海底古王の潮蒸留《深潮》
開いた石扉の向こうは、酒の墓場みたいな場所だった。
墓場、って言うと縁起が悪いけど、実際そう見えたんだから仕方ない。
暗い石の間に、背の高い樽がいくつも並んでいる。木じゃない。表面は岩みたいにざらついていて、ところどころ貝殻みたいな白い筋が走っていた。古い。たぶん、わたしたちが今まで飲んできたどんな酒よりもずっと古い。なのに死んでる感じがしない。長く黙っているだけで、ちゃんと息を潜めてる。
その中央に、《深潮》はあった。
最初、お酒だとは思わなかった。
深い青灰色。透明なはずなのに、底が見えない。海を小さな器に閉じ込めたら、たぶんこんな色になる。光を受けると静かに揺れて、濃い影と淡い銀がゆっくり入れ替わる。泡立っているわけでもないのに、どこか息をしているように見えた。
香りが届く。
塩。
藻。
古い樽の木の湿り気。
その奥に、乾いた香辛料みたいな鋭さが一筋だけ通っている。
吸った瞬間、胸の奥が少し広がった。
「……なにこれ」
思わずそう漏れた。
まだ飲んでない。なのに、肺だけ先に反応している。意味がわからない。わからないけど、たぶんすごい。あと、たぶんめちゃくちゃうまい。
隣でクラリスも息を呑んでいた。
ミスティアは、石樽の間の空気ごと見つめている。さっき水盤の前にいた時と似てるけど、今はもっと静かだった。緊張してるんじゃない。この場所に呼ばれた感覚を、ちゃんと受け止めようとしてる顔だ。
酒守が一歩前に出る。
海底民の中でもさらに年を重ねた男だった。
背は高くない。痩せている。けれど立っているだけで、この酒庫そのものに許された人間だとわかる。あんまり喋るタイプじゃないのに、黙ってるだけで言葉に重みがある、そういうやつだ。
わたしはいつものように黒い酒瓶を取り出した。
ここまで来たら流れは同じだ。原酒は回収する。持ち帰る。次へ繋ぐ。
酒守は首を横に振った。
「器を持つのは、お前でいい」
わたしを見て言って、それから視線をミスティアへ移した。
「だが、最初に触れるのは泡を導いた子だ」
ミスティアの肩が、ごく小さく揺れた。
わたしは酒瓶を持ったまま、すぐに頷く。
「そりゃそうだ」
今回は割り込みたい気持ちより、納得の方が強かった。
ここまで来たのは、たしかにミスティアの泡だ。
わたしはお酒を欲しがって騒いで、クラリスは止めて、ミスティアがちゃんと扉を開けた。役割分担として、かなり綺麗である。
酒守が、深い青灰の酒器をそっと差し出す。
「飲め」
ミスティアが前へ出る。
指先を伸ばす。
《深潮》に触れた瞬間、その表情が少し変わった。
冷たさに驚いたんじゃない。
たぶん逆だ。思ったよりやわらかかったんだと思う。
彼女はそっと器を受け取り、静かに口をつけた。
一口。
その瞬間、空気がほんの少しだけ変わった気がした。
ミスティアは目を閉じる。
喉が動く。
それから、ゆっくり息を吸った。
深く。
長く。
今までの彼女の呼吸より、ひとつ底へ届くみたいに。
「……塩」
小さく漏れた声は、震えていた。
「藻の青さが、あります。けれど生臭くない……古い木と、乾いた香辛料が後ろから来て……」
言葉が途切れる。
説明できないんじゃない。たぶん、説明するより先に体の方へ入っていってる。
ミスティアの周囲に、小さな泡が浮いた。
いつもの泡沫魔法だ。
でも少し違う。
揃いすぎていない。なのに散らばってもいない。軽いのに、逃げない。生まれた泡が彼女の肩口、指先、足元に静かに残り、呼吸と一緒に膨らんでは細くなっていく。
ミスティアが目を開く。
「壊れるのに、繋がってる……」
ぽつりと呟く。
「自由なのに、散らばらない」
その声を聞いた瞬間、わかった。
ああ、届いたんだなって。
外から何かを無理やり足された感じじゃない。
元からそこにあった道が、ようやく開いた。
そんな顔だった。
ミスティアは泣かない。
こういう時の顔はわかる。
胸の奥がたぶん、ぐちゃぐちゃだ。
人間の街じゃ、炭酸水しか出せないって笑われた。
泡ばかり立つ変わり種だと、半端者みたいに扱われた。
だから制御だけは完璧にしようとした。
