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優という男

 翌朝、希望はほとんど眠れないまま病院へ向かった。


 昨夜の非通知電話が頭から離れない。


 __もう調べるな。


 機械で変えたような声ではなかった。男とも女とも判別できない、低く押し殺した声。それでも、確かな意思だけは伝わってきた。


 誰かが、自分たちの行動を見ている。


 その事実が、希望の胸を締めつけていた。




「おはよう、希望ちゃん」


 ナースステーションでは、宮田桃がコーヒーを片手に電子カルテを開いていた。


「顔色悪いね」


「昨日……変な電話があって」


 希望は昨夜の出来事を話した。


 宮田は最後まで黙って聞き、小さくため息をついた。


「脅しか」


「やっぱり、そう思う?」


「偶然じゃないと思う」


 宮田は真剣な表情で言った。


「カルテを見たその日に電話がくるなんて、タイミングが良すぎる」


「でも、私たちが調べてることを知ってる人なんて……」


 二人は同時に口をつぐんだ。


 病院関係者しか思い浮かばなかった。




 その日の午前中。


 希望は点滴交換を終え、308号室を出た。


 廊下の突き当たりにあるラウンジから話し声が聞こえる。


「……だから、もう無理なんです」


 聞き覚えのある声だった。


 優だった。


 希望は思わず足を止める。


 ラウンジでは優と石川師長が向かい合って座っていた。


「優さん」


 石川は静かに言う。


「いつまで自分を責めるつもり?」


「責めてません」


「嘘」


 石川は優の目をまっすぐ見た。


「あなた、この三か月ずっと笑ってない」


 優は何も答えない。


「香織さんのことは、あなたの責任じゃない」


 その瞬間だった。


 優が小さく笑った。


「責任、ですか」


 その笑顔は、笑っているようには見えなかった。


「……誰にも、本当のことなんて分かりませんよ」


 それだけ言うと、優は立ち上がった。


 希望は慌てて柱の陰に身を隠す。


 優は気づかないまま、その場を去っていった。




 昼休み。


 希望は宮田に今の出来事を話した。


「石川師長が?」


「うん。優さんに『責任じゃない』って」


 宮田は少し考え込む。


「責任って、何の責任だろう」


「香織さんのことじゃないかな」


「そうだとしても変じゃない?」


「え?」


「急変は事故だったんでしょう?」


 希望は黙る。


「事故なら、普通は『責任じゃない』なんて改めて言わない」


 宮田はテーブルに指で円を描きながら続けた。


「優さん自身が、何か責任を感じる理由がある」


「……」


「それを師長も知っている」


 希望は胸の奥がざわつくのを感じた。




 その日の夕方。


 仕事を終えた希望は、病院近くのコンビニへ立ち寄った。


 飲み物を買って店を出ると、少し離れた場所に見覚えのある背中があった。


 優だった。


 私服姿の優は花屋の前で立ち止まっている。


 しばらく迷ったあと、一束の白いユリを手に取った。


 会計を済ませると、そのまま駅とは反対方向へ歩いていく。


「……優さん?」


 気づかれないよう、希望は距離を保ちながら後を追った。


 十分ほど歩いただろうか。


 優が足を止めた先には、小さな霊園があった。


 希望は思わず息をのむ。


 優は迷うことなく墓地の一角へ向かう。


 静かにしゃがみ込み、白いユリを供えた。


 希望は墓石に刻まれた文字を見て、言葉を失った。


 村木家之墓


 優は何も言わず、墓石を見つめ続けていた。


 やがて小さくつぶやく。


「……ごめん。」


 風が吹き、白いユリが揺れた。


 希望には、その一言しか聞き取れなかった。


 優は深く頭を下げると、ゆっくり立ち上がる。


 その横顔は、病院で見る冷静な看護師の顔ではなかった。


 長い間、誰にも見せることなく苦しみ続けてきた人の顔だった。


 希望は物陰からその姿を見つめながら、胸の奥で確信していた。


 優は、何かを知っている。


 けれど、それは犯人だからではない。


 もっと深く、もっと苦しい理由がある。


 そんな予感が、静かに心に芽生え始めていた。








 翌日の休憩時間。


