待てない酒飲みは沈みやすい
海の底にも、儀式はあるらしい。
朝の海底都市は、夜より少しだけ青かった。
灯りの貝殻はまだ淡く、通りを昇っていく細かな泡が、眠そうな街の呼吸みたいに見える。
そんな綺麗な朝っぱらから、わたしたちは海底神殿の一角に連れて来られていた。
潮待ちの儀。
名前からして、もう厄介そうだ。
待てって言われた時点で、だいたいわたし向きじゃないのはわかっている。わかっているけど、目の前に広がった光景を見た瞬間、その認識は一回どっかに飛んだ。
「これ絶対わたし向きのやつじゃん」
「その自信、もう少し疑った方がいいわよ」
クラリスが即座に否定してきた。
わたしたちの前にあるのは、円形に切り取られた水の広間だった。神殿の床が途切れた先に、緩やかな潮が巡っている。海水そのものが流れているというより、青い光を抱いた薄い水の層が、見えない器の中で静かに回っている感じだ。
その上に、泡と水流の足場が浮いていた。
泡は一定のようで一定じゃない。
大きさも高さも少しずつ違うし、流れの筋もまっすぐじゃない。なのに全体で見ると、ちゃんと向こう岸までの道になっている。
神殿の石は古く、壁面には古王だか海神だかわからない紋様が沈んでいた。静かで、青くて、ちょっと神秘的で、でも何より。
ああいうのを見ると、飛び込みたくなるんだよね。
案内役の海底民が、水面に浮く泡足場へすっと乗った。
踏む、というより、触れて預ける。そんな動きだった。足首も肩も固くない。潮に逆らわず、でも流されもせず、軽やかに向こうへ渡っていく。
続いて他の海底民たちが同じようにやっていく。
最後に振り返って、簡単そうな顔で言った。
「こうやる」
「説明が雑すぎる」
クラリスが呆れる。
「条件は単純だ。潮と呼吸を合わせ、無理に逆らわず、止まりすぎず進むこと」
「単純かなあ」
わたしは眉をひそめた。
「急げば弾かれる。止まれば沈む」
「ほら全然単純じゃない」
「深いものはだいたい面倒だ」
海底民は真顔で言った。
すごい。まるで名言みたいに言ってるけど、実際やらされる側はかなり面倒だ。
横ではミスティアがもう試練場を観察している。泡の高さ、水流の間隔、踏み込みのタイミング、魔力反応。たぶん頭の中で表か何か作ってる。
でも最初に動くのは、当然わたしだった。
「要するに、呼吸して進めばいいんでしょ!」
「伊吹、待っ――」
クラリスの制止より先に飛び出す。
一歩目。
乗れた。
「ほら!」
いけるじゃん、と思った瞬間がいちばん危ない。
二歩目へ勢いよく踏み込んだ途端、足元の泡がぱちんと割れた。
「え」
次の瞬間、潮流が横から脇腹をひっぱたいた。
ぐるん、と景色が回る。
青、石、泡、クラリス、天井、また青。
そしてそのまま、わたしは見事に水へ落ちた。
冷たい、というより、全身の向きがわからなくなる。慌てて顔を上げると、岸の方から笑い声が飛んできた。
「早い!」
「勢いはよかった!」
「沈むのもきれい!」
うるさい。
わたしは水面から顔を出して叫ぶ。
「今のは潮が悪い!」
「どう見てもあなたが悪いわ」
クラリスが即答した。
「いや、だって足場が急に消えたし」
「あなたが調子に乗って踏み抜いたのよ」
「まだ一回目だから! 今のは慣らし!」
懲りずに戻って、二回目。
「今度は優しく行けばいいんでしょ」
一歩目は軽く。
二歩目も、さっきより丁寧に。
いける。
いけると思ったら、今度は着地の力を抜きすぎた。足首がふらつく。身体が流れに対して斜めにずれる。泡は割れなかったけど、わたしが勝手にバランスを失った。
「うわっ」
どぼん。
また落ちた。
「雑!」
「今度は潮じゃなくて自分!」
