水圧はだいたい理不尽
潮の縦穴を前にすると、さすがのわたしでもちょっとだけ黙る。
いや、正確には一秒くらいだ。
二秒目にはもう、テンションが上がっていた。
「うおお、すげえ! なにこれ! 海なのに縦に落ちてる!」
「見たままの感想ね」
クラリスが呆れた声を出す。
だけど、その横顔はちょっと硬い。無理もない。目の前の断崖の奥では、青い光を帯びた潮の流れが、まるで空に向かって流れる滝みたいに縦へ伸びていた。下へ落ちているはずなのに、見ていると上へ吸い込まれそうな変な感覚になる。
ミスティアは緊張半分、興味半分って顔で、その流れをじっと見ていた。
「通常の海流とは違いますね……水塊というより、圧と魔力で成形された通路に近いです」
「つまり?」
「落ちるのではなく、導かれる、でしょうか」
「格好いい言い方したけど、怖いものは怖いわよ」
クラリスの言う通りだった。
案内役の海民は、昨夜酒場で呼吸酒を見せてくれた男だった。朝の光の代わりに潮の青を顔に受けながら、小さな杯を三つ差し出してくる。
「降りる前に、ひと口。昨日の続きだ。飲むな、巡らせろ」
「言い方がもう難しい」
「難しいまま覚えろ。海の下は、雑な理解を嫌う」
その言葉が、いかにも海の下っぽくて少し腹が立つ。だが、酒が絡むと人は素直になれる。
わたしは杯を受け取り、昨日よりは慎重に口へ含んだ。飲み込まず、息を整える。鼻に抜ける塩気のある香りが、喉を通るんじゃなくて胸の内側へ広がっていく。
昨日は盛大に咽せたけど、今日はちょっとだけわかる。これ、お酒っていうより、身体の中に「海の下に行ってもいいですよ」って言い聞かせる儀式だ。
「よし。たぶん大丈夫」
「そのたぶんが信用できないのよ」
クラリスが自分の杯を空にしながら言った。
海民にうながされ、わたしたちは潮の縦穴へ足を踏み入れた。
最初の一歩で、世界がちょっと裏返る。
海水の中に入った、という感じではなかった。濡れる感覚はあるのに、ただの水中じゃない。重たいはずの海が、身体の周りだけ妙にやわらかい。押されているのか、引かれているのかもわからないまま、視界の青が一気に深くなる。
「うおおお、すげえ! これ楽しい!」
叫んだ次の瞬間、わたしの身体は縦穴の流れにくるっと巻かれた。
「え、ちょ、待っ――」
ぐるりと半回転。足が上に行ったのか、頭が下に行ったのかもわからない。とにかく景色が回る。潮流の中でわたしだけが酒瓶の中の豆みたいに転がされた。
「伊吹! だから最初から騒ぐなと――!」
クラリスの声が遠く聞こえる。聞こえるけど、今はそれどころじゃない。やっと体勢を立て直した頃には、案内役の海民がわたしの襟首を掴んでいた。
「はしゃぐのが早い」
「だって楽しかったから!」
「楽しいとすぐ手足を雑にするな」
「反論しづらい!」
クラリスはきちんと姿勢を保とうとしていた。剣を背負ったまま背筋を伸ばし、落ち着いて降りようとしている。見た目だけなら一番安定している。
ただ、その真面目さが海の下では裏目に出るらしい。
肩に力が入りすぎていて、潮の押し引きに対して身体が硬い。結果、変な方向から来た流れに持っていかれて、すいっと横を向いた。
「え、ちょっ」
クラリスの足が空を切る。いや海だけど。彼女は慌てて体勢を戻そうとして、さらに硬くなる。そのせいでまた流れに逆らってしまい、今度は横向きのままゆっくり回っていった。
「クラリス、すごい綺麗に失敗してる」
「見てないで助けなさい!」
「今わたしも忙しい!」
ミスティアは三人の中では比較的まともだった。まとも、というか一番冷静だ。流れの向き、気泡の出方、海水の密度差みたいなものを見ているらしい。見ているのはいいんだけど、見すぎている。
「下降速度は一定ではなく、層ごとに圧変動が……いえ、この泡の帯は誘導目印ですか。だとすると次の流線は――」
「ミスティア、降りながら考えるのやめて!」
「今、非常に重要な」
言い終わる前に、彼女の体が一拍遅れた。潮流は待ってくれない。置いていかれたミスティアのローブの裾がふわりと浮き、本人だけがきょとんとした顔で半歩分遅れる。
「処理落ちしてる!」
「していません! ただ少し情報量が」
「多すぎて処理落ちしてるのよ」
そんなふうに全員がそれぞれの失敗をしながら、なんとか潮の縦穴を抜けた。
そして、海底都市へ着いた。
着いた瞬間、さっきまで騒いでいた頭が少しだけ静かになる。
海の底なのに、ちゃんと街だった。
沈んだ石造りの建物が並び、古い回廊の骨組みに新しい店の布が掛かっている。貝殻と鉱石を組み合わせた灯りが、青、緑、金の光を静かに滲ませていて、暗いというより深い。通りのあちこちから細かな泡が昇っていて、それが空の代わりみたいに上へ流れていく。市場もある。遺跡の柱のあいだに屋台が立ち、沈没した昔の街を、そのまま今の人たちが住みこなしている感じだった。