 希望は職員ラウンジの窓際で、昨日見た光景を思い返していた。


 村木家の墓。


 白いユリ。


 そして、優がつぶやいた「ごめん」という一言。


 あの表情は、誰かを恨む人のものではなかった。


 大切な人を失った悲しみと、自分を責め続ける人の顔だった。


「考え事?」


 宮田桃が紙コップのコーヒーを持って隣に腰を下ろした。


「昨日……優さんを見かけたの」


 希望は霊園での出来事を話した。


 宮田は黙って聞き終えると、小さくうなずいた。


「やっぱり、二人は特別な関係だったんだね」


「でも病棟では、そんな話を聞いたことない」


「隠してたんでしょうね」


 宮田は窓の外を見つめながら続けた。


「職場で元恋人同士だって知られたら、患者への対応に私情が入るって見られることもあるし」


 希望は納得しながらも、心のどこかで引っかかっていた。


 優は、なぜそこまで香織の死に苦しんでいるのだろう。




 その日の午後。


 希望は薬剤部へ点滴の追加を依頼するため、地下フロアへ向かっていた。


 薬剤部の前まで来ると、廊下の奥から聞き覚えのある声が聞こえてきた。


「……あの件は、もう終わった話です」


 優だった。


 反射的に足を止める。


 話し相手は、薬剤部長の山本和彦だった。


「終わった、で済む問題じゃない」


 山本の低い声が響く。


「余計なことを話せば、お互い困ることになる」


 優は無言だった。


 山本は続ける。


「君も分かっているだろう」


「……。」


「三か月前のことは忘れろ」


 希望の鼓動が速くなる。


 三か月前。


 それは香織が亡くなった頃だ。


 思わず一歩近づこうとした、その時だった。


「土屋さん?」


 後ろから薬剤師に声をかけられ、希望は思わず振り返る。


「点滴の依頼ですよね?」


「あ……はい」


 その声に気づいたのか、優たちの会話は止んでいた。


 廊下を見ると、二人の姿はもうなかった。




 仕事を終えた帰り道。


 希望は病院近くの小さな喫茶店へ入った。


 約束していた相手は、親友の友美だった。


「久しぶり」


「久しぶり」


 友美は総合病院で看護師として働いている。


 学生時代から何でも相談できる存在だった。


「最近どう?」


 希望は迷った末、香織のこと、謎のメモのこと、優の様子を話した。


 友美は静かに聞いていたが、「優さん」という名前が出た瞬間、少し表情を変えた。


「その人って……昔、恋人を亡くしたって噂の人?」


 希望は目を丸くした。


「知ってるの?」


「うちの病院にも前に勤めてた人がいてね。その人から聞いたことがあるだけ」


「どんな話?」


 友美は少し考え込みながら話し始めた。


「大学時代から付き合ってた恋人が病気になって別れたって」


 希望は息をのむ。


「その恋人が、香織さん?」


「名前までは知らない。でも、『忘れられない人がいる』って有名だったみたい」


 希望の胸に、昨日見た墓前での優の姿がよみがえった。




 その夜。


 優は一人、自宅の机に向かっていた。


 引き出しを開けると、一枚の古い写真が出てくる。


 大学時代の看護学部。


 白衣姿の男女が笑っている。


 その中心にいるのは、若い頃の優と香織だった。


「優、そんな難しい顔しないで」


 写真の中の香織は満面の笑みを浮かべている。


 優は指先で写真をなぞった。


「……約束したのにな」


 誰にも聞こえないほど小さな声だった。


 “一緒に患者さんを笑顔にする看護師になろう”


 卒業式の日、二人で交わした約束。


 その約束は、もう叶うことはない。


 優は写真を封筒へ戻そうとして、ふと一枚の紙が落ちた。


 折り畳まれたメモだった。


 そこには、見覚えのある文字で短く書かれていた。


もし私に何かあったら、この手紙を希望さんに渡してください。


 差出人は__


 村木香織。


 優は目を閉じる。


「まだ……渡せない」


 そうつぶやくと、静かに封筒を引き出しへ戻した。


 その手は、わずかに震えていた。







 夜勤明けの病棟は、いつもより静かだった。


 患者たちは朝食を終え、それぞれの時間を過ごしている。テレビを見る人、窓の外を眺める人、リハビリへ向かう人__その穏やかな光景とは裏腹に、希望の胸の中には重たい疑問が渦巻いていた。