「酒樽みたいに落ちた!」
実況がいちいち腹立つ。
「実況うるさい!」
三回目もやった。
そして落ちた。
わたしが水から這い上がる頃には、海底民も通行人も、見物していた連中も、完全に面白がっていた。
「次、私が行くわ」
クラリスが前へ出る。
わたしの失敗を見ていたぶん、最初から慎重だった。呼吸を整え、足場をよく見て、姿勢を低くしすぎず、高くしすぎず、丁寧に一歩目を乗る。
綺麗だった。
悔しいけど、めちゃくちゃ綺麗だった。
二歩目も成功する。泡に乗る音すら静かで、さすが騎士、みたいな顔をしたくなる。
けど、三歩目の前でクラリスは止まった。
次の足場を、正確に見ようとしたんだと思う。
どの流れに乗れば最短か、どの泡が安定しているか、ちゃんと見極めようとした。
その一瞬。
足元の流れが、するっと抜けた。
「え?」
クラリスの声が珍しく揺れる。
「止まったー」
「まじめー」
「硬い硬い」
外野、ほんとうるさいな。
さっきから妖精みたいだ。
クラリスは慌てて次へ踏み出した。けれど止まったあとの身体は少しだけ固くなる。肩が入る。着地が重い。泡がきしむ。
ぱちん。
「……っ」
そしてそのまま、綺麗に沈んだ。
わたしはつい笑ってしまう。
「ほらー、クラリスも落ちるじゃん」
水から上がったクラリスは髪を払って、きっぱり言った。
「あなたと一緒にしないで」
「落ちたのは同じでしょ」
「質が違うの」
「どっちにしろ沈んでたよ?」
「それ以上言うと今ここで沈めるわよ」
怖。
でも怒鳴るほどじゃない。悔しそうではあるけど、感情を荒らしすぎないあたりがクラリスだった。
「ちゃんとしてるのに沈むの、面白いね」
海底民が遠慮なく言って、クラリスが少しだけ目を細める。
そして最後に、ミスティアの番が来た。
本人はかなり真剣な顔だった。潮の流れを目で追い、泡の間隔を見て、口の中で何か計算している。
「おそらく接地時間を短く保ちつつ、外縁荷重で泡への局所的圧を避け、潮流変位に対しては――」
「始まった」
わたしが呟く。
「始まったわね……」
クラリスも小さく同意した。
ミスティアはそのまま一歩目を踏む。
そこは見事だった。狙いどおり、という感じで綺麗に乗る。
二歩目の前で、彼女は泡の揺れを見た。
三歩目の前で、潮の角度を見た。
四歩目までたぶん頭の中にあったんだろう。
そして見すぎた。
考えて、止まった。
泡がじわ、と沈み始める。
「考えてる考えてる」
「泡が待ちくたびれてる」
「真面目だねえ」
外野の容赦のなさは海の底でも変わらない。
ミスティアははっとして踏み出す。
でも遅れた一歩は、どうしても固くなる。着地の瞬間だけ、彼女の体重が泡を押さえつけた。
泡が崩れて、ミスティアも落ちた。
水から上がった彼女は、髪から雫を落としながら、まだ納得いかない顔で呟く。
「理論上は可能なはずなのですが……」
「理論が溺れてる」
わたしが言うと、ミスティアは少しだけむっとした。
「溺れてはいません」
「だいぶ沈んでたよ」
「沈みましたが、理論の誤謬と断定するには――」
「ほらまた始まる」
そのやり取りを見て、海底民たちが腹を抱えて笑った。
不思議と、その笑いは嫌じゃなかった。
馬鹿にして切り捨てる感じじゃない。
ただ本当に、それぞれ失敗の仕方が違うのを面白がってるだけだ。
「人の子ってほんと変」
「勢いで沈むのと、正しくて沈むのと、考えて沈むの、全部いた」
「見てて飽きない」
言い方はだいぶ失礼なのに、棘は薄い。
ミスティアも、それを感じたのかもしれない。少しだけ戸惑った顔をして、それから視線を落とした。前みたいに、笑われたことそのものに固まってはいない。
