海の底まで飲み会は逃げない
静かな乾杯で終わるわけがなかった。
いや、終わると思ったわたしが甘かった。
《深潮》を手に入れて、空気が少しだけほどけた、その次の瞬間にはもう遅かった。
「祝うよー!」
「飲むぞー!」
「地上人が深潮を通したー!」
どこに隠れていたのかわからない海底民たちが、一気に騒ぎ始めた。
静かな間を出た途端、泡灯りがいくつも灯る。青や緑のやわらかい光が水の中で揺れ、広場みたいな空間のあちこちに低い卓が並び始めた。皿が来る。樽が来る。楽器なのか酒宴用の騒音機なのか分からない貝殻の笛まで鳴り始める。
さっきまで神様の喉元みたいな場所だったのに、切り替えが雑すぎる。
「海底民って、もっとこう……厳かに祝うタイプじゃないの?」
わたしが呟くと、近くの海民が笑った。
「静かなのは酒までだ」
「宴は別腹だ」
その理屈はちょっとわかる。
卓の上に、料理が次々置かれていく。
塩を薄くまとわせた焼き貝。藻の香りを移した燻製肉。小ぶりなのに妙に重い匂いのする揚げ団子。発酵した海果の酸味が効いた前菜。干し魚の炙り。貝出汁を煮詰めた濃い汁。全部小さめなのに、全部が「逃げない味」をしていそうだった。
そしてもちろん、酒も並ぶ。
潮蒸留系の酒。発酵酒。泡の立たない深い色の酒。逆に細かい泡を含んだ軽そうな酒。
見ただけで喉が鳴る。困る。
わたしはひとつ咳払いをした。
「よし。今日は上品にいく」
クラリスが即座に嫌そうな顔をした。
「聞いた時点で信用できないわね」
「たまにはしっとり飲むのも大人ってもんでしょ」
「あなたのたまには、三口持てば長い方よ」
「偏見だなあ」
偏見ではなかった。
最初の杯は、わりと成功した。
小さな杯を持ち、背筋を伸ばし、香りを確かめてからひと口。
「……うま」
塩の角がなくて、香りが長い。
軽いのに、喉の奥にちゃんと残る。海の底で飲む酒は、どうしてこうも体の内側へ染みる感じがするのか。
二口目。
「待ってこれ危ないうまさだ」
三口目。
「妖精、飯もうまいし酒もうまいし、だいぶずるい!」
言ってから気づいた。
ここ妖精じゃない。海底だ。
クラリスが額を押さえる。
「もう崩れた」
「仕方ないでしょ、うまいんだから!」
「開き直るのが早すぎるのよ」
わたしはもう止まらなかった。
焼き貝を食べる。塩気が来る。すぐに酒で流す。最高。
藻の燻製肉をかじる。香りが鼻に残る。そこへまた別の酒を合わせる。もっと最高。
濃いスープをひと口すすれば、貝の旨味と香辛料が喉に貼りついて、その直後の一杯がきれいにそれをほどいていく。
「なにこれ。海底、味が全部ちょっとずるい」
思わず本音が出る。
保存食の文化だからか、どの料理も味が強い。しょっぱい。濃い。香りも深い。けど雑じゃない。ちゃんと締まっていて、お酒と組むこと前提で作られてる感じがある。
クラリスも、小さな皿をつつきながら目を丸くした。
「……かなりおいしいわね」
「でしょ!?」
「でも伊吹は声が大きい」
「うまい時くらい大きくなるよ」
「常に大きいでしょう」
そのやり取りの横で、ミスティアは別方向に盛り上がっていた。
「この燻製、香気の残り方が面白いですね。藻の青い香りが先に抜けると思わせて、脂に絡んだ燻香だけが後から戻ってきます」
海底民が「ほう」と頷く。
ミスティアは止まらない。
「こちらのお酒も、塩分の輪郭が先に立つのに、飲み込んだあとで樽香が遅れて広がっています。たぶん発酵段階ではなく保存段階で香りが丸くなっていて――」
「長い」
即座に海底民のひとりが言った。
「でも楽しそう」
「静かな迷惑だな」
わたしは吹き出す。
「出た、ミスティアの早口」
ミスティアは困ったように笑って、杯を少し持ち上げる。
「すみません。でも、面白くて」
それを聞いた海底民が、肩を揺らした。
「うん、そういうのは嫌いじゃない」
その返しが自然だった。
ミスティアも、居心地悪そうにしていない。
泡の話をして、潮の話をして、香りの話をして、たまに静かに飲んで、また誰かに質問されている。受け身じゃない。ちゃんと輪の中にいる。
ああ、よかったな、と素直に思う。
