12:襲撃-前編
リードが王都へ発ってから、四日目の夜だった。
—レイ—
午前二時を少し回った頃、東棟の塔から見える景色は、ここ数日と何一つ変わっていなかった。月明かりに照らされた庭園は青白く、刈り揃えられた生垣の影が石畳へ長く落ちている。屋敷を囲む外壁の向こうには森が広がり、さらにその先には夜の暗さへ溶け込んだ畑と街道が続いていた。海側へ目を向ければ、裏手の入り江には細い月光が揺れ、寄せる波だけが規則正しく白く砕けている。
静かだった。
静かすぎる、と言えばそれらしいのだろうが、実際には昨日も一昨日も同じだった。父さんが屋敷を出てからというもの、俺たちは毎晩ほとんど同じ配置につき、日付が変わっても何も起こらない庭を眺め続けている。初日こそ全員が張り詰めていたが、四日目ともなると疲労の方が大きくなり始めていた。
「……今日も来なかったら、明日は少し交代を増やした方がいいわね」
すぐ隣で、リリ姉が小さく欠伸を噛み殺した。いつものような長い詠唱杖は持たず、腰に短い補助杖だけを差している。精霊の気配を拾うため、ここ数日はほとんどまともに眠っていない。
「俺が昼寝するからいいよ」
「そういう問題じゃないの。レイも寝てないでしょう?」
「三時間くらい寝たよ、問題ない」
俺は塔の胸壁に肘を乗せ、横に立て掛けていた長い銃を手に取った。
エルテナ帝国製のライフル銃。ここに来たばかりの俺なら、見た瞬間に「異世界なのに銃あるじゃん」と妙な感動でもしていただろうが、今となっては見慣れたものだった。
この世界では魔術があるせいで銃器の発達は妙なところで止まっている。騎士や魔術師を相手にするには力不足で、連発すらできない。だから軍でも補助武器扱いだ。
俺が使っているこれは、その辺りを魔術でかなり誤魔化してある。銃そのものを壊さないように補強し、照準のずれを操作魔術で抑え、撃った後の反動も可能な限り逃がす。
ただし、今夜の役目は人を撃ち抜くことではない。
射線に沿って下位精霊へ働きかけ、狙った相手へ意識を落とす催眠をかける。遠くの人間を殺さず無力化するには、俺が知っている中ではこれが一番扱いやすかった。
「……レイ」
リリ姉の声色が変わった。
俺もすぐに銃口を下げる。
「来た?」
「まだ分からない。ただ……変」
リリ姉は目を閉じ、塔の外へ意識を向けた。精霊術師が何を見ているのか、俺には今でも完全には分からない。
下位精霊は生き物というより、風や水や熱にほんの僅かな意思が宿ったような存在だ。こちらの命令には応じるが、犬や馬のように行動を追えるわけではない。まして俺たちと違う精霊術師がどこで何をしているかなど、同じ術を使えるリリ姉でも簡単には分からない。
それでも、長く精霊魔術を扱っている人間にだけ分かる違和感はあるらしい。
「北側の林……精霊が妙な集まり方をしてる」
「襲撃者?」
「分からない。でも、何かが来てる」
俺は通信石を握った。
「ルーク兄、聞こえる?」
『聞こえてる』
「北側。リリ姉が異常を拾った」
『了解。ロイスにも回す』
その返事が終わるより先に、正門の方角で灯りが一つ消えた。
続いて、もう一つ。
門柱に設置されていた魔導灯が、順番にではなく、ほとんど同時に暗闇へ沈む。
「来た」
リリ姉が呟いた。
直後、屋敷正面から、乾いた破裂音が響いた。
地面が小さく震え、門扉の中央に一筋の亀裂が走る。続く二発目で蝶番の一つが弾け、厚い門が内側へ傾いた。
それまで眠っていた屋敷が、一瞬で目を覚ました。
窓に灯りがつく。遠くから使用人たちの声が聞こえる。庭を巡回していた警備の兵が走り、正門側へ向かおうとする。
「母さんに連絡。避難開始」
「分かった」
俺は銃を肩へ当て、暗い庭園の先を見る。
門が完全に倒れ、その向こうから、人影が流れ込んでくる。
一人や二人ではない。二十人以上はいる。
「……多いな」
だが、ここまでは想定通りだ。
—ルーク—
正門が倒れた音を聞いた時、ルークはすでに玄関前へ出ていた。
月明かりの下、折れた門扉の向こうから二十を超える人影が敷地へ入り込んでくる。先頭の何人かは剣と盾を持ち、その後ろには杖を携えた者がいる。服装に統一性はない。傭兵のような革鎧もいれば、軍用に近い軽装鎧を着た者もいた。
だが所属を示す紋章だけは徹底して外されていた。
