封じられた記録
翌日の昼休み。
希望は病院の中庭にあるベンチで、宮田から送られてきた写真をもう一度見つめていた。
画面に映るのは、薄暗い病棟の廊下。
非常灯だけが足元を照らし、その奥には白衣姿の人物が立っている。
画質が粗く、顔までは判別できない。
だが、撮影日時ははっきりと表示されていた。
村木香織が亡くなった夜、午前二時十七分。
香織が急変したのは、その約二十分後だった。
「見れば見るほど気味が悪いね」
宮田が紙コップのコーヒーを片手に隣へ座る。
「この写真、誰が撮ったんだろう」
希望はスマートフォンを見つめたままつぶやく。
「送り主は?」
「匿名」
「メール?」
「うん」
宮田は小さくため息をついた。
「誰かが私たちに見せたかったんだろうね」
「でも、どうして今なんだろう」
「それは分からない」
宮田は少し考え込んだあと、静かに言った。
「ただ一つ言えるのは、この写真を持っている人は、あの夜のことを知っている」
希望は背筋が冷たくなるのを感じた。
__あの夜を知る者。
その言葉が、現実味を帯び始めていた。
午後の業務を終えたあと、二人は医局の隣にある診療情報管理室へ向かった。
カルテや入院記録を管理している部署だ。
窓口には五十代ほどの事務職員が座っていた。
「すみません」
宮田が声をかける。
「村木香織さんの入院記録について確認したいことがあるんですが」
職員は端末を操作し、しばらく画面を見つめた。
やがて、首をかしげる。
「あれ……」
「どうかしましたか?」
「少々お待ちください」
職員は奥の部屋へ入っていった。
数分後、戻ってきた彼の表情はどこかぎこちなかった。
「申し訳ありません」
「はい」
「その件については、お答えできません」
「え?」
希望は思わず聞き返した。
「閲覧制限がかかっています」
「それは知っています」
宮田が冷静に言う。
「誰が制限をかけたのか知りたいんです」
職員は困ったように目を伏せた。
「管理者権限による設定です」
「管理者というのは?」
「……申し訳ありません」
それ以上は何を聞いても同じ答えだった。
結局、二人は何も得られないまま管理室をあとにした。
「やっぱり変だ」
廊下を歩きながら宮田がつぶやく。
「普通、亡くなった患者さんのカルテにここまで厳しい閲覧制限はかけない」
「個人情報だからじゃない?」
「もちろん保護は必要。でも、同じ病棟で治療に関わった職員まで見られないのは不自然」
希望も同じことを感じていた。
誰かが意図的に情報へ近づけないようにしている。
そんな印象が拭えない。
その日の夕方。
希望はナースステーションで点滴の準備をしていた。
「土屋さん」
佐々木遥が静かに声をかける。
「少し時間ある?」
「はい」
二人は人の少ない廊下へ移動した。
佐々木は周囲を確認してから口を開く。
「最近、村木さんのこと調べてるの?」
希望の心臓が大きく鳴った。
「どうしてですか」
「宮田さんと話してるところ、何度か見かけたから」
佐々木は少しだけ笑った。
「心配しなくていい。怒るつもりじゃない」
希望は黙っていた。
佐々木は窓の外を見ながら続ける。
「新人の頃ね」
「はい」
「私も、一人の患者さんの死を受け入れられなくて、必死にカルテを読み返したことがある」
希望は意外そうな顔をした。
「でもね」
佐々木は静かに振り返る。
「調べるなら覚悟した方がいい」
「覚悟……?」
「病院ってね、きれいごとだけじゃ動いてない」
その一言だけ残して、佐々木は病室へ戻っていった。
希望はその場から動けなかった。
病院は、人を救う場所。
そう信じて看護師になった。
けれど、その場所にも知られてはいけない過去があるのだろうか。
ナースステーションへ戻る途中、希望はガラス窓に映る自分の姿を見つめた。
もう後戻りはできない。
香織の「助けて」という文字が、何度も頭に浮かぶ。
その願いに応えるためにも、真実を知らなければならない。
そう心に決めた。
翌日の夜勤明け。
希望と宮田は、病院近くの小さなカフェで向かい合っていた。
テーブルの上にはノートパソコンと数枚のメモ。
その中央には、匿名で送られてきた写真が印刷されて置かれている。
「佐々木さんの言葉、気になるね」
希望が静かに口を開く。
「『病院はきれいごとだけじゃ動いてない』……」
宮田はコーヒーを一口飲み、小さくうなずいた。
「たぶん佐々木さんも何か知ってる」
「でも話せない事情がある」
「うん」
宮田はバッグから一枚の紙を取り出した。
「だから別の人に会ってみようと思う」
「誰?」
「林真紀さん」