けれど今、この海の底では、その泡がちゃんと祝福されている。
妖精の郷に続いて海の底でもだ。
酒守が静かに頷いた。
「いい」
たったそれだけ。
わたしはもう限界だった。
「次、わたし!」
食い気味に手を挙げると、クラリスが呆れた顔をする。
「こういう時だけ返事が早いのね」
「酒の前で鈍るのは失礼だから」
「そんな礼儀は聞いたことがないわ」
いいから飲ませてほしい。
酒守が器を差し出す。
今度はちゃんとわたしに。
「騒ぐな」
「努力はする」
たぶん信用されてない。
でも一応、神妙な顔で受け取る。
口をつける。
一口。
「……っ、肺ひろっ!」
無理だった。
第一声はこれだった。
塩気が来る。
藻の青い香りが抜ける。
古い木と香辛料が、胸の奥をまっすぐ通る。
うまい。というか、うまいだけじゃない。飲んだ瞬間、体の中に空気の通り道が一本増えたみたいな感じがする。息を吸うのが軽い。吐くのが長い。水の中でも沈まない肺になったみたいな、妙な確信があった。
足元に、ふわ、と水膜みたいなものが広がる。
次の瞬間、それは小さな潮の輪になって、わたしの周囲を巡った。
頭に浮かぶ。
《呼吸強化・タイドフォーム》
深く吸える。
長く保てる。
圧に負けない。
水の中で動く時の怖さが、ひとつ薄くなる。
「うわ、これやば。めっちゃ潜れそう。あと毒とか息苦しいのもだいぶ平気そう」
言いながら、その場で試したくなって一歩踏み出す。
「今やらないの」
クラリスの制止が飛んだ。
「ちょっとだけ!」
「だめ」
「ちょっと吸ってみるだけ!」
「そのだけで済んだことがあった?」
ないかもしれない。
海底民まで呆れた顔で見ている。
でも中には面白がってるやつもいて、ほんと信用ならない。
「やれやれ」
「転んだら拾うぞ」
「たぶん派手に転ぶ」
やめろ、ちょっとやりたくなるだろ。
クラリスが即座に睨む。
「煽らないでください」
さすがである。
わたしの暴走抑止装置として、今日も完璧だ。
酒守がわたしの手の中の黒い酒瓶を見る。
わたしも頷いて、それを差し出した。
《深潮》が動く。
普通の液体みたいに注がれない。
静かな青灰の光が、するりと細い流れになって酒瓶へ吸い込まれていく。波でもなく、滝でもなく、本当に潮って感じの入り方だった。瓶の中に収まったあとも、しばらく底で静かな光が揺れている。
五本目だ。
焔鉄樽。
星明かりの雫。
竜血紅。
泡冠酒。
そして《深潮》。
少しずつ、ちゃんと集まってきている。
酒守がミスティアを見た。
「軽い泡を知った者が、深い潮にも届いた」
その言葉は海の底らしく静かで、まっすぐだった。
妖精の郷で得たものが、ここに繋がっている。
遊び。寄り添い。押さえつけないこと。
それを知ったからこそ、今度は深さにも届いた。
ミスティアはすぐに何も言えなかった。
ただ、ほんの少しだけ唇を噛んで、それから小さく頭を下げる。
「……ありがとうございます」
それだけで十分だった。
海底民たちの空気が変わる。
大仰には褒めない。
けれど、もう部外者を見る目じゃない。
「きれいだった」
「今の泡、うるさくなかった」
「やっと海の下で息ができたな」
褒め方がちょっと独特なのは、まあ仕方ない。
わたしは得意げに腕を組む。
「だから言ったでしょ。ミスティアの泡、すごいんだって」
「あなたが評価したわけではないけれど」
クラリスがすぐ刺してくる。
でも今日の刺しは軽い。
ミスティアの顔を見れば、それでいいといった顔だ。
酒守が最後に小さな杯を三つ用意した。
《深潮》そのものを少しだけ注ぐ。
静かな乾杯だった。
騒がない。
叫ばない。
でも、不思議と物足りなくない。
杯を合わせて、一口飲む。
塩。藻。古木。静かな香辛料。
深く、長く、胸の奥へ残る。
わたしは思う。
深い酒って、派手じゃない。
飲んだ瞬間に火が出るわけでも、頭をぶん殴るわけでもない。
でも、ちゃんと残る。
軽く笑って消える泡を知ったあとで、今度は静かに沈んで残る潮を知った。
そういう順番だったんだと思う。
海の底の酒は、うるさく褒めなくても、ちゃんと胸の奥に届いた。




