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消えた夜勤記録


 夜勤明けの病棟は、嵐が過ぎ去った海のような静けさに包まれていた。


 ナースステーションでは夜勤看護師が申し送りを終え、日勤スタッフが慌ただしく動き始めている。モニターのアラーム、PHSの呼び出し音、カルテを開くキーボードの音。そのどれもが、希望にとっては日常のはずだった。


 それでも、村木香織が亡くなった夜以来、その音はどこか冷たく聞こえる。


「土屋さん、お疲れさま」


 佐々木遥が缶コーヒーを差し出した。


「ありがとうございます」


 希望は受け取るものの、缶は冷たいままだった。


「最近、少し無理してない?」


「大丈夫です」


 反射的にそう答えた。


 佐々木は何か言いたげだったが、それ以上は聞かなかった。


 希望は心の中で小さく息をつく。


 __また嘘をついた。


 本当は眠れない。


 眠れば香織が夢に出てくる。


 目を閉じるたび、モニターのアラームが鳴り響く。


 そして必ず誰かが言う。


『あなたじゃなかったら助かったのに』


 あの言葉だけが、何度も頭の中で繰り返されていた。




 その日の午後。


 希望は宮田桃と病院一階の職員食堂にいた。


 昼食の時間を過ぎた食堂は人も少なく、静かだった。


 宮田はカレーを口に運びながら言った。


「ねぇ、希望ちゃん」


「うん?」


「あのメモ、まだ持ってる?」


 希望はバッグの中から小さく折りたたまれた付箋を取り出した。


あの夜、すべてを見ていた。


 黒い油性ペンで乱雑に書かれた、その短い一文。


 差出人も宛名もない。


 それでも、この紙切れ一枚が希望の日常を変えてしまった。


 宮田はじっと文字を見つめた。


「やっぱり気になる」


「誰かのいたずらじゃないかな……」


「そう思いたい?」


 希望は黙った。


 宮田はスプーンを置く。


「私は違うと思う」


「どうして?」


「こんなの、普通は書かない」


 宮田は静かに続けた。


「本当に伝えたいことがある人ほど、余計なことを書かないの」


 希望は付箋を見つめた。


 たった一文。


 だからこそ、不気味だった。




「希望ちゃん」


「うん」


「香織さんが亡くなった夜の記録、一回見直してみない?」


 希望は思わず顔を上げた。


「夜勤記録?」


「そう」


「でも、もう三か月前だよ」


「だから」


 宮田は真剣な表情だった。


「人の記憶は曖昧になる。でも記録は残る」


「……」


「もし何か隠されているなら、最初に違和感が出るのは記録だと思う」


 希望の胸がざわつく。


 カルテ。


 夜勤記録。


 申し送り。


 インシデントレポート。


 看護師はすべてを記録する仕事だ。


 だからこそ、記録が消えていたら。


 それは意図的ということになる。




 その日の夕方。


 二人はナースステーションのパソコンの前にいた。


 夜勤記録を閲覧するには職員IDが必要になる。


 宮田がモニターを操作しながら言う。


「村木香織さん……


 三か月前……


 個室病棟……」


 検索結果が表示された。


 希望は息をのむ。


 画面には確かに香織の名前があった。


「開くね」


 クリック。


 カルテが表示される。


 診察記録。


 検査結果。


 看護記録。


 投薬内容。


 すべて問題なく並んでいた。


「何もおかしくない……?」


 希望がつぶやく。


 しかし宮田は首を横に振った。


「まだ」


 彼女は画面を下へスクロールした。


 夜勤帯の記録が表示される。


 午後九時。


 午後十時。


 午後十一時。


 急変。


 蘇生開始。


 死亡確認。


 流れとしては自然だった。


 ところが宮田の指が止まる。


「希望ちゃん」


「え?」


「これ」


 画面の一か所を指差した。


 希望は目を凝らす。


 午後十時三十分。


 その時間だけ、看護記録が不自然に短い。


 他の時間帯は五〜六行。


 そこだけ一行しかない。


「患者、安静」


 それだけだった。


 希望は首をかしげる。


「こんな記録だったかな……」


 村木香織は原因不明の浮腫と激しい疼痛に苦しみ、頻回に状態確認が必要だった患者だ。


 「患者、安静」の一文だけで終わるのは、あまりにも簡潔すぎる。


 宮田が小さくつぶやいた。


「普通じゃない」


 その瞬間だった。


「何してるの?」


 二人は同時に振り向いた。


 入口には師長・石川真由美が立っていた。


 穏やかな笑顔。


 けれど、その目だけは笑っていなかった。


 希望は思わず画面を閉じる。


 石川は二人を静かに見つめながら言った。


「もう勤務時間終わってるでしょう?


