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消えたカルテ


 翌朝。


 希望はほとんど眠れないまま病院へ向かった。


 玄関に届いていた脅迫状。


 非通知の電話。


 そして優の言葉。


 __亡くなった患者は、一人じゃない。


 その一言が頭の中で何度も繰り返されていた。


 病院の正面玄関をくぐると、いつもと変わらない朝の光景が広がっている。


 受付では外来患者が受付番号を受け取り、売店からは焼きたてのパンの香りが漂う。


 この病院に、本当にそんな闇が隠されているのだろうか。


 そう思う一方で、香織の日記と優の表情は、決して思い過ごしではないと告げていた。




「おはよう」


 ナースステーションへ入ると、佐々木遥が声を掛けてきた。


「顔色悪いけど、大丈夫?」


「昨日あまり眠れなくて……」


「無理しないでね」


 遥はそれ以上深く聞かなかった。


 希望はその優しさに少しだけ救われる。




 申し送りが終わり、患者の点滴交換を終えた頃だった。


「土屋さん」


 師長の石川が希望を呼び止めた。


「時間ある?」


「はい」


「ちょっとカルテ庫まで、この書類を持っていってくれる?」


「分かりました」


 病棟の地下にあるカルテ保管室。


 電子カルテ化される前の古い紙カルテが保管されている場所だった。




 地下フロアは昼間でも薄暗い。


 蛍光灯が一定の間隔で並び、静まり返った廊下には自分の足音だけが響く。


 カルテ保管室の扉を開けると、古い紙の匂いが鼻をついた。


「失礼します」


 担当事務員へ書類を渡そうとした時だった。


「土屋さん?」


 事務員の女性が困った表情を浮かべている。


「ちょうどよかった」


「どうしました?」


「少し探すの手伝ってもらえませんか?」


「何をですか?」


「カルテが一冊なくなってるんです」


 希望は思わず聞き返した。


「なくなった?」


「はい」


「患者さんのカルテですか?」


「そう」


 事務員は管理台帳を見せた。


「三か月前に亡くなった患者さん」


 希望は何気なく名前を見る。


 その瞬間、息が止まった。


村木 香織




「……え?」


 希望は目を疑った。


「村木さんのカルテが……」


「昨日までは確かにここにあったんです」


 事務員は棚を見渡す。


「返却記録もないし、持ち出し申請もない」


「そんなことってあるんですか?」


「普通はありません」


 紙カルテは持ち出す際、必ず記録を残す決まりになっている。


 無断で持ち出すことはできない。


 それなのに、香織のカルテだけが消えている。




 希望の心臓が速くなる。


 誰かが隠したのだろうか。


 それとも——。


「土屋さん?」


 事務員の声で我に返る。


「ごめんなさい……」


 二人で棚を探したが、見つからなかった。




 病棟へ戻る途中。


 エレベーター前で宮田と鉢合わせた。


「どうしたの?」


 希望は声を潜めた。


「香織さんのカルテがなくなってる」


「……何ですって?」


 宮田の表情が一変する。


「本当に?」


「紙カルテだけ」


「誰かが持ち出した可能性が高い」


「でも記録がない」


 宮田は腕を組んだ。


「偶然じゃないね」




 二人は人気のない非常階段へ移動した。


「昨日の脅迫状」


「うん」


「今日のカルテ紛失」


 宮田は一つずつ指を折る。


「全部繋がってる」


「やっぱり?」


「誰かが私たちの動きを知ってる」


 希望は思わず辺りを見回した。


「病院の中に?」


「そう」


 宮田は小さくうなずく。


「しかも、かなり上の立場の人」




 その時だった。


 非常階段の扉がゆっくり開く。


 ギィ、と軋む音。


 二人は反射的に会話を止めた。


 現れたのは清掃員だった。


「あ、ごめんなさい」


 掃除道具を持った女性は軽く会釈すると、そのまま階段を下りていく。


 宮田は小さく息を吐いた。


「びっくりした……」


 しかし希望は違和感を覚えていた。


「あの人……」


「どうした?」


「初めて見る人だった」


 宮田も振り返る。


「確かに」


 この病院の清掃員の顔は、希望もほとんど覚えている。


 だが、今の女性には見覚えがなかった。




 勤務終了後。


 希望はロッカーで着替えていた。


 バッグを開くと、中に見覚えのないメモが入っている。


 昨日と同じ白い紙。


 震える手で開く。


「カルテを探しても無駄だ」


 その下には、新しい一文が書き加えられていた。


「次は地下資料室を調べろ」


 希望は目を見開いた。


 脅迫なのか。


 それとも——。


 誰かが、自分を導こうとしているのか。


 その瞬間、病院地下の暗い廊下が脳裏によみがえった。


 地下資料室。


 そこには、まだ誰も知らない”過去”が眠っているような気がした。







 その夜。


 希望は病院を出たあとも、バッグの中のメモを何度も見返していた。


「次は地下資料室を調べろ」