「……海の底なのに、ちゃんと街だ」
思わずそのまま口に出る。
クラリスも息を呑んでいた。剣士として、知らない土地の構造をまず見てしまうんだろう。石造建築の連なりと、海底での生活の合理性を一緒に見ている顔だ。
ミスティアは少しだけ目を細めて、静かに言った。
「沈没ではなく、定着ですね」
近くを通った海底民が、その言い回しに足を止めた。
「変なこと言う嬢ちゃんだな」
「ですが、実際そうです。失われた都市ではなく、沈んだまま継続している生活圏です」
「長いな」
「すみません」
ミスティアはちゃんと謝った。でもちょっとだけ嬉しそうだった。
問題は、着いてからだった。
海底都市では、立つとか歩くとかいう当たり前の動作から、もう理屈が違う。
わたしは勢いよく一歩踏み出して、そのままふわっと浮きすぎた。地面を蹴ったつもりが、身体だけ前へ出る。止まりきれず、石壁に肩をぶつける。
「いった!」
「足がうるさい」
通りすがりの海底民に即座に言われた。つらい。
クラリスは体幹でどうにかしようとしていた。たぶん地上なら正しい。地上ならめちゃくちゃ正しい。
でもここでは、正しさがそのまま通用しない。彼女はまっすぐ歩こうとして、逆に横から来た緩い潮に押される。ぐらりと一歩ずれて、真顔のまま壁際へ流された。
「……今のは、床が悪いわね」
「海の下までそれ言うの?」
「伊吹にだけは言われたくない」
ミスティアは最初うまくいきそうだった。水系適性が高いせいか、この場所の重さと軽さの混ざり方に、少しだけ馴染みがあるらしい。
でも、通りの脇を昇っていく泡の筋を見つけた途端にまた始まる。
「この泡、妖精郷のものより保持時間が長いですね。粒径も揃いすぎず、しかも――」
「嬢ちゃん、足」
海底民に言われた時には遅かった。ミスティアは説明に気を取られたまま半歩遅れ、その場の潮に置いていかれて、ひとりだけ静かに回転した。
「呼吸が浅い」
「急ぎすぎ」
「あと足がうるさい」
通行人たちが、わたしたちに遠慮なく言ってくる。
「容赦ないなこの街!」
「でも正しいのが腹立つわね」
クラリスが小さく苦笑した。
市場へ入ると、さらにこの街の理屈が見えてきた。
並んでいるのは干し魚、塩漬け貝、藻、燻製肉、香辛料の包み。どれも保存前提の顔をしている。
酒樽は深く密閉され、飾るためじゃなく、寝かせるためにそこにあるって感じだ。せかせかした呼び込みは少ない。
でも活気がないわけじゃない。みんな落ち着いていて、深いところの時間で動いている。
焦る方が、この街では浮いて見えた。
「……なんかさ」
わたしは通りを見回しながら言う。
「この街、ゆっくりしてるのに、鈍くないね」
近くで樽を拭いていた老女が、ちらりとこっちを見る。
「深いところでは、焦る方が浅いんだよ」
短い言葉だったけど、耳に残った。
その時、ミスティアが市場の端に漂う細い泡の列を見つめていた。
「この泡、静かですね」
「泡なんてどれも同じじゃないの?」
「違います。妖精郷の泡はもっと跳ねていました。でも、ここの泡は長く残る。主張しないのに、消えきらない」
海底民の男がその言葉を聞いて、少しだけ笑った。
「嬢ちゃんの泡は綺麗すぎるな」
「……綺麗、ですか?」
「行儀がいいってことだよ。悪くはねえ。だが、海の泡にしちゃ整いすぎだ」
ミスティアは少しだけ目を瞬いた。妖精郷で言われたことに、どこか似ている。
でも、今度はもっと静かな言い方だった。
市場の奥、潮の当たりが少ない石段のそばで、白い髭の老人が座っていた。樽に肘を置き、こちらをじっと見ている。その目だけで、この街のお酒を長く見てきた人だとわかる。
案内役の海民が、小さく頭を下げた。
「酒守だ」
わたしはつい前のめりになる。
「《深潮》って、ほんとにあるの?」
老人はしばらく黙って、それから海の底みたいに低い声で言った。
「あれは酒じゃない」
その一言で、まわりの音が少し遠のく。
「海の底で、時間に磨かれた息だ」
やっぱり格好いい言い方をする。この街の人たち、そういうの好きだな。
でも、わたしが聞くことは一つだ。
「つまり、うまい?」
老人は眉をひそめた。
「うまいなどで済ませるな」
「そこをなんとか」
「済ませるなと言った」
怒られた。けど、完全な拒絶じゃない。少なくとも、話す価値もない相手を見る目ではなかった。
老人は潮の向こうを見ながら、ぽつりと続ける。
「深い酒は、派手じゃない。だが、飲んだやつの中に長く残る」
その言葉の意味は、まだわからない。
でも、わからないままでも、ちょっとだけ胸が騒いだ。
たぶん《深潮》は、ただ珍しいだけのお酒じゃない。
海の底で時間ごと封じられて、それでもなお待たれている酒だ。
――そういうお酒、絶対うまいに決まってる。
わたしの舌は、うまいともう決めていた。