「随分と大所帯だな」
ルークは鞘から剣を抜いた。長剣にしてはやや細身で、装飾も少ない。幼い頃から使い続けている型に合わせ、何度も作り直してきたものだ。
「止まれ。ここはアスター家の私有地だ」
答えはなかった。
代わりに後列の魔術師が杖を上げる。
赤い光。
炎が幾つも生まれる。
だが、それらが形を整え、こちらへ飛び出そうとした瞬間、その半数が何の前触れもなく崩れた。炎は火の粉へもならず、淡い魔力の光へほどけて消える。
「……始まったか」
ルークは思わず笑った。
塔の上に、レイがいる。
あれほど頼もしくて、あれほど前へ出てきてほしくない存在も珍しい。
敵側に動揺が走った。術式を失った魔術師がもう一度杖を上げるが、その間に前衛はすでにこちらへ駆け込んでいる。
ルークは一歩だけ前へ出た。
最初の剣を横へ流し、次に来た槍の穂先を剣の腹で逸らす。三人目の踏み込みに合わせて、足元へ短い魔術を通すと、石畳の一部が僅かに傾き、男の姿勢が崩れた。その肩へ柄を打ち込み、横を抜けようとした別の男の膝裏を蹴る。
殺そうと思えば、ここで首筋を叩き切ってしまえばいい。
だが、そうしない。
殺さない。そういう作戦だ。
「レイ!!」
『分かってるよ』
通信石からレイの声が聞こえると同時に、背後の塔の方から乾いた破裂音が響いた。
次の瞬間床に倒れた剣士の足に穴が開き、彼は白目を剥いて意識を失った。
そのままルークは、次の剣士へ目標を定め、斬りかかる。
正面の人数が多いほど、こちらへ意識が集中する。自分一人がここで目立てば、その分だけ屋敷の中へ向かう敵は減る。
「次」
倒れた男を跨ぎ、ルークはさらに前へ出た。
敵の剣が三方向から迫る。
その瞬間、背後の屋敷から聞き慣れた音が響いた。
火薬の破裂音だ。
遠くにいた魔術師の一人が、糸を切られた人形のように膝から崩れた。
「アイツ、いつ銃の練習なんてしてたんだよ」
呆れたように呟きながら、ルークは目前の刃を受け止めた。
—レイ—
「一人」
狙っていた男が倒れるのを確認し、俺は銃口を次へ目標へ向けた。
下位精霊への命令は単純だ。弾丸が命中した相手に対して催眠魔術を掛けろ、というもの。
精霊との意思の疎通は難しく、遠くのターゲットをピンポイントで指定して催眠魔術の行使を行わせるのは困難だ。だから射撃を目印にしている。
狙撃、という言葉は少し違うかもしれない。
でも、俺としてはこれが一番しっくり来る。
「右奥、杖持ち三人」
リリ姉の声に合わせて銃口を動かす。すでに相手側の魔術師は、自分たちの術が何度も崩れることへ気づき始めていた。火球や氷槍のような雑な発生系はほとんど通らない。そこで何人かが地面の石や金属片を直接動かす操作系へ切り替え始めたのだ。
「奴ら魔術妨害に気付いた、リリ姉」
「分かってる」
石礫が庭園を横切る。
リリ姉が魔術でいくつか撃ち落としてはいるが、それでもまだ残っている。
俺は無理に干渉せず、通信石を握った。
「ルーク兄、右から実体弾」
『見えてる』
短い返事の直後、庭の向こうでルーク兄が身を低くする。飛来した石がその背後の柱へぶつかり、表面を大きく欠けさせた。
「まだ続くわよ」
「分かってるよ」
正面は、まだ保っている。
問題は側面だ。
◆ロイス
ロイスは西棟二階の窓枠へ片足を掛け、下の庭を覗き込んでいた。
正門側が派手に騒がしいおかげで、こちらは静かだった。
そう、襲撃が起こっているというのに、静かすぎた。
「……来るならこっちだろ」
呟いた直後、庭の木立の影が動く。
三人。いや、四人。
低い塀を越え、植え込みの間を縫うように屋敷へ近づいてくる。正面の連中とは装備が違う。黒い布を重ねた軽装で、防具も極端に少ない。
「やっぱりな」
ロイスは窓から身を投げ出した。
二階から地面まで、普通なら躊躇する高さだ。だが落下の途中で壁を蹴り、着地寸前に短い魔術で勢いを逃がす。
音を立てずに地面へ降りる。
ロイスは笑う。
「こういうの、俺の専門なんだ」
正面からの剣術ならルークに敵わない。
魔術ならリリやレイの方が上だ。
昔は、それが気に入らなかった。
だが、自分の得意な戦い方を見つけた今のロイスにとって、それは過去の話である。
ロイスは懐から四本のナイフを取り出し、それぞれを正確に、彼らの膝の裏に向けて投げる。
