しょっぱいのに、うまいのは反則
海底の市場を歩いていて思った。
この街、たぶん人をだめにする。
いや、正確には酒飲みをだめにする、だ。
だって見てほしい。通りの左右に並んでるの、干し魚、塩漬け貝、藻の燻製、炙り肉、香辛料の束、発酵果実、濃そうな汁物、どう考えても酒のために生まれてきた連中ばっかりだ。海の下なのに、いや海の下だからこそ、全部の匂いがぎゅっと締まっていて、鼻に入った瞬間「飲め」って言ってくる。
「調査にはカロリーが必要だと思う」
「その理屈で食べ歩きを正当化しないの」
クラリスが間髪入れずに刺してきた。だが今日は味方がいる。
「空腹時の判断力低下は事実です。未知の文化圏を歩く以上、適切な補給は必要かと」
ミスティアが静かに援護射撃をくれる。
「ほら見ろ。学者もそう言ってる」
「学者じゃないし、ミスティアの援護はだいたいややこしくなるのよ」
正しい。けど今は聞かない。わたしはもう目の前の炙り台に心を奪われていた。
最初に買ったのは、塩気の強い干し魚の炙りだった。細長い銀魚を何匹も串に刺して、表面だけをぱりっと焼いている。噛んだ瞬間、皮の香ばしさと身の濃い塩気が一気に来た。
「しょっぱ!」
思わず顔をしかめる。
隣で店の海底民が鼻で笑った。
「地上の舌には強いか」
「強いっていうか、海が殴ってきた」
「それで終わると思うなよ。ほら」
小さな杯を差し出される。透明に近いのに、匂いはちゃんと酒だ。ひと口含むと、鼻の奥を抜ける冷たい香りが、さっきの魚の塩を急に味方に変えた。
しょっぱい。
でも、そのしょっぱさが酒を押し上げる。
酒の輪郭が立つ。魚の旨味も引っ張り出される。
「待って、これ好き」
「早いわね、寝返るのが」
クラリスが呆れる。
「しょうがないでしょ。舌が正直なんだよ」
「節操がないとも言うのよ」
次に藻の香りを移した燻製肉を齧る。噛んだ瞬間は肉の脂が来るのに、あとから海藻っぽい青い香りがふっと抜けた。重いのに、重いまま終わらない。後味が妙に静かで、また酒を呼ぶ。
「なにこれ、ずるい」
「あなた、さっきから感想が雑すぎるのよ」
「雑じゃない。あまりにうまいと語彙が溶けるんだって」
「雑なのはいまに始まったことではありません」
その横でクラリスも、塩と蜜を合わせた焼き貝を食べて目を丸くしていた。貝の表面に薄く塗られた蜜が火で少しだけ焦げていて、塩気の奥に甘みが差し込む。
「……これは」
「うまい?」
「かなり」
よし。落ちた。
さらに貝出汁と海底香辛料の濃いスープ。小ぶりな器なのに、湯気の匂いだけで強い。飲むと出汁が濃い。貝の旨味と塩と、あとから少し痺れるような香辛料が来る。軽いスープじゃない。ほとんど食べる酒の相棒だ。
乾いた小魚と砕いたナッツを和えたつまみも危険だった。かりっとしてるのに脂がいて、塩が強いのに嫌じゃない。口の中に残る時間が長いから、そのぶん酒がほしくなる。
海底葡萄に似た発酵果実なんて、もう完全に反則だ。見た目は小さな黒紫の実なのに、噛んだ瞬間、果汁じゃなくて熟れた香りがほどける。甘いのに、甘いだけじゃない。少し酸っぱくて、奥に発酵の丸さがある。
「この街、危ない」
「今さら?」
「ご飯もうまいしお酒もうまい」
わたしが真顔で言うと、店の親父が肩を揺らして笑った。
その頃にはミスティアが始まっていた。
「興味深いですね。塩味が単純に強いのではなく、香りの残留時間を意図的に伸ばしています。乾燥と脂質の結合で旨味を抜けにくくして、そこへ酒を挟む前提で組んでいるので――」
「また難しい話が始まった」
屋台の女将が苦笑する。
「この藻香燻製も、表層だけに香りを移してますね。中心まで染めてしまうと肉側の脂の主張が死ぬので、あくまで抜け際だけを海へ寄せている。あと先ほどのスープ、塩分濃度が高いのに飲み疲れないのは、出汁の厚みに対して香辛料が遅れて――」
「ミスティア、口の中でも論文書いてる?」
わたしが茶化すと、前なら少し困ったように黙っていたはずの彼女が、今日はほんの少し笑った。
「書いてはいません。ただ、面白いので」
「うん、静かな迷惑だね」
近くの海底民が笑う。
その笑いに棘はなかった。ミスティアもそれを感じているのか、しゅんとしない。そこがちょっとうれしい。
市場の奥へ進むと、昨夜会った酒守が、樽の並ぶ一角で座っていた。わたしたちを見ると、小さく顎を上げる。
「もう街の味に落ちた顔だな」
「だってうまいし」
「相変わらず早いわね」
酒守の隣には、古い樽を手入れしている料理人風の男もいた。二人とも、海の下の酒を雑に語る顔はしていない。
わたしは単刀直入に聞く。
「《深潮》って、どこにあるの?」
料理人が先に答えた。
「飲みたいだけのやつには見つからねえよ」
「ひどくない?」
「ひどくねえ。海の底の酒は、待てるやつにしか開かねえ」
酒守が続ける。
「保存する。待つ。抜けさせない。急がせない。海底の酒は、その礼儀を通ったやつにだけ応える」
「つまり、我慢?」
嫌そうな声が出た。
クラリスが即座に言う。
「あなたに一番向いてない条件ね」
「そんなことないよ。わたしだって待てるよ」
「料理が運ばれてくる三十秒ですら待てずに覗き込む人が?」
「それは確認!」
「同じことよ」
ミスティアはその言葉に少しだけ考え込むような顔をした。
「待つ、ですか……」
「ただ止まるのとは違う」
酒守が彼女を見る。
「深いところの待ちは、抜けないように保つことだ。急かさず、逃がさず、変わる時間を受け入れる」
その言い方は、酒の話なのに、どこか魔法の話にも聞こえた。
ミスティアもたぶん同じことを思ったんだろう。少しだけ視線を伏せて、静かにうなずいた。
料理人が、樽の栓を指で叩く。
「《深潮》へ行きたいなら、先に潮待ちの儀を越えろ」
「また試練?」
「他はどうか知らないが試練だ」
「酒に会う前から待たせる酒って、だいぶ生意気だな」
思わずそう言うと、酒守がほんの少しだけ口元を緩めた。
「そういう酒ほど、うまいもんだ」
先に言われた。悔しい。
でも、その通りだと思う。
海の下の飯は、しょっぱい。濃い。重い。
食べたあとに残る。
残るから、また次がほしくなる。
たぶん《深潮》も、そういう酒なんだろう。
派手に殴ってくるんじゃなくて、深く沈んで、あとからじわじわ効いてくるやつだ。
だったら会いに行くしかない。
待たされるのは癪だけど、待たされる価値がある酒っていうのは、ちょっとどころじゃなく気になる。
わたしは空になった小さな杯をくるりと回して、海の底の灯りを見た。
酒に会う前から待たせる酒って、だいぶ生意気だ。
そういう酒ほど、うまい。