 昔のカルテなんか見て、どうしたの?」


 病室よりも静かな電子カルテ室に、一瞬、重い沈黙が落ちた。




石川真由美は二人の前までゆっくり歩み寄った。


「昔のカルテを見ていたの?」


 穏やかな口調だった。しかし、その笑顔の奥にある緊張を、希望は見逃さなかった。


「……勉強です」


 希望はとっさに答えた。


「村木さんの急変を振り返って、次に同じような患者さんを受け持った時に生かしたくて」


 石川は数秒、希望を見つめた。


「そういう気持ちは大事。でも、過去ばかり振り返っていると前に進めないよ」


 その言葉は優しく聞こえた。


 けれど希望には、どこか”これ以上調べるな”と言われているようにも聞こえた。


「……はい」


 石川は小さくうなずくと、部屋を出て行った。


 扉が閉まる音が響く。


 希望は思わず大きく息を吐いた。


「びっくりした……」


 宮田は腕を組んだまま画面を見つめている。


「希望ちゃん」


「うん?」


「今の反応、どう思った?」


「え?」


「普通だった?」


 希望は答えられなかった。


 確かに、石川がここへ来るのは偶然かもしれない。


 それでも、タイミングが良すぎる。


 宮田は静かに言った。


「私はね、『昔のカルテなんか見て』って言葉が引っ掛かった」


「どういうこと?」


「私たち、村木さんの名前なんて一言も出してない」


 希望は息をのんだ。


 確かにそうだった。


 石川は画面を見る前から、二人が誰のカルテを見ていたのか知っていたような口ぶりだった。


「考えすぎ……かな」


「そうだといいけど」


 宮田は画面を閉じた。


「今日はここまでにしよう」




 その帰り道だった。


 二人は人気の少ない廊下を歩いていた。


 窓の外では、灰色の雲が空を覆っている。


「希望ちゃん」


 宮田が足を止めた。


「一つ気になることがある」


「何?」


「電子カルテって、誰でも修正できると思う?」


「え?」


「もちろん勝手にはできないよ。でも権限を持っている人なら?」


 希望は看護師としての知識を思い返した。


「追記はできるけど……修正すると履歴が残るはず」


「そう」


 宮田は頷いた。


「履歴が残るシステムなの」


「じゃあ改ざんなんて……」


「完全には消せない」


 宮田は少し声を潜めた。


「でも、管理者権限なら話は別」


 希望は思わず立ち止まった。


「管理者……」


「医療情報システム担当者とか、情報管理室とか」


 宮田は続ける。


「もし病院ぐるみで隠そうと思えば、不可能じゃない」


 希望の背筋に冷たいものが走った。


 病院ぐるみ。


 その言葉はあまりにも重かった。




 夜勤明け。


 更衣室で制服に着替えていると、ロッカーの扉が開いた。


「お疲れ」


 低い声だった。


 振り返ると、叔父の佐藤優が立っていた。


「優さん」


「最近、顔色悪いな」


「少し寝不足で……」


 優は希望の返事を聞いているのかいないのか、そのままロッカーへ向かった。


 しばらく沈黙が続く。


 やがて優が口を開いた。


「宮田と一緒にいるらしいな」


 希望の手が止まった。


「……どうして知ってるの?」


「病院は狭い」


 優は短く答えた。


 白衣を畳みながら、続ける。


「余計なことはするな」


「え?」


「昔のことを掘り返しても、誰も幸せにならない」


 希望は優の横顔を見つめた。


「香織さんのこと?」


 優の動きが止まる。


「……」


「何か知ってるの?」


「知らない」


「嘘」


 思わず口から出た。


 優はゆっくり希望を見た。


 その目には怒りではなく、悲しみが宿っていた。


「希望」


「……」


「知らない方がいいこともある」


「私は知りたい」


「知ったら戻れなくなる」


 その言葉だけを残し、優は更衣室を出て行った。




 その夜。


 希望はアパートで、一人ノートを開いていた。


 テーブルには、例の付箋が置かれている。


あの夜、すべてを見ていた。


 その横に、今日気づいたことを書き出していく。


・22時30分の看護記録だけ短い


・石川師長が調査を知っていた


・優は調べるなと言った


・宮田はカルテ改ざんの可能性を指摘


 書けば書くほど、偶然では片づけられないことが増えていく。


 希望はペンを止めた。


「……香織さん」


 静かな部屋で、その名前だけが漏れた。


 本当にあの夜は急変だったのだろうか。


 それとも、自分が知らない何かがあったのだろうか。


 そのとき、机の上のスマートフォンが震えた。


 画面には知らない番号が表示されている。


 一瞬ためらいながらも通話ボタンを押した。


「……もしもし」


 返事はない。


 聞こえるのは、かすかな呼吸音だけ。


 そして、低く押し殺したような声が聞こえた。


「……もう調べるな」


 ブツッ。


 通話は切れた。


 希望はスマートフォンを握りしめたまま動けなかった。


 部屋の外では、雨が再び降り始めていた。


 窓ガラスを叩く雨音が、あの日の夜を思い出させる。


 誰かが、自分たちの動きを見ている。


 その確信だけが、胸の奥で静かに膨らんでいった。


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