ている。父親がいつまでも険しい顔をしていれば、何かあったのかと勘繰るだろう。


「……心配しているのは、それだけじゃないんだ」


 リードは机の報告書へ視線を落とした。


「リシア。私は今まで、あの子の才能を喜んでいた」


「知っているわ」


「四歳で魔術を使った時もそうだ。窓を一枚駄目にしたというのに、最初に思ったのは『さすが私の娘だ』だった」


「だから怒ったのよ」


「……ああ」


 その件については、今でも言い返せる気がしない。


「あの頃は、才能があればあるほど良いと思っていた。強くなれば自分の身を守れるし、アスター家に生まれた以上、魔術の才能があるのは悪いことではないからな」


「今は違うの?」


「いや、今でもそう思っている。ただ……」


 リードは言葉を選んだ。


「私は、あの子が持っている力を甘く見ていたのかもしれない」


 リシアの表情から、僅かに笑みが消えた。


「……あの魔術、そんなに凄かったの?」


「凄い、という言葉では片付けられない。異質なんだよ」


 リードは静かに答えた。


「もし人に向けていれば、魔術師のいない兵の一団程度なら、あの一撃で戦えなくなっていたかもしれない」


「……六歳の子が?」


「ああ」


 リシアは黙り込んだ。


「しかも、レイは自分の限界まで力を使ったわけじゃない。恐らく本人に聞けば、『ちょっと強い魔術を試したかった』程度のつもりだったんだろう」


「……あの子らしいわね」


「笑い事じゃないぞ」


「笑ってないわよ」


 少しの間、二人とも口を開かなかった。

 やがて、リシアが静かに尋ねた。


「それで、あなたはレイが怖いの?」


 リードはすぐには答えられなかった。

 娘が怖い。

 そう言われると、ひどく嫌な気分になる。

 確かに、あの魔術には恐ろしさを感じた。だが、それはレイという娘を恐れているのとは違う。


「……いや、違う」


 リードは首を振った。


「レイが怖いんじゃない。あの子が、自分の力で何が起こるのか、まだ十分に分かっていないことが怖いんだ」


 リシアは黙って聞いていた。


「普通の六歳児なら、そもそも扱える魔術に限界がある。魔力が足りなかったり、術式を組めなかったり、どこかで止まるものだ」


 だが、レイは違う。

 あの子には、今の魔術学では説明できない知識がある。本人も仕組みを完全には理解していないようなのに、それを使って魔術を成立させてしまう。

 しかも、成功した先に何が起こるのかまでは考えが及んでいない。

「浜辺の件だってそうだ。あの子は魔術を成功させた。その結果、危うく自分が巻き込まれるところだったんだ」


「……そうね」


「今度も運良く助かるとは限らない」

 

