残された日記
翌朝。
希望は病院へ向かう電車の窓から、灰色の空を眺めていた。
昨夜、優から聞かされた言葉が頭から離れない。
__俺は犯人じゃない。
__でも、あの夜に何があったか知っている。
それなら、なぜ話さないのか。
なぜ、自分に「調べるな」と言ったのか。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。
ナースステーションでは朝の申し送りが始まっていた。
「8号室の坂崎さん、昨夜は疼痛が強くレスキューを一回使用しています」
「6号室の野村さんは午前中にCTです」
師長の石川真由美がホワイトボードを書き換えながら全体を見渡す。
「今日は退院が二名、入院が三名です。今日も一日、事故のないようにお願いします」
「はい」
一斉に返事が響く。
希望は気持ちを切り替えようと深呼吸した。
今は勤務中だ。
患者の前では、いつも通りの看護師でいなければならない。
午前十時過ぎ。
病棟の電話が鳴った。
事務員が受話器を取り、少し驚いた表情で希望を見る。
「土屋さん」
「はい」
「村木紗香さんからです」
希望の胸が小さく跳ねた。
電話を代わる。
「もしもし、土屋です」
『突然ごめんなさい』
紗香の声は少し震えていた。
『香織の荷物を整理していたら……見つけたものがあるんです』
「見つけたもの?」
『日記です』
希望は思わず息をのんだ。
『前にも一冊見つかっていましたよね?』
「はい」
『それとは別です』
希望の鼓動が速くなる。
『病院へ持って行ってもいいですか』
「もちろんです」
『今日の夕方、お仕事終わる頃に伺います』
夕方。
病院一階のカフェスペース。
紗香は大切そうに布で包んだ一冊のノートを机の上へ置いた。
「これです」
希望はそっと手に取る。
紺色の表紙。
角は擦り切れ、何度も開かれた跡がある。
「妹は昔から日記を書くのが好きだったんです」
紗香は優しく表紙を撫でた。
「これは大学生の頃から亡くなる少し前まで使っていたみたいで……押し入れの奥から出てきました」
「読んでもいいですか」
「お願いします」
希望は最初のページを開いた。
四月三日
今日から看護師一年目。
患者さんに『あなたが担当で良かった』って言ってもらえる看護師になりたい。
思わず笑みがこぼれる。
「香織さんらしい」
紗香もうなずいた。
「昔から誰かのために頑張る子だったんです」
ページをめくる。
学生時代の思い出。
実習。
国家試験。
そして、一人の人物について書かれたページで、希望の手が止まった。
優は本当に優しい。
不器用だけど、人の痛みに気づける人。
私はそんな優が好き。
希望は静かにページを閉じた。
優はやはり香織にとって特別な存在だった。
さらに読み進める。
乳がんが見つかった頃の日記だった。
優とは別れた。
一緒にいると甘えてしまう。
看護師として生きるなら、一人で病気と向き合わないといけない。
文字は震えていた。
涙の跡なのか、インクが少し滲んでいる。
「こんなこと……」
希望は胸が締めつけられた。
紗香も黙ったまま目を伏せていた。
最後の数十ページになると、文章は少しずつ変わっていた。
文字が乱れ始める。
痛い。
今日も眠れない。
先生は原因が分からないと言う。
みんな笑ってくれるけど、本当は苦しい。
ページをめくる手が重くなる。
さらに次のページ。
最近、夜になると誰かが病室へ来る。
希望は顔を上げた。
「……」
紗香も驚いた表情をしている。
その続きを読む。
看護師さんじゃない。
暗くて顔は見えない。
ドアが閉まる音だけ聞こえる。
希望は無意識に息を止めていた。
「誰……?」
さらにページをめくる。
優じゃない。
優は昼しか来ない。
希望と紗香は顔を見合わせた。
つまり__。
夜に病室へ来ていた人物は、優ではない。
その時だった。
ノートの最後から、一枚の写真がはらりと床へ落ちた。
希望は拾い上げる。
病室で撮られた一枚の写真。
笑顔の香織。
その後ろには病室の窓。
そして、窓ガラスには、偶然とは思えない形で一人の人物が映り込んでいた。
白衣姿の誰か。
顔はぼやけて判別できない。
しかし胸元には、病院の職員証だけがはっきり写っていた。
そこに記された名字は__
「山本」。
希望は息をのんだ。
山本和彦。
優が警戒していた人物の名前が、初めて確かな形で目の前に現れた。
写真を見つめたまま、希望は言葉を失っていた。
「……山本先生?」
思わず漏れた声に、紗香も写真をのぞき込む。
「この人、病院の先生なんですか?」
「薬剤部長です」
希望は写真を裏返した。
裏面には、日付だけが書かれていた。
『5月18日』