何度かやってみたけど、結果は似たようなものだった。
で、数回目の失敗のあと、わたしはちょっとやけになった。
「こういうこと?」
半分冗談で、足元の泡をわざと強めに踏む。
ぱちん、と泡が弾けた。
ひとつ。ふたつ。連続で。
その瞬間、場の空気がほんの少しだけ変わった。
笑っていた海底民たちが、すっと黙る。
「伊吹、やめなさい」
クラリスの声が低くなる。
いつもの呆れ声じゃなかった。
わたしは思わず振り返る。
「え、そんな怒る?」
「怒るわよ」
クラリスはまっすぐ言った。
「失敗するのは構わないわ。でも、わからないものを雑に扱うのは違うでしょう」
その言葉で、さっき自分が何をしたのか、ようやくわかった。
泡はただの足場じゃない。
この街にとって、潮も泡も、ちゃんと意味のあるものだ。
それを、わたしは腹いせみたいに踏み潰した。
「……ごめん」
素直に謝ると、クラリスは少しだけ息を吐いた。
海底民のひとりが、割れた泡の跡を見ながら口を開く。
「泡は軽いけど、軽薄じゃない」
静かな声だった。
「軽いからって、雑に触っていいわけじゃない。やわらかいからって、適当に乗っていいわけでもない。怖がって固まっても駄目。押さえつけても駄目だ」
わたしには前半が刺さった。
クラリスにはたぶん、止まりすぎたことが。
ミスティアには――もっと深く、後半が入ったんだと思う。
「泡を使うんじゃないよ」
海底民は言う。
「泡に嫌われないんだ」
「嫌われない……」
ミスティアが小さく繰り返す。
「信じるんだよ。次、割れないって。自分も、泡も」
その言い方は、技術の話みたいで、技術だけじゃない話だ。
ミスティアはしばらく水面を見ていた。
泡の揺れ。潮の流れ。生まれては消える細かな粒。
「私は……」
彼女がぽつりと言う。
「泡を、信用していなかったのかもしれません」
わたしにはそこまで綺麗にはわからなかった。
だからって黙るのも違う気がした。
「でもミスティアの泡、ちゃんと強いじゃん」
思ったまま言う。
クラリスが静かに続けた。
「強いことと、委ねられることは別なのかもしれないわね」
ミスティアは少しだけ息を吐いた。
答えに届いた顔じゃない。けど、入口には立った顔だった。
海底民が顎で試練場を示す。
「もう一回」
「わたしも!」
「酒飲みはちょっと黙ってて」
即座に却下された。ひどい。
「あなたも今は見ていなさい」
クラリスにも止められる。
しょうがないので、わたしは腕を組んで見守ることにした。
ミスティアが前へ出る。
今度も彼女は泡を見た。潮を見た。
さっきみたいに全部を一歩目へ押し込もうとはしなかった。
深く息を吸う。
吐く。
潮の揺れに、自分の呼吸を合わせるみたいに。
そして、一瞬だけ。
考えるより先に、体を預けた。
足が泡へ乗る。
泡は割れない。
拒まず、ふわりと受ける。
ミスティアの身体が、海の上ではなく、潮の上で軽く跳ねた。
一歩。
それだけだった。
でも、その一歩はさっきまでとまったく違った。
「おお……!」
思わず声が漏れる。
クラリスも息を呑んだまま、何も言わない。
海底民たちの笑い声は今度、少しやわらかかった。
「今の」
「それ」
「ちゃんと跳ねた」
ミスティアは二歩目でまた少し遅れ、三歩目へ行く前にバランスを崩して結局落ちた。
渡れたわけじゃない。
成功したわけでもない。
水面から顔を上げた彼女の目には、さっきまでなかったものがあった。
悔しさ。
それと、たしかな手応え。
あの一歩はたぶん、向こう岸へ渡るための一歩じゃなかった。
ミスティアが、自分の泡に嫌われないための一歩だった。