 あの日、波に攫われかけたレイの姿が脳裏に浮かぶ。

 もう少し遅れていたら。

 もう少し遠くにいたら。

 考えたくもないが、どうしても考えてしまう。


「魔術をやめさせるの?」


「いや」


 その問いには、迷わず答えられた。


「禁止しても、あの子はやるだろう」


「そうね、あなたの娘だものね」


「ああ、私の娘だからな」


「そこ、胸を張るところかしら」


「違うのか?」


「違います」


 即答された。

 少し傷つく。


「それじゃあ、どうするつもり?」


「教えるしかないだろうな」


 リードは報告書を閉じた。


「危険だから触るな、では駄目なんだ。何が危険なのか、なぜ危険なのかを教えなければならない。魔術が成功したからといって、それで終わりではないこともな」


 術式の完成だけを目標にしてはいけない。

 狙った通りに発動したとしても、その先に何が起こるかまで考えられなければ、いつか取り返しのつかない失敗をする。

 今のレイに必要なのは、もっと強い魔術でも、複雑な術式でもない。

 自分の力を理解し、扱うための知識と経験だった。


「もし、本当にあなたが考えているような力を持っていたとしても?」


 リシアにそう尋ねられ、リードは顔を上げた。

 魔法。

 その言葉が、また頭をよぎる。

 だが、まだ確証はない。何より、六歳の娘を魔女かもしれないなどと呼びたくはなかった。


「……だからこそだ」


 結局、そう答えるにとどめた。

 リシアはしばらくリードを見つめていたが、それ以上は追及しなかった。

 その時、扉が軽く叩かれた。


「失礼します」


 入ってきたのは、先ほど人を遣って呼んでおいたマリーだった。いつも通りの落ち着いた表情で、腕には何冊かの帳面を抱えている。


「お呼びでしょうか、リード様」


「ああ。レイについて少し相談したくてな」


「浜辺の件でしたら、報告書にまとめましたが……」


「それもあるが、今日はこっちの話を聞きたい」


 リードは机に置かれた、もう一冊の記録帳を指先で叩いた。


「発生魔術についてだ」


 マリーの視線が記録帳へ向かう。


「……何でしょう?」


「率直に聞く。お前はレイの魔術をどう見ている?」


「どう、とは?」


「通常の発生魔術の範囲内だと思うか?」


 マリーはすぐには答えなかった。

 しばらく考え込んだあと、静かに口を開く。


「……分かりません」


「分からない?」


「はい」


「第二級魔術師のお前が、一月も調べてか?」


「だからこそです」


 マリーは抱えていた帳面を机へ置いた。


「最初は特殊な発生術式だと思っていました。次に、アスター家の血統に由来する魔術ではないかと疑いましたし、魔力器官そのものに何か異常がある可能性も考えました」


「それで?」


「どれも、説明がつかない部分が残るんです」


 マリーは記録帳の頁を開いた。


「例えば、形質模倣です。あれを使えば、レイさんも普通の発生魔術と同じように、制御終了後に消える虚構物質を作れます」


「ああ、報告にもあったな」


「ですが、自分の知識をもとに一から物質を構築すると、制御を終えても残ってしまう。同じ術者が、同じ発生系の魔術を使っているのにです」


「その違いは何だと思う?」


「……考え方、でしょうか」


 マリーはそこまで言って、少し眉を寄せた。

「もちろん、まだ仮説にすぎません。ただ、あの子が何を作るつもりで、どうやって術式を組み立てているのか。それが関係している気がするんです」


「考え方か……」


「レイさんは、私たちとは違う知識を持っています。同じものを見ていても、頭の中ではまったく別の理屈を組み立てているのかもしれません」


 その言葉を聞いた瞬間、リードは先ほどまで考えていたことを思い出した。

 魔法使いは、常人とは異なる世界の見方をする。

 そう言われている。

 もちろん、それだけでレイが魔法使いだと決まるわけではない。

 だが、偶然だと片付けるには引っかかる。


「マリー」


「はい」


「一つ、聞いてもいいか?」


 リードは恐る恐る、その問いを口にする。


「……魔法の可能性は?」


 マリーの手が止まった。

 隣では、リシアが小さく息を呑む。


「……リード様」


「断定しろとは言っていない。可能性の話だ」


 マリーは記録帳へ目を落とした。

 しばらく沈黙が続く。

 やがて、彼女は顔を上げた。


「否定は、できません」


 静かな声だった。


「ただし、魔法だと判断できるだけの根拠もありません。少なくとも、今の私には分からないことの方が多すぎます」


「ああ。分かっている」


 リードはゆっくり頷いた。

 それでも、胸の奥に重いものが残った。

 世界に数えるほどしかいない、魔法使いと呼ばれる者たち。

 王侯ですら容易には干渉できず、一人で国のあり方に影響を及ぼしかねない存在。

 もし、自分の娘がそんな存在になる可能性を秘めているとしたら。


 普通の魔術師であれば、喜ぶべきことなのかもしれない。自分の子供が誰にも届かない領域へ進もうとしているのだ。親として、誇らしく思う部分もあるだろう。

 だが、リードの口から出たのは、まったく別の言葉だった。


「……まだ子供なんだ」


 マリーが驚いたように顔を上げた。


「リード様?」


「いや……すまない」


 リードは小さく首を振った。


 六歳だ。

 魔術師としてどれほどの才能があろうと、未知の知識を持っていようと、あの子はまだ六歳なのだ。

 朝になれば寝癖をつけて食卓に着くし、苦手な野菜を皿の端に寄せてリシアに叱られる。ロイスと喧嘩をして、泣きそうな顔で言い返していることだってある。


 そんな子供が、魔法使いかもしれない。

 そう考えると、ひどく落ち着かなかった。


 強大な力を持つことと、その力を扱えることは別だ。

 まして、周囲がその力をどう見るかなど、レイ自身にはまだ想像もつかないだろう。

 もし魔法の可能性が知られれば、あの子を見る目も変わるかもしれない。

 今まで通り、ただのアスター家の末娘として暮らせるのかどうか。


 そこまで考えて、リードはやめた。

 まだ何も分かっていない段階で、先のことばかり心配しても仕方がない。

 今、自分にできることを考えるべきだ。


「……しばらく、私もレイの訓練を見ることにする」


