沈没都市で息を合わせろ
潮待ちの儀を越えたからって、いきなり原酒が飲めるほど世の中は甘くないらしい。
いや、世の中じゃないな。海の底だ。
しかも海の底の古代遺跡だ。面倒くささに関しては、むしろ地上より濃いまである。
「つまり、次は酒庫まで行けばいいんでしょ?」
「そのつまりの雑さ、たぶん一生治らないわね」
クラリスが呆れた声を出す。
わたしたちは潮待ちの儀の場を抜けて、沈没都市のさらに下層へ向かっていた。案内しているのは、昨日から何かと世話を焼いてくれている海底民の男だ。無口というほどではないけど、必要以上に喋らない。海の底の人たちは、みんな少しだけ言葉が深い。ずるい。
おしゃべりだから余計にそう思う。
中には昨日みたいな茶々を入れてくる海底民たちもいたが。
道は静かだった。
上の街は市場のざわめきや、灯りの泡や、魚と塩の匂いでいかにも生きてる感じがしたけど、下へ降りるほど音が薄くなる。割れた石柱が斜めに沈み、崩れた回廊が暗い青の向こうへ伸びている。昔は大きな都市だったんだろうな、と思わせる骨組みだけが残っていて、その隙間を細かな泡が絶えず昇っていく。
綺麗だった。
綺麗だけど、わたしはそういう景色を前にしても、最終的にはこう思う。
このへんにお酒、隠れてそうだなって。
「伊吹、先に言っておくけれど、勝手に走らないで」
「まだ走ってないよ」
「まだなのね」
クラリスがため息をつく。
その横で、ミスティアは周囲の水流を見ていた。目線は石柱の割れ目、泡の昇る筋、足元を撫でる潮の動き。前みたいに、全部を止めて解析しようとしている感じではない。ただ、読んでいる。少しだけ、そんな雰囲気があった。
「下層ほど潮の癖が強いですね」
ミスティアが呟く。
「直進しているようで、実際は壁面に沿って螺旋状に流れています。見た目より横へ持っていかれやすいです」
「へえ」
わたしは適当に返した。
そして、次の一歩で持っていかれた。
「うわっ」
床だと思って踏み出した場所の横から、細い潮流が膝裏をさらった。大した流れじゃないのに、海底ではそのちょっとが命取りになる。わたしの体はあっさり斜めへ浮き、すぐ横の石壁に肩からぶつかった。
ごっ、と鈍い音がした。
「いっった……!」
「ほら言った」
クラリスが冷静に言う。冷たい。
「今のは床が悪い」
「流れを読まなかったあなたが悪いの」
「床がじっとしてないのが悪いんだって」
「海底に来て床の安定を求める方が間違いです」
ミスティアが真顔で追撃してきた。仲間に優しくない。
その直後、今度はクラリスがやらかした。
わたしを助けようとしたのか、彼女は素早く踏み出した。勢い自体は悪くなかった。
でも、真面目な人って、こういう不安定な場所でちゃんとやろうとするんだよね。足を置く位置、重心、剣の重み、姿勢の維持。全部まとめて整えようとして、逆に身体が固くなる。
結果、横から来た潮に腰を取られた。
「っ……!」
クラリスの身体が半歩ぶんだけ滑る。そのままわたしの腕を掴んだせいで、二人まとめて斜めの石柱に引っかかった。
「ちょ、ちょっと、近い近い!」
「あなたが流されたからでしょう!」
「助け方が雑!」
「助けられている側が文句を言わないで!」
わたしたちが石柱に半分もたれたまま揉めていると、後ろからミスティアの声が飛んだ。
「動かないでください」
「助かった! ミスティア!」
「現在、あなたたちの周囲には三方向から局所的な流れが干渉しています。いま無理に離脱すると、片方がさらに下層側へ滑落する可能性がありますので、まず呼吸を整えて――」
「長い!」
思わず叫ぶ。
「結論から!」
「結論を言っています」
「結論までの助走が長いの!」
ミスティアは前より少し違った。
説明は長い。長いけど、前みたいにその場で全部止めて正解を出そうとしていない。流れを見て、その流れに合わせた解き方を探している。
「クラリスさん、左足を半歩だけ引いてください。伊吹さんは逆です。右肩を壁から離して、潮に少し預けてください」
「信用していいの?」
「いま信用しないと、たぶんもっと面倒なことになります」
それは、ものすごく説得力があった。
言われたとおりに身体をずらすと、絡んでいた流れが一瞬だけほどけた。そこをミスティアが小さな泡を三つ、わたしたちの足元へ滑らせる。泡は前より不思議と自然だった。きっちり揃えられてるわけじゃない。少しずつ形が違う。
流れに喧嘩してない。
「今です」
その声に合わせて踏み出す。
今度はちゃんと戻れた。