 優は何を知っているのか。


 そして、なぜ何も話そうとしないのか。




 その日の夕方。


 希望は更衣室で制服に着替え終えると、ロッカーの扉を閉めた。


「終わったか」


 背後から聞こえた低い声に振り返る。


 優だった。


 白衣姿のまま、壁にもたれて立っている。


「優さん」


「少し時間あるか」


 珍しく、優の方から声をかけてきた。




 二人は病院の屋上へ向かった。


 雨は上がっていたが、厚い雲が夕焼けを隠している。


 フェンス越しに街を見下ろしながら、優が口を開いた。


「最近、宮田と一緒に動いてるそうだな」


「……うん」


「香織のことを調べてる」


 希望は黙ってうなずいた。


「どうして?」


「真実を知りたいから」


「知ってどうする」


「香織さんの死を、このまま終わらせたくない」


 優はしばらく何も言わなかった。


 やがて、小さく息を吐く。


「希望」


「……」


「お前は昔から変わらないな」


 その声には、どこか懐かしさが混じっていた。




「覚えてるか?」


 優が空を見上げたまま言う。


「小学生の頃、お前が転んで膝を擦りむいた時」


 希望は少し笑った。


「優さんが絆創膏貼ってくれた」


「泣きながら『看護師になる』って言ってた」


「そんなこと言ったっけ」


「言った」


 優は微笑んだ。


「患者さんを助けられる人になるって」


 希望は目を伏せる。


「でも……助けられなかった」


 香織の顔が浮かぶ。


「私は、看護師失格なのかもしれない」


「違う」


 優は即座に否定した。


「助けられなかった患者を忘れられない看護師は、失格なんかじゃない」


 その言葉は、誰よりも実感がこもっていた。




 しばらく沈黙が流れる。


 風だけが二人の間を吹き抜けた。


 希望は意を決して尋ねる。


「優さん」


「何だ」


「香織さんとは……恋人だったの?」


 優の表情が固まる。


 数秒後、小さく笑った。


「宮田に聞いたのか」


「違う」


 希望は首を振った。


「お墓に行くところを見た」


 優は驚いたように目を見開いた。


 そして、観念したようにフェンスへ寄りかかった。


「大学の頃だ」


 静かな声だった。


「同じ看護学部だった」


 希望は何も言わず耳を傾ける。


「香織は、よく笑う人だった」


 優の目が少し遠くを見る。


「患者さんの話ばかりしてた」


 “優は難しく考えすぎ。もっと患者さんの気持ちを見て。”


 “看護師は、病気だけじゃなくて人を見る仕事だから。”


 優は苦笑した。


「いつも俺の方が説教されてた」


 希望は、そんな優の姿を初めて想像した。




「卒業してすぐだった」


 優は続ける。


「香織に乳がんが見つかった」


 希望は息をのむ。


「治療に専念したいから別れようって」


「……」


「止められなかった」


 優は拳を握りしめた。


「数年後、同じ病院で再会した」


 希望は静かに聞いている。


「最初は元気だった」


「でも……」


「原因不明の浮腫と痛み」


 優の声が震えた。


「毎日苦しそうだった」


 屋上に重い沈黙が落ちる。




「優さん」


「……」


「香織さんの死に、何か関係あるの?」


 優は目を閉じた。


 長い沈黙。


 やがて、ゆっくり口を開く。


「俺は……。」


 希望は息を止める。


「犯人じゃない」


 その一言だけだった。


「じゃあ……」


「でも」


 優は希望の目をまっすぐ見た。


「俺は、あの夜に何があったか知っている」


 希望の心臓が大きく鳴った。


「知ってるの?」


「全部じゃない」


 優は首を振る。


「決定的な証拠もない」


「だったら警察に──」


「証拠がない」


 優は静かに言った。


「証言だけじゃ誰も動かない」


 その表情には、長年抱え続けてきた無力感がにじんでいた。


___


「希望」


 優は真剣な表情で言った。


「もう調べるな」


「どうして?」


「危ない」


「何が?」


 優は答えない。


「優さん!」


「これ以上は言えない」


「どうして!」


「お前まで傷つく」


 希望は思わず声を荒げた。


「私は真実を知りたい!」


 優は目を伏せ、小さくつぶやく。


「……だから止めてる」


「え?」


「お前は俺にとって家族なんだ」


 希望は言葉を失った。


「もう、大切な人を失うのは嫌なんだ」


 その一言には、香織を失った悲しみがすべて込められていた。




 その夜。


 優は一人、自宅へ戻る。


 机の引き出しを開け、一通の封筒を取り出した。


 表には、見慣れた丸い字。


佐藤優さんへ


 優はゆっくり封を開く。


 中から、一枚の写真が滑り落ちた。


 大学時代、二人で笑い合う写真。


 その下には、もう一枚、小さく折り畳まれた紙。


 香織の文字だった。


もし希望さんが真実を知ろうとしたら、止めないであげてください。


 優の瞳が揺れる。


 さらに続きがあった。


あの人なら、きっと最後まで諦めないから。


 優は目を閉じ、静かに拳を握る。


「香織……」


 部屋には誰もいない。


 それでも優は、小さくつぶやいた。


「約束は……守れそうにない」


 窓の外では、再び雨が降り始めていた。


 雨音だけが、静かな部屋に響き続けていた。


 そしてその頃、希望はまだ知らなかった。


 自分が追い始めた真実は、もう後戻りのできない場所まで彼女を導こうとしていることを。


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