香織が亡くなる、およそ一週間前だった。
「この写真を撮ったのは誰なんでしょう……」
紗香は首を横に振る。
「分かりません。でも、妹は写真を撮る習慣なんてほとんどなかったんです」
希望は再び写真を見る。
窓ガラスに偶然映り込んだだけなのか。
それとも、香織は誰かを写そうとしていたのか。
その答えは、まだ分からない。
日記の最後には、封筒が挟まれていた。
茶色い小さな封筒。
表には何も書かれていない。
「開けてもいいですか」
紗香は静かにうなずいた。
希望は慎重に封を開く。
中に入っていたのは、小さなUSBメモリだった。
「USB……?」
紗香も驚いた表情を浮かべる。
「こんなの初めて見ました」
希望は胸騒ぎを覚えた。
「病院で使っていたものなのかな……」
「妹、パソコンはあまり得意じゃなかったんです」
ますます謎だった。
なぜ香織がUSBを持っていたのか。
その日の勤務を終えた希望は、宮田を呼び出した。
病院近くのファミリーレストラン。
夕食を前に、希望はテーブルの上へ日記とUSBを置いた。
宮田は写真を見るなり表情を変えた。
「……これは」
「薬剤部長の山本先生に見えない?」
「顔はぼやけてる。でも職員証は確かに山本」
宮田は写真をスマートフォンで拡大した。
「偶然とは思えないね」
希望もうなずく。
「それに、このUSB」
宮田は少し考え込んだ。
「病院のパソコンで開くのは危険」
「どうして?」
「誰かにアクセス履歴が残る可能性がある」
希望は思わず息をのんだ。
「じゃあ……」
「まずはコピーを取るか、安全な環境で確認した方がいい」
宮田は法務の仕事をしていた頃の癖なのか、慎重だった。
食事を終え、店を出ようとした時だった。
宮田のスマートフォンが鳴る。
病院からだった。
「もしもし」
電話口の相手の声を聞いた瞬間、宮田の顔色が変わる。
「え?」
希望は不安そうに見つめる。
「……分かりました」
電話を切ると、宮田は小さく息を吐いた。
「どうしたの?」
「山本先生が」
「山本先生?」
「今日から一週間、急に休暇を取ったらしい」
「え?」
「しかも理由は説明されてない」
希望は写真を握りしめた。
あまりにもタイミングが良すぎる。
まるで何かを察知したようだった。
翌朝。
希望は薬剤部を訪れた。
山本の席は空いている。
代わりに若い薬剤師が対応してくれた。
「山本先生ですか?」
「はい」
「しばらく休暇です」
「体調が悪いんですか?」
薬剤師は困ったように笑った。
「詳しくは聞いてません」
それ以上は何も教えてくれなかった。
病棟へ戻る途中。
希望はエレベーター前で優と鉢合わせた。
「優さん」
優は希望の顔を見るなり、何かを察したようだった。
「何か見つけたな」
希望は驚く。
「どうして分かったの?」
「顔を見れば分かる」
少し沈黙が流れる。
希望はバッグから写真を取り出した。
「これ」
優は写真を見る。
その瞬間だった。
優の表情が凍りつく。
「……どこで手に入れた」
「香織さんの日記」
優は目を閉じ、大きく息を吐いた。
「やっぱり残っていたか」
「知ってたの?」
優はしばらく黙っていた。
「優さん」
「……」
「山本先生は何をしたの?」
優は答えない。
代わりに、静かに希望へ言った。
「USBは開くな」
「どうして?」
「まだ早い」
「でも!」
「開けば、お前も巻き込まれる」
優の声は真剣だった。
「これは、病院の不祥事なんて生易しい話じゃない」
希望は息をのむ。
「じゃあ何なの?」
優は周囲を確認し、小さな声で言った。
「香織だけじゃない」
「……え?」
「亡くなった患者は、一人じゃない」
希望の背筋が凍る。
「どういうこと?」
優は答えなかった。
「今は何も聞くな」
そう言い残し、その場を立ち去ってしまった。
その夜。
希望が帰宅すると、玄関の郵便受けに一通の封筒が入っていた。
差出人はない。
白い封筒。
中には一枚の紙だけが入っていた。
黒い文字で、短く書かれている。
「USBを開くな。次は、お前が消される」
希望の指先が震えた。
部屋を見回す。
カーテンの隙間。
暗いベランダ。
誰もいないはずなのに、誰かがこちらを見ているような気配がした。
その瞬間、スマートフォンが鳴る。
画面には、知らない番号。
恐る恐る電話に出る。
「……もしもし」
数秒間の沈黙。
やがて、機械で変えたような低い声が聞こえた。
「調べるのを、やめろ」
電話は、それだけ言って切れた。
希望はスマートフォンを握りしめたまま立ち尽くす。
もう後戻りはできない。
香織が遺した日記は、一人の患者の死ではなく、この病院に隠された連続事件の入り口だった。