それらは正確に、狙った場所に突き刺さり、森に四人分の悲鳴が響く。
まもなく、遠くから破裂音が響き、四人は順々に眠りに落ちた。
『ロイス』
通信石からリリの声がした。
『西側、もう一団いるわ。裏口へ回ろうとしてる』
「数は?」
『少なくとも六』
「了解」
ロイスは倒れた男の武器を遠くへ蹴り飛ばし、屋敷の影へ走った。
「ったく、数多すぎだろ」
—リシア—
使用人たちを西棟へ移動させるのは、リシアが想像していた以上に難しかった。
襲撃が始まったことを知らせない、という当初の案は、正門が吹き飛ばされた時点でほとんど意味を失った。屋敷中に音が響き、窓の向こうでは魔術の光が明滅している。何も起きていないと誤魔化せる状況ではない。
「皆、慌てないで。西棟の大広間へ移動してください。荷物は要りません。着替えも必要ありません」
「奥様、何が——」
「後で説明します。今は歩いて」
声を荒らげない。
走らせない。
混乱した人間の群れは、それだけで危険になる。
年若い使用人の手を取り、足の悪い老執事を別の者へ任せ、人数を数えながら廊下を進ませる。
誰が内通者か分からない。
だが、レイ曰く、確実にいるらしい。
だから、転送魔法陣があることだけは最後まで伏せていた。
だが、大広間へ着けば、床に広げられた巨大な魔法陣を見て、嫌でも事情を察することになる。
「奥様」
背後から聞き慣れた声。
長く屋敷に勤めている男性使用人だった。
「厨房にまだ二人取り残された者がいます、私が呼んできましょう」
「待ちなさい」
「ですが——」
「誰かを一人つけます」
一瞬。
本当に一瞬だけ。男の表情が固まった。
リシアはそれを見逃さなかった。
「レイ、内通者よ」
通信石へ声を落とす。
「位置は西棟一階、中央廊下、二番目に大きなシャンデリアの真下、身長はロイスほど……」
男の顔から血の気が引き、次の瞬間、彼は踵を返した。
同時に。
遠くで銃声が響いた。
男は三歩も進まず、その場へ崩れ落ちた。
「……本当に当てるのね、あの子」
リシアは呆れたように呟き、それから周囲の使用人へ向き直る。
「大丈夫です。眠っているだけです。誰か、この人を運んで」
説明は後だ。
今は一人でも多く、生きて屋敷を出さなければ。
—レイ—
「内通者、一人確保」
『こちらでも確認しました』
マリー師匠の声が通信石から返る。
「今のところ、うまくいってるな」
「そうね」
リリ姉も頷いた。
正門ではルーク兄が敵を押し留め、西側から入ろうとした連中はロイス兄が止めている。屋敷の中では母さんとマリー師匠が使用人を避難させ、見つかった内通者も一人無力化した。
敵の魔術師は、俺が塔から見渡せる範囲ではほとんど仕事ができていない。
完璧ではない。
でも、想定した中では、かなり良い方だ。
ならば……
「このまま——」
言いかけた時だった。
リリ姉が、俺の腕を強く掴んだ。
「待って」
「何?」
返事はない。
リリ姉は塔の下ではなく、正門のさらに向こうを見ている。月明かりの届かない、倒れた門の向こうを。
そこから、一人の男が歩いてきた。
他の襲撃者たちとは明らかに違う。
全身を暗い外套で覆い、顔の上半分には金属の仮面。腰には一本の剣があり、鞘から覗く鍔だけが月の光を反射していた。
走らない。
身を隠さない。
戦場のど真ん中を、散歩でもするように歩いている。
「何あれ」
俺は銃を向けた。
だが、リリ姉の手が銃身を押さえる。
「待って」
「なんで」
「……精霊が」
声が震えている。
「え?」
「精霊が、あの人の周りに集まってる」
一瞬、意味が分からなかった。
リリ姉は目を見開いたまま、その男を見ている。
「そんなの……」
唇がかすかに動く。
「あれは、アスターの——」
その瞬間、男が剣を抜いた。
何の詠唱も聞こえなかった。
それでも俺には分かった。
空気が変わった。
剣身へ風がまとわりつき、月明かりの下で白いヴェールのように揺れる。
俺は反射的にその術式を見た。
矛盾を探す。崩せる場所を探す。
だが……
何も見つからない。
いや違う。
あれは……
「ルーク!」
リリ姉が通信石に向かって叫ぶ。
男が一度、剣を振った。
遠く離れた正門前で、ルーク兄の足元の石畳が、一筋に割れた。




