10:11歳
—マリー—
レイ・フォン・アスターが十一歳になった。
私が彼女の家庭教師になってから、もう随分長い。
初めて会った頃のレイは、妙に物分かりがいいくせに言葉はたどたどしく、魔術の話になればこちらの常識では理解できないことを平然と言い出す、なんとも掴みづらい子供だった。
窓を溶かし、浜辺を吹き飛ばしかける。
今になって思えば、私もよく家庭教師を辞めなかったものだとしみじみ思う。
「マリー師匠、見てろよ!」
「見ていますから、前を見てください」
訓練場の中央を、レイが駆けている。五年前と比べれば背も伸び、長かった髪も「邪魔」という理由で肩口ほどに切られていた。
黙って立っていれば名門貴族の令嬢らしい顔立ちをしているのに、口を開けば近所の少年である。
「ロイス兄! 右!」
「言われて右を向く馬鹿がいるか!」
「いるじゃん!」
「お前だよ!」
ロイス様の剣が横薙ぎに振るわれる。
レイは後ろへ退かず、踏み込む寸前に足元の空気だけを圧縮し、その反力で横へ体を滑らせた。
人間が普通に跳べる距離ではないが、使われた魔力そのものはごく僅かだ。
剣が空を切った直後には、生成魔法で作られた細い糸——おそらくは金属線を訓練場の柱へ巻き付けて、レイは体を引く。
空中で進行方向を変えた彼女はそのままロイス様の背後へ回り込んだが、ロイス様もそう簡単には終わらない。
振り返りざまに剣を返されると、レイは金属線を切って、今度は足元の砂だけを滑らせて低い姿勢のまま距離を取った。
「逃げんな!」
「戦略的撤退だ!」
「格好つけんなよ!」
五年前のレイなら、ここでより強い魔術を使おうとしただろう。
だが今は、状況を一つの術式で押し潰そうとはしない。ロイスが再び距離を詰めると、腰の小瓶から少量の水を散らし、視界の一部を乱す。その程度では当然止まらないと分かっているからこそ、次の一手がある。水滴を突っ切ったロイスの視界の端へ、暗い光が灯った。
『虚光灯籠』
冷気を伴う精霊魔術。しかし攻撃するためではない。突然視界の近くへ現れた異質な光に、ほんの一瞬だけ意識が向く。その一瞬でレイは懐へ潜り込み、訓練用の小さなナイフを即興で作り出す。
危険を感じたロイスは、咄嗟に魔法を使って、高く飛び上がる。
「っぶねえ!!」
「させるかよ!!」
レイはロイスの手のひらの下で渦巻く風の塊にキッと視線を集中させる。
すると、ロイスはたちまち姿勢を崩して地上へ落下した。
これは、数週間前にレイが開発した新魔術『魔術妨害』の効果である。
不完全な魔術であれば、見つめるだけで一秒と経たず崩壊させることができ、魔術の性質や癖をよく知る相手であれば、制御下にあろうと崩壊させられる、とんでもない魔術である。
原理は……私もよく分かっていない。
「終わり」
急いで立ち上がろうとするロイスに剣のき切っ先をむけ、レイそう宣言した。
「……くそっ! まいった。」
「俺の勝ち!」
「今の魔術ありかよ!」
「魔術ありの模擬戦なんだからありだろ」
レイは手の中で木製のナイフを弄びながら、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「お前、昔みたいに正面からドカンと来いよ!」
「嫌だよ。兄貴相手にデカいの撃ったら母さんに怒られる」
「そりゃあ、そうだけど」
私は記録帳へ『ロイス様との模擬戦、三勝二敗』と記し、その横に『大規模術式なし』と書き加えた。
五年前なら考えられなかったことだ。あの頃のレイは、魔力が余っていれば使い、もっと出せそうならもっと出そうとした。
おそらく、そのころは自分がどこまで出来るのかを知ること自体が目的になっていたのだろう。
それが今では、空気を少し動かし、糸を一瞬だけ作り、地面の摩擦を変え、水を散らし、精霊へ短く働きかける。
一つ一つは決して高位の術ではない。だが、彼女はそれを体術の中へほとんど間を置かず組み込み、自分の身体を自由自在に操っている。
五年前のレイが砲台だったとするなら、今の彼女は火薬筒やナイフのようなものだろう。
一発の威力ではなく、細かな選択肢の多さで相手を追い込む。一対一に限って言えば、今の方が遥かに相手をしたくない。
「マリー」
隣から声をかけてきたのはリリ様だった。レイに対して彼女は、昔よりさらに落ち着いた雰囲気を纏っている。
「レイ、強くなったでしょう?」
「はい」
「なんだか不満そうね」
「不満ではありません。ただ、随分変わったなと思いまして」
「昔は凄かったものね。五六才の頃なんか、窓を溶かして、海を吹き飛ばしかけて、父様まで母様に叱られて」
「最後は関係ないのでは」
「面白かったから」
リリ様は笑いながら訓練場へ視線を戻した。ちょうどロイス様がレイを捕まえ、仕返しとばかりに頭を乱暴に撫で回している。
「こいつめぇ!」
「やめろ! 髪ぐちゃぐちゃになるだろ!」
「お前が生意気だからだ!」
「マリー師匠、助けて!」
「兄妹喧嘩に教師を巻き込まないでください」
「この薄情者!」
「レイ。」