「……助かった」
クラリスが息を吐く。
わたしも肩を回しながら頷いた。
「やるじゃん、ミスティア」
「まだ偶然の寄与が大きいです」
「そこ謙遜しなくていいとこだよ」
すると案内役の海底民が、少しだけ口元を緩めた。
「昨日より、流れの邪魔をしなくなったな」
ミスティアはその言葉に少し驚いて、それから小さく視線を落とした。
「……まだ、上手くはありません」
「上手いかどうかの前に、海の話を聞く気になった。それで十分だ」
海底の人たちって、たまに急に良いこと言うよね。ずるい。
さらに下層へ進むと、道の雰囲気が変わった。
生活の匂いが薄れて、遺跡の匂いが濃くなる。古い石壁。沈んだ彫刻。ひびの入った回廊。上へ昇る泡の量も増えていて、まるで都市そのものがずっと静かに息を吐いているみたいだった。
その途中で、また事件が起きた。
今度は、酒の匂いに釣られて変な海底生物が寄ってきたのだ。
最初に見えたのは、暗がりの中で揺れる丸い目だった。
次に、ぬるっとした胴体。
その次に、ひらひらしたヒレ。
魚とイカと酔っ払いを足して三で割ったみたいな顔。
「なにあれ」
「酒香魚ですね」
ミスティアが即答した。
「お酒の匂いに反応する海底生物です。おそらく発酵臭や蒸留香に引かれて――」
「また説明してる場合じゃないって!」
その酒香魚、三匹、四匹と増えてきた。
しかも明らかにわたしの腰の瓢箪を見ている。目が合う。嫌な予感しかしない。
「え、ちょっと待って。わたしって海でもモテる?」
「違うわ。お酒に寄ってきてるだけよ」
クラリスがぴしゃりと言う。
「つまり、わたしの魅力の一部ってことでは?」
「違う」
「そこは少し考えて!」
「考える余地がないの」
「海でもという表現が気になります」
酒香魚が一匹、ぴょこ、と跳ねた。
そのままわたしの瓢箪へ一直線に突っ込んでくる。
「うわっ、だめだめだめ! これはわたしの!」
慌てて抱き込む。
すると二匹目が反対側から来る。
三匹目は足元へ。
四匹目はなぜかクラリスの剣の鍔に頭をぶつけた。
「なんで私の方にも来るのよ!」
「騎士の品格にお酒の匂いが染みついてるとか?」
「あなたのせいでしょう!」
ミスティアが前へ出る。
「動かないでください。刺激すると群れます」
「もう群れてるよ!」
彼女は慌てなかった。
周囲の流れを見て、酒香魚の動きを見て、そっと泡を浮かべる。今度の泡は、壁じゃなかった。檻でもない。ただ、流れを少しだけ曲げる泡だ。酒香魚たちの進路が、自然にわたしたちから逸れていく。
「へえ」
わたしは素直に感心した。
「それ、前ならもっと押し返してたよね」
「……そうですね」
ミスティアは自分でも少し驚いている顔だった。
「押し返すと、たぶん余計に暴れます。なので、行きたい方向だけ少し変えました」
「海の話、ちゃんと聞いてるじゃん」
そう言うと、ミスティアは少しだけ困った顔で笑った。
あの笑い方も、妖精郷に入る前とは少し違う。謝るみたいな笑いじゃなくなってきてる。
やがて酒香魚の群れをやり過ごし、わたしたちは最下層近くの広間へ出た。
そこは、今まででいちばん静かだった。
高い天井は半分崩れ、割れた石柱が左右に並び、その奥に大きな扉が見える。石でできた重い扉だ。表面には波でも文字でもない、不思議な筋が幾重にも刻まれている。酒樽の木目みたいでもあり、潮の流れを閉じ込めた跡みたいでもあった。
「……あれ?」
わたしが呟く。
案内役が頷いた。
「古王の酒庫だ」
やっと来た。
ついに来た。
酒の匂いはまだしない。
こういう扉の向こうにうまい酒があるの、だいたいわかる。
わたしが前に出ようとすると、案内役が手を上げて止めた。
「開けるのは力じゃない」
「じゃあ蹴破るのはなし?」
「最初からその選択肢を出さないの」
クラリスが真顔で言う。ひどい。
扉の前には、小さな水盤があった。浅い。静か。
けれど死んだ水じゃない。水面の中央から、ときどき小さな泡が生まれては消えている。消えても、また生まれる。その間隔が妙に落ち着いていて、見ているとこっちの呼吸まで引っぱられそうになる。
「鍵はこれだ」
案内役が言った。
「呼吸を揃えた泡だけが、酒庫の喉を通る」
ミスティアが水盤を見つめる。
わたしも見る。
あれは、ただの鍵穴じゃなかった。
もっと生き物っぽい。
もっと意地が悪い。
酒を守るために、ちゃんと相手を選んでる顔をしている。
鍵穴っていうより、酒の喉だった。
飲ませる相手を選んでる顔をしていた。