宴はさらに騒がしくなっていく。
酒が回ってくると、海底民もわたしたちもだいぶ雑になるらしい。
泡灯りが妙に近くへ寄ってきたり、杯を置いたはずの卓が少し流れていたり、取ろうとした皿がするっと逃げたりする。誰が悪戯してるのかわからない。たぶん全員だ。
妖精みたいなことするな。
「待てこら! その焼き魚わたしの!」
逃げる皿を追いかけたら、クラリスがすぐ後ろから声を飛ばしてきた。
「宴で走らないの!」
「走ってない、泳いでる!」
「もっとだめ!」
海底はこのへんの言い訳がややこしい。
わたしはすでに《タイドフォーム》も試したくてたまらなかった。
深く息が吸える。水の中の体の運びも軽い。こうなると遊びたくなるのが酒飲みの性である。
なのでやった。
無駄に深く息を吸って、胸を張って、潮の流れを感じるふりをして、その場でふわっと一段高く跳ねる。
水の抵抗を読むように体をひねる。
無意味に潜水の真似をして、卓の下をくぐる。
「見て見て、今のめっちゃ海底っぽくない?」
クラリスが低い声で言った。
「宴でやらないの」
「実験!」
「伊吹に実験って言葉がこんなに似合わないとは」
「失礼な、もしかした理系かも知れないでしょ」
「理系に失礼なのでやめてください」
「ガチ理系に言われると傷つくな」
海底民はむしろ面白がっている。
「もっと沈め」
「逆に浮いてみろ」
「樽の間を三周しろ」
やめろ、全部やりたくなる。
「煽らないでください」
クラリスの制止が今日も冴える。
ただ、本人も少し酒が入っているらしく、いつもより頬がやわらかかった。杯を受け取ってひと口飲むたび、ほんの少しだけ表情が緩む。真面目な顔のままおいしいものに負けてる時のクラリスは、ちょっと面白い。
宴の奥では、酒守たちが静かに杯を傾けていた。
大きく笑ったりはしない。
でももう、ミスティアをわたしたちを外から来た客としては見ていない。
さっきまであんなに茶化してたくせに、ちゃんと仲間入りしたやつを見る目になってる。
ああいうのは、たぶん大仰に褒められるより効く。
ミスティアも、その輪の中で自然に笑っていた。
謝るみたいな笑いじゃない。
わからないものに怯える笑いでもない。
ちゃんと、ここにいていいと思ってる人の笑い方だった。
わたしは途中で、ふと鞄を開けた。
黒い酒瓶の中で、《深潮》が静かに揺れている。
青灰の光が細く巡って、瓶の底で本当に小さな潮みたいな輪を作っていた。
五本目。
原酒が増えていくたび、ちょっとずつ世界の酒の骨組みに触れてる気がする。
焔鉄樽の熱。
星明かりの雫の均衡。
竜血紅の力。
泡冠酒の軽さ。
そして《深潮》の深さ。
「……ちゃんと増えてるんだよなあ」
わたしが独り言みたいに呟くと、隣の海底民が覗き込んできた。
「次はもっと重い酒がいい」
「重い酒?」
「北は息が凍る」
別のやつが笑う。
「雷を飲む酒もあるぞ」
「舌が痺れて、そのまま歌いだす」
「それ酒なの?」
「酒だ」
「なんだか御伽噺みたいだな」
この世界、だんだん説明が雑になってない?
その雑さの向こうにちゃんと次がある。
重い酒。
雷を飲む酒。
北の寒さ。
たぶんまたろくでもなく、たぶん絶対うまい。
もしかしたら原酒じゃないかも知れないけど、それもまたいいだろう。
宴はまだ続いていた。
泡灯りが揺れる。
皿が逃げる。
誰かが笑う。
ミスティアがまた泡と潮の違いについて語り始めて、「静かな迷惑だな」と言われて、それでも笑っている。
わたしは杯を傾けて、ぽつりと言った。
「深い酒って、静かなのに案外うるさく残るんだね」
クラリスが呆れたように、でも少しやわらかく返す。
「伊吹の騒ぎ方も、少しは静かに残ればいいのに」
ミスティアがすぐに続けた。
「それは難しいと思います」
「そこは否定してよ」
二人とも、否定しなかった。
まあ、そういうことだと思う。
たぶん明日の朝、わたしたちはろくなことにならない。
でも、それでもいいと思えるくらいには、この海の底の味と酒はちゃんと残った。
騒がしくて、変で、理屈が違って、でもちゃんと優しい。
そんな海底都市の夜は、最後まで逃げずに喉の奥へ残り続けた。