低い声が飛んだ。訓練場の入口に立っていたリシア様が、にこりともせずこちらを見ている。
「今、マリーさんに何と言ったの?」
「……尊敬する偉大な師匠?」
「違うでしょう?」
「ごめんなさい」
その早さにロイス様が笑った。
「お前、母さんには弱いよな」
「兄貴もだろ」
「俺はもう大人だから」
「ロイス」
「はい母さん」
同じだった。リリ様が吹き出し、私もつられて少し笑う。
「でも、私は今のレイの方が好きよ」
リリ様がぽつりと言った。
「どうしてです?」
「楽しそうだから」
言われてみれば、その通りかもしれない。昔のレイも魔術を楽しんでいた。ただ、あの頃は魔術そのものを解き明かすこと、自分に何が出来るのかを確かめることに夢中だった。今は違う。出来ることを増やすより、持っているものをどう使えば上手くいくかを考えている。だからだろうか。以前より強くなっているのに、見ているこちらの怖さは減っていた。
「……そうですね。今の方が、安心して見ていられます」
そう答えると、リリ様は満足そうに笑った。
—レイ—
その夜、俺は机の上に細かな道具を並べながら、今日の模擬戦を思い返していた。
細い金属線、水の入った小瓶、いくつかの石、それとマリー師匠から借りた魔術書。五年前の俺ならきっと、これを見てもただの小道具にしか見えなかっただろう。
だが今は違って見える。
足を止める。視界を切る。攻撃の向きをずらす。相手の死角へ動く。それさえできれば小さな魔術で十分だし、これが案外どの魔術よりも効果的なのだ。
ベッドの方ではロイス兄が勝手に寝転がり、俺の机を覗いていた。
「何だよこれ。武器ないじゃん」
「ある」
「どこに?」
「その辺」
「その辺って」
「金属線は移動用。水は視界切ったり、必要なら冷やしたり。石は飛ばす」
「結局石投げじゃねえか」
「石は強いぞ。これ1個でジャイアントグリズリーを三体はぶっ殺せる」
「夢がねえ上に物騒だなー」
「剣一本の奴に言われたくねえよ」
「剣は格好いいだろ!」
そんな、くだらない言い争いをしていると、リリ姉が部屋へ入ってきた。
「二人とも、まだ起きてたの?」
「レイに戦い方を教えてた」
「何も教わってねえよ」
俺が即座に否定すると、リリ姉は苦笑した。
「でも、レイって本当に変わったわよね。昔はもっと派手な魔術が好きだったでしょう?」
「今も好きだって」
「じゃあ、どうして使わないの?」
少し考える。
「怖いから、かな」
ロイス兄が変な顔をした。
「お前が?」
「俺が。」
「屋敷を三度吹っ飛ばしかけた奴が怖いもの?」
「だからだよ」
あの時のことは、今でも覚えている。術式は成功した。ちゃんと飛んだ。狙った場所にも届いた。それなのに、その先を考えていなかった。
「大きい魔術って強いだろ。でも、強いってことは、外した時も強いし、間違った時も強い。想定外が起きた時も強いんだよ。撃った先とか、外れた先とか、触媒とか、周りにいる奴とか、終わった後とか。ちゃんと考えると、すげえ面倒」
「それで小さい術ばっかり?」
「これで勝てるなら、それでよくない?」
机の金属線を持ち上げると、リリ姉が笑った。
「随分堅実になったのね」
「大人になったんだよ」
「十一歳で?」
「十一歳は大人だろ」
「子供よ」
「俺、精神的にはもっと大人だから」
「言ってろよ」
と、ロイスが鼻で笑い飛ばした。
くだらない話題で駄弁りながら、何となく手を伸ばすとその先で、夕食後に父さんから渡されたダーニャ姉の手紙が目に入った。
封を切れば、内容は相変わらず短い。
元気にしていること、授業が忙しいこと、次の長期休暇には帰れるかもしれないこと。それから最後に一文。
『レイ。父様から、貴女が最近ロイス兄様を魔術で転ばせて遊んでいると聞きました。ほどほどにしてくださいね』
「父さん!」
思わず叫ぶ。
「なんでチクってんだよ!」
「聞こえているぞー」
廊下の向こうから声が返った。
廊下を歩いて自室へ向かっている途中の父さんのものである。
「聞こえるように言った!」
「レイ、言葉遣い!」
今度は母さん。
静かな怒声が響いた。
「ごめんなさい!」
反射で謝ると、ロイス兄が腹を抱えて笑った。
何がそんなに面白いんだ。
うるさい家だ。会話だけ聞けば、到底貴族の家の会話だとはだれも思わないだろう。
父さんはすぐ口を出す。母さんは怖い。ロイス兄は絡んでくる。リリ姉は横で笑っている。ルーク兄は何かにつけて俺を子供扱いする。ダーニャ姉は遠くから説教してくる。マリー師匠は今でも俺が無茶をすると記録帳を開く。
でも、多分俺は、こういうのが好きなんだと思う。
五年前は、六年後に何が起こるかばかり考えていた。強くならなければ、この家がなくなるかもしれない。その考えは今でも消えていない。
ただ、城を吹き飛ばせる大魔術の使い勝手が相当悪いと学んだだけだ。
昔より弱くなったつもりはない。
むしろ逆だ。
きっと海を吹き飛ばしかけた頃の俺では、ロイスには手も足も出せずに負けていただろう。
そうだ、俺は強くなったのだ。