その名前を聞いた瞬間、希望は顔を上げた。
「以前話してくれた……。」
「そう。患者からのセクハラ被害を訴えたのに、病院が対応しなかった元看護師」
宮田はスマートフォンの画面を見せた。
そこには『今日なら少しだけお話できます』という短いメッセージが表示されていた。
「会えるの?」
「うん」
「本人が話してもいいって」
午後三時。
二人は駅前の静かな喫茶店を訪れた。
窓際の席に、一人の女性が座っていた。
三十歳前後だろうか。
黒髪を一つに束ね、落ち着いた雰囲気をまとっている。
「林さん」
宮田が声をかける。
女性は穏やかに笑った。
「宮田さんですね」
「今日はありがとうございます」
希望も頭を下げる。
「土屋希望です」
「よろしくお願いします」
席に着くと、しばらく沈黙が流れた。
最初に口を開いたのは林だった。
「宮田さんから事情は聞きました」
「村木さんのことを調べているんですよね」
希望は静かにうなずく。
「はい」
「患者さんが亡くなった夜に何があったのか知りたいんです」
林はコーヒーカップを両手で包み込みながら、小さく息をついた。
「……あの病院は」
一度言葉を切る。
「何か問題が起きても、できるだけ表に出さない病院でした」
希望は思わず身を乗り出した。
「私が働いていた頃もそうでした」
「ある男性患者さんがいました」
林はゆっくりと話し始める。
「入院中、何度も私の体を触ってきたんです」
希望は表情を曇らせた。
「最初は偶然かと思いました」
「でも違いました」
「夜勤になると待ち伏せされて、腕をつかまれたり、抱きつかれたり……」
店内に重い沈黙が流れる。
「怖くて、師長に相談しました」
「でも返ってきたのは」
林は苦笑した。
「『患者さんだから仕方ない』『刺激しないように』でした。」
希望は言葉を失う。
「その後も続いたんです」
「精神的に限界になって、診断書を提出して休職しました」
「でも病院は……」
林は視線を落とした。
「何も変わりませんでした」
「加害者の患者さんはそのまま」
「私は辞めるしかありませんでした」
「病院って」
林は静かに続けた。
「患者さんを守ることは一生懸命なのに、職員は守ってくれないことがあります」
「問題を認めると責任が生まれるから」
「だから最初から無かったことにする」
宮田が小さくうなずく。
「やっぱり……」
「隠蔽体質なんですね」
林は否定しなかった。
「全部が全部じゃありません」
「いい先生も看護師もたくさんいます」
「でも」
「上が変わらなければ何も変わらない」
その言葉には重みがあった。
しばらく沈黙が続いたあと、宮田が静かに切り出した。
「林さん」
「村木香織さんという患者さんをご存じですか」
林は少し驚いたような表情を見せた。
「名前は知っています」
「直接関わったことはありません」
「ただ……」
林は記憶をたどるように目を閉じた。
「亡くなったあと、職員の間で少し噂になっていました」
希望の心臓が高鳴る。
「どんな噂ですか?」
「詳しいことは誰も話してくれませんでした」
「でも」
「『余計なことは聞かない方がいい』って。その一言だけは何人もの人から言われました」
希望と宮田は顔を見合わせた。
また同じだ。
調べようとすると、誰もが口を閉ざす。
店を出る頃には、空は曇り始めていた。
駅へ向かう道を歩きながら、希望がつぶやく。
「やっぱり病院で何かあったんだ」
「うん」
宮田も歩みを止めない。
「でも、それだけじゃ事件にはならない」
「証拠が必要」
希望は匿名の写真を思い出した。
日記。
閲覧制限のかかったカルテ。
そして林の証言。
少しずつ点と点がつながり始めている。
そのとき、宮田のスマートフォンが震えた。
画面を見るなり、宮田の表情が変わる。
「……希望ちゃん」
「どうしたの?」
「匿名メール」
「また?」
宮田は無言で画面を差し出した。
そこには、たった一文だけ書かれていた。
『本当に知りたいなら、地下の旧カルテ室へ』
送り主の名前はない。
添付ファイルもない。
あるのは、その不気味な一文だけだった。
二人は思わず顔を見合わせる。
病院には、今は使われていない地下の資料保管室がある。
新人研修で一度だけ場所を教わったきり、希望は足を踏み入れたことがなかった。
「……行く?」
宮田が静かに尋ねる。
希望は少しだけ迷った。
だが、香織の日記に残された「助けて」という文字が頭をよぎる。
「うん」
希望は強くうなずいた。
「真実を知るためなら」
二人は病院へ向かって歩き出した。
雨雲が空を覆い始め、遠くで雷が低く鳴っていた。




