旦那様とのひととき
一時間後。ジャスミンはロランと共に、市場にいた。
「あの肉屋か?」
ロランが尋ねる。はい、とジャスミンは頷いた。女店主の香水の匂いがきついと、ギョームが騒いでいた店だ。
「私一人で行ってこよう。君は、待っていてくれ」
そう言い残すと、ロランはさっさと店へ入って行った。数分の後、出てきた彼は笑みを浮かべていた。
「案ずるな。上手くいったぞ」
「何と仰いましたの?」
「まずは市場に貢献していることをねぎらった上で、食物を扱うのにあまりきつい香水を使っていては、客の購買意欲が衰えるのではとさりげなく忠告した。本人には自覚が無かったようで、反省し恐縮していたよ」
ジャスミンは、ほっと胸をなで下ろした。
「スムースに解決できて、よかったですわね」
「ああ。それから、市場が騒々しいという件だが。代官に言って、買い物が済んだのにしつこく居座って駄弁っている客を取り締まるよう、命じておいた。これで少しは静かになるだろう」
「よかったですわ。では苦情の主に、そのように報告しますわね」
米の輸入に当たって協力してくれたギョームとパスカルに、ジャスミンは何か礼をしようと考えたのだ。そんなわけで、これまでは些細な文句だのクレームだのと無視してきた二人の訴えを、解決してあげることにした。偶然にも内容はいずれも市場がらみだったため、ジャスミンはロランを伴い、直接市場を訪れることにしたのである。
肉屋の女店主には直接ロランが注意することとしたが、騒々しさの件は、さすがに市場の活動時間を変えるわけにはいかない。そこで、少しでも静まるようにと措置を執った次第だ。これで二人とも納得してくれるだろうか、とジャスミンは思った。
「旦那様。本日はわざわざご足労いただきまして、本当にありがとうございましたわ。もう帰られますか?」
忙しいだろうと気を遣ったジャスミンだったが、ロランはいや、とかぶりを振った。
「せっかく来たのだ。少し見て回るとしよう。君も、欲しいものがあれば買うといい」
そう言うとロランは、思いがけないことを言い出した。
「酒はどうだ?ここには、珍しい種類の酒も売られている。たまにはワイン以外も飲めばよかろう」
ジャスミンは、耳を疑った。ロランが苦笑する。
「最近の君は、酒に溺れることも無くなった。あれこれ尽力していることだし、たまには自分へ褒美をあげるとよい」
「よろしいのですか!?……では、お言葉に甘えますわね」
二人はしばし、市場を散策して回った。ロランの言うとおり、様々な種類の酒が売られていたが、ジャスミンが選んだのはビールだった。
「平民が飲む安酒ではないか。そんなものでいいのか」
ロランが、訝しそうに尋ねる。いいんです、とジャスミンは答えた。前世では大学生だったから、飲んでいたのはもっぱら安いビールや発泡酒だった。正直、この世界でたしなむワインよりはそれらの方が口に合うのである。
‘ビールとワインでは、合うおつまみもまた違ってくるのよね。今度は、何を作ろうかしら……’
あれこれと考えを巡らせながら、機嫌良く帰りの馬車へと乗り込む。するとロランが尋ねてきた。
「そういえば、試食会は順調か?ジレット家の教育係は、熱心に参加しているようだな」
「楽しくやらせてもらっていますわよ。……ああ、そうですわ」
ジャスミンは、バルバラの話を思い出した。
「バルバラさんからのご提案で、お茶会を開いてみようと思うのですが、いかがでしょうか」
「よいのではないか?領内のご夫人方との交流も、領主夫人の立派な務めだ。君、本当に自覚が出てきたな」
ロランはあっさり了承したが、ジャスミンはためらった。
「しかし、ですね……。バルバラさんが仰るには、ジレット家の奥様は、私が作る料理のレシピをお知りになりたいそうなのです。お料理のお披露目とレシピ伝授の場になりそうなのですが、お茶会としてはよろしくないでしょうか?」
ロランは、またもや即答した。
「ああ、よろしくないな」
「まあっ。料理学校なら授業料を取れるからいい、と仰ってたじゃありませんの。私、学校みたいにすることも考えてましたのよ?」
ジャスミンはムッとしたが、ロランは肩をすくめた。
「冗談に決まっているだろうが」
そしてロランは、意外な言葉を続けた。
「使用人たち、ジレット家の面々、そして他家のご夫人方までもが君の料理を試食すると?これでは、君の料理をまだ食していないのは、私だけではないか」
「は!?そんな理由ですの?」
ジャスミンは面食らったが、ロランは大真面目な様子だ。
「当たり前だろう。私は君の夫なのに、なぜ私だけが食べられないんだ?」
「あー……。それは、機会を逸したと申しますか……」
晩餐は共にする二人だが、夜食の時間となると、ロランは書斎で仕事に熱中している。下手に夜食など持ち込んで邪魔をするのもはばかられたのだ。それに、使用人たちは積極的に食べたがってくれたが、果たしてロランが食べてくれるのかという不安もあった。
‘だって、お酒のおつまみばっかりですもの……’
「ジャスミン」
ロランが不意に、ジャスミンの手を握る。
「今はたまたま平和な時期が続いているが、私は再び仕事で招集されるかもしれない。魔物は、またいつ何時現れるかわからないからな。だから滅多に無い家にいるひとときを、できるだけ妻と過ごしたいと考えるのは変だろうか」
「そんなこと……、ございませんわ……」
ジャスミンは、消え入りそうな声で答えた。グリーンの瞳を輝かせて、ロランが微笑む。
「では、決まりだな。今後は、夜食の時間も共にしよう。君お手製の料理と酒で、な」
はい、とジャスミンは勢いよく返事をしていた。一人で酒浸りだった日々が、今では信じられない。夫と一緒に、酒とつまみを楽しめるなんて。
‘前世の記憶を取り戻して以来だわ。本当に良かった……’




