夫婦の時間
その夜ジャスミンは、やや緊張しながら厨房に立っていた。この後、ロランと夜食を共にするからだ。しかも、当然ワインを飲むかと思いきや、ロランは今日市場で購入したビールを飲むと言い出したのだ。そこでジャスミンは急遽、ビールに合うつまみ作りをしているのである。
‘揚げたジャガイモに、魚のフライ、マスタードとガーリックを効かせたサラダ、そしてペッパー風味の鶏皮でOKかしら?’
「奥様、ご準備はよろしいでしょうか?」
約束の時間が近づいて来たからだろう、ゴーチェが厨房へ姿を現す。ジャスミンは、ええと答えた。
「では、お持ちしましょう」
ゴーチェがトレイを受け取り、歩き出す。そこでジャスミンはおやと思った。てっきりロランの書斎へ向かうかと思いきや、ゴーチェは、ジャスミンの部屋へと向かったのだ。
「旦那様のご指示でございます」
ジャスミンの不審に気がついたのか、ゴーチェが説明する。ジャスミンは、こてりと首をかしげた。
‘ビールを飲みたいと仰ったり、私の部屋を指定されたり。旦那様が何をお考えなのか、さっぱりだわ……’
やがて部屋に到着すると、ゴーチェは丁寧に礼をして去って行った。中ではロランが、くつろいだ寝間着姿で待っていた。
「お待たせしましたわ、旦那様。書斎で飲まれるのではなかったのですね」
「仕事も一段落したことだしな。リラックスするためには、こちらの部屋の方がよかろう。さあ、君もくつろいで」
言いながらロランは、ジャスミンのエプロン姿をチラリと見た。
「作り置きでよかったのに。新しい品を作ったのか?」
「いつもの料理は、ワインに合わせたものですから。ビールには、こちらが合うかと思いました」
ジャスミンは、手早くエプロンを外すと、ロランにビールを注いだ。
「そうなのか。わざわざ、悪かったな」
「簡単なものばかりですから、お気になさらないでください。ところで旦那様、なぜビールにされたのです?」
「君が早速飲みたいだろうと思ってな。私も同じものをと考えた」
ロランは、ジャスミンにもビールを注いでくれると、料理をしげしげと眺めた。
「何やら珍しい品があるな。これは何だ?」
ロランが目に留めたのは、鶏皮だった。
「鶏の皮ですわ。これまでは廃棄処分されていたらしいのですけど、実はお酒によく合う品なのですよ。ガーリックやペッパーなどの香辛料を合わせると、完璧です」
人と会うことも多いロランを慮り、今回はペッパーのみの味付けである。
「ふむ。ゴーチェが、食費節減にも貢献、とか申していたのはこのことか」
ロランは興味深げに鶏皮の皿を取ると、おもむろに一切れ口にした。途端に、目を見張る。
「美味いな。味付けが、絶妙だ。それにこの食感……。食べ慣れぬ感覚だが、妙に食欲をそそる。確かに、酒に合いそうだ」
ロランは大きく頷くと、グラスを手にした。
「では改めて。領地繁栄に貢献してくれた奥方に、乾杯」
「貢献というほどのことはしていませんが……、ありがとうございますわ。乾杯」
カチンとグラスを合わせ、一気に喉に流し込む。疲れた体に冷たいビールが、心地良かった。
‘あー、美味しい。やっぱり元庶民には、ビールだわ!’
「ビールなんて久々だが、悪くないな。うん、この料理と合うぞ」
ロランも思ったより満足そうに頷きながら、鶏皮をつまんでいる。お世辞ではなさそうで、ジャスミンはほっとした。
「茶会では、このような料理を出すつもりか?」
「ジレット家の皆様は、お米料理に興味をお持ちでしたので、それらにしようかと」
するとロランは、何やら紙切れを差し出した。
「何ですの、これは?」
「招待すべきご夫人たちのリストだ。茶会の発案者はジレット家の教育係だそうだから、そこのご夫人は呼ばないとまずいだろうが、他にも無視するとまずい夫人は何人かいる。いわゆる、高位の家柄のご夫人たちだな。領主夫人として絶対に招待すべきメンバーをリストアップしておいた」
「まあ、わざわざ?助かりますわ」
お遊び感覚でとらえていたお茶会だが、領主夫人主催となると、そうは受け取られないのだろう。ジャスミンは、背筋が引き締まる思いだった。
「それから。こう言っては何だけれど、ジレット殿は商人だ。高位貴族の集まりに一人だけ交じると、居心地が悪いかもしれない。そこで、同じような有力商人のご夫人方もリストに加えてある。彼女らも招待すれば、バランスが取れるだろう」
ロランの細やかな気配りに、ジャスミンは胸がいっぱいになった。
「お忙しい中、本当にありがとうございましたわ。私のために……」
この程度、ゴーチェに任せてもよかっただろうに。するとロランは、微苦笑を浮かべた。
「奥方のために何もしてあげられていないのだ。これくらいは執事任せにせず、自分でやろうと思ったのだよ……。考えてみれば、これまで君ばかり非難してきたが、私だって君をろくに構ってこなかった。反省したよ」
「旦那様……」
まさかロランの口からそんな言葉が出て来るとは、思ってもみなかった。ロランが、ジャスミンをじっと見つめる。
「前々から言おうと思っていたのだが。どうも、素面では照れくさくてな。今ようやく言うことができた。酒にも、良い一面があるな」
ふっと、肩の力が抜けるのを感じる。ロランは微笑むと、ジャスミンのグラスに酒を追加してくれた。
「君も毎日あれこれこなして、疲れていることだろう。リラックスしてくれ。……それから、二人きりの時は、‘旦那様’ではなく名前で呼んで欲しい」
「はい、ロラン様」
微笑み返すと、ジャスミンはグラスを口に運んだ。夫婦の穏やかな時間は、ゆっくりと過ぎて行った。