 誰が書いたのか。


 敵なのか、それとも味方なのか。


 分からない。


 だが、一つだけ確かなことがあった。


 香織のカルテが消えた直後に、このメモが届いたのは偶然ではない。




 翌日。


 夜勤明けで人の少ない時間を見計らい、希望は宮田と地下資料室へ向かった。


 地下二階。


 カルテ庫よりさらに奥にある、ほとんど使われなくなった書類保管室だった。


 院内の事故報告書や古い会議録、改装前の図面などが保管されている場所で、看護師が立ち入ることはほとんどない。


「本当に入って大丈夫かな」


 希望が小声で言う。


「正式な許可はないけど、鍵は開いてる」


 宮田は周囲を確認しながら扉を開けた。


 重い鉄の扉が鈍い音を立てる。




 室内は薄暗く、埃っぽい空気が漂っていた。


 天井の蛍光灯は半分ほど切れている。


 棚には年代ごとに分けられた段ボール箱が積み重なっていた。


「事故報告書……」


 宮田がラベルを読む。


「平成三十年度、令和元年度、令和二年度……」


 二人は手分けして箱を開け始めた。




 三十分ほど経った頃だった。


「希望ちゃん」


 宮田が一冊のファイルを持ち上げる。


「これ」


 表紙には赤字で書かれていた。


『医療安全対策委員会 提出予定資料』


「提出予定?」


 希望が首をかしげる。


「正式な議事録じゃない」


 宮田はページをめくる。


「提出前の原案みたい」


 その中には、事故報告の一覧が綴じられていた。


 患者名は黒く塗りつぶされている。


 しかし、日付だけは読めた。


「……」


 希望の指が止まる。


 三か月前。


 香織が亡くなった日の欄だった。


 そこには一件だけ、赤字でこう書かれていた。


提出中止


「提出中止?」


 希望は思わず声を漏らす。


「医療事故なら報告するはずじゃ……」


 宮田の表情も険しくなる。


「普通はね」




 さらにページをめくる。


 そこには手書きのメモが挟まれていた。


『院長判断により保留』


 その横にはサイン。


高橋政則


 院長だった。


「院長まで……」


 希望は言葉を失う。


 香織の件は、本当に病院全体が関わっているのかもしれない。




 その時だった。


 廊下から足音が聞こえた。


 コツ……


 コツ……


 コツ……


 二人は動きを止める。


「誰か来る」


 宮田が小声で言う。


 資料室の電気を消し、棚の陰へ身を隠した。


 足音は扉の前で止まる。


 ドアノブがゆっくり回る。


 ギィ……


 扉が開いた。




 入ってきたのは白衣姿の男性だった。


 暗くて顔は見えない。


 しかし、その声には聞き覚えがあった。


「……誰か入ったのか」


 山本だった。


 休暇中のはずの薬剤部長・山本和彦。


 なぜ病院にいるのか。


 希望は息を殺す。


 山本は部屋を見回すと、一番奥の棚へ向かった。


 鍵付きの引き出しを開ける。


 中から一冊の紙カルテを取り出した。


 希望は目を見開いた。


 表紙には患者名が書かれている。


村木 香織


 消えたカルテだった。




 山本はカルテを数ページめくると、一枚だけ抜き取り、持ってきた封筒へ入れた。


 そして何事もなかったようにカルテを元へ戻す。


「……。」


 希望は震えた。


 カルテは捨てられたのではなかった。


 誰かが意図的に隠していたのだ。




 山本が部屋を出ていく。


 足音が遠ざかるまで、二人は動けなかった。


 静寂が戻る。


「見た?」


 宮田がささやく。


「うん……」


「決まりね」


 宮田の声は震えていた。


「山本は何かを隠してる」




 二人は棚へ向かう。


 さっき山本が戻したカルテを取り出した。


 宮田がページをめくる。


「何を抜いたんだろう」


 希望は違和感に気付く。


「このページ……」


 カルテ番号は連続しているのに、一枚だけ飛んでいる。


「切り取られてる」


 ページ番号は『34』の次が『36』。


 35ページだけがなくなっていた。


「35ページには何が書かれていたの?」


 希望がつぶやいた、その時だった。


 カルテの間から、一枚の小さな付箋が落ちた。


 山本は気付かなかったらしい。


 宮田が拾い上げる。


 そこには走り書きで書かれていた。


『投与量変更 23:40』


 その下には誰かのイニシャル。


S・Y


 希望の顔から血の気が引く。


「S・Y……」


 病棟にいる職員で、そのイニシャルに当てはまる人物。


 思い浮かぶのは一人しかいない。


佐藤 優。


 希望はカルテを握りしめた。


「そんな……」


 優は犯人ではない。


 そう信じたい。


 だが、なぜ香織のカルテに、優のイニシャルが残されているのか。


 その答えはまだ見えなかった。


 希望は知らなかった。


 この付箋こそが、真犯人が優へ罪を着せるために仕掛けた”最初の罠”であることを。


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