「リード様が、ですか?」


「ああ。特に攻撃魔術については、私も直接教えようと思う」


「それは心強いですが……当主としてのお仕事は?」


「時間は作る」


 その途端、横からリシアの視線が飛んできた。


「……仕事を後回しにするという意味ではないぞ」


「そう願います」


「信用がないな」


「日頃の行いです」


 妻は厳しい。

 マリーが口元に手を当て、僅かに笑っていた。


「マリー。お前に家庭教師を辞めてもらうつもりはない。むしろ、これからも今まで通り見ていてほしい」


「もちろんです」


「それと、レイが何か新しいことを言い出したら、出来る限り記録してくれ」


「新しい魔術のことでしょうか?」


「いや、魔術だけじゃない」


 リードは記録帳へ目を向けた。


「新しい考え方だ。あの子が何を知っていて、どういう理屈で魔術を捉えているのか。それを少しずつ確かめたい」


 マリーは少し驚いたようだったが、すぐに頷いた。


「分かりました。私も、そこは気になっていましたから」


「頼んだぞ」


 そう言って、リードはようやく肩の力を抜いた。

 魔法かどうかは、まだ分からない。

 今すぐ答えを出す必要もないだろう。

 それより先に、教えなければならないことが山ほどある。

 何しろ、肝心の本人は六歳なのだから。






 午後になり、仕事を一段落させたリードは屋敷の庭へ出た。

 訓練場所の方から、聞き慣れた声がする。


「もう一回!」


「駄目です」


「なんで!」


「さっき五回やりましたよね」


「まだできる」


「できるかどうかの問題ではありません」


 レイとマリーだった。

 庭の隅に設けられた訓練場所で、二人が言い争っている。

 いや、正確にはレイが一方的に抗議し、マリーが淡々と却下しているだけだった。


「マリー師匠、あと一回」


「駄目です」


「一回だけ」


「駄目です」


「じゃあ半回」


「……半回とは何ですか?」


「小さいやつ」


「駄目です」


 リードは思わず笑ってしまった。

 その声に気づいたのか、レイがこちらを振り返る。


「あ、父さん!」


「ちゃんと先生の言うことを聞いているか?」


「聞いてる」


「聞くだけで、従ってはいませんけどね」


 すかさずマリーが訂正した。


「レイ?」


「……だいたい従ってる」


「レイ」


「はい」


 こういうところを見ると、どこにでもいる普通の子供なのだと思う。

 先ほどまで執務室で頭を悩ませていたのが、少し馬鹿らしくなってきた。


「父さん、今日から一緒にやるの?」


「ん? 聞いたのか?」


「母さんから」


 早い。

 あれから、まだそれほど経っていないというのに。


「そうだ。しばらく攻撃魔術については、私も一緒に教えることにした」


「ほんと!?」


「ああ」


 レイの顔がぱっと明るくなった。


「じゃあ、強いやつ教えて!」


「まずは基本からだ」


「ええ……」


「不満か?」


「だって、マリー師匠と同じこと言ってる」


「いい先生だからな」


「……そうですか」


 横でマリーが僅かに視線を逸らした。

 照れているのだろうか。

 付き合いはそれなりに長いが、彼女にもこういうところがあるらしい。


「それと、レイ。一つ約束してほしいことがある」


「なに?」


「これから新しい攻撃魔術を考えた時は、勝手に試さないこと」


「……はい」


 途端に声が小さくなった。

 浜辺での一件を思い出したのだろう。


「その代わり、私かマリー先生に見せなさい」


「見せたら止める?」


「危険なら止める」


「やっぱり……」


「だが、頭ごなしに駄目とは言わない。どうすれば安全に試せるか、一緒に考えよう」


 レイはきょとんとした顔でリードを見上げた。


「……いいの?」


「ああ。ただし、安全に試せないものは、ちゃんと理由を説明する。その時は我慢しなさい」


「んー……」


 レイは腕を組み、何やら真剣に考え始めた。

 どうやら、よほど悩ましい条件らしい。

 やがて、渋々といった様子で頷いた。


「……分かった。じゃあ見せる」


「約束だぞ」


「うん」


 困った子だ。まったく、誰に似たのやら。

 リシアに聞けば、間違いなく自分だと言われるのだろうが。


 ふと、目の前のレイを見た。

 まだ少し不満そうにしているが、それでもこちらの話を聞くつもりではいるらしい。時折、訓練用の的をちらちら見ているあたり、隙があれば魔術を撃ちたいのだろう。


 けれど、そんな姿を見ていると、自然と笑みが浮かんでくる。

 以前の自分なら、この子がどこまで強くなるのか、そればかり楽しみにしていただろう。

 第一級魔術師になれるか。その先へ進めるか。いつかアスター家の名をさらに高めるような魔術師になるのではないか。

 そんなことを考えていたはずだ。


 だが、今は少し違う。


 第一級魔術師でも、魔法使いでも、魔女でもいい。

 いや、別にそんなものにならなくたって構わない。

 ただ、レイが望むのなら、その道を無理に閉ざしたくはなかった。


 この子には、きっと大きな才能がある。

 それを無理に押さえつけることが、正しいとも思えない。ならばせめて、自分の力を理解し、責任を持って扱えるようになってほしい。


 強いからといって、何でも出来ると思い上がることなく。かといって、その力を必要以上に恐れることもなく、失敗したら反省し、分からないことがあれば学べばいい。


 そして何より、困った時には誰かを頼ってほしかった。

 何もかも、一人で抱え込む必要はないのだから。


「父さん?」


「ん? ああ、どうした?」


「だから、始めないの?」


 気がつけば、レイが不満そうに頬を膨らませていた。

 どうやら、また考え事に夢中になっていたらしい。


「すまん、すまん。では始めようか」


 リードは苦笑しながら、訓練用の的へ歩き出した。

 

 いつかこの小さな子供が、自分の手を必要としなくなる日まで、俺は第一級魔術師としてでも、アスター家当主としてでもない。

 ただ一人の父親として、レイが大人になる姿を見届けたい。

 リードは切にそう願うのだ。

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