あの夜を知る者
復職して一週間が過ぎた。
病棟での仕事は少しずつ日常を取り戻しつつあった。
朝の申し送り、点滴交換、患者の清拭、電子カルテへの記録。
忙しさは変わらない。
それでも希望は以前より深呼吸をする時間を意識するようになっていた。
石川師長の「一人で抱え込まないこと」という言葉が、何度も頭に浮かぶ。
しかし、心の奥に残る違和感だけは消えなかった。
村木香織の死。
そして、あの付箋。
__あの夜、すべてを見ていた。
あの一文だけが、希望の心に棘のように刺さり続けていた。
昼休憩。
希望はスタッフルームで、村木紗香から預かった日記を静かに開いた。
何度も読み返したページには、几帳面な文字が並んでいる。
《今日は希望さんが担当だった。忙しいのに何度も様子を見に来てくれた。あの笑顔を見ると少しだけ安心できる。》
思わず胸が熱くなる。
自分を責め続けてきた希望にとって、その一文は救いだった。
ページをめくる。
乳がんの治療。
退院後の生活。
原因不明の浮腫。
強くなる痛み。
日記は徐々に苦しみの色を濃くしていく。
そして最後の数ページで、希望の指が止まった。
《最近、夜になると誰かが病室へ来る。》
希望は息をのんだ。
読み間違いではない。
もう一度読み返す。
《誰かが病室へ来る。》
その下には、少し乱れた字で続きが書かれていた。
《怖い。》
さらにページをめくる。
最後のページだった。
《助けて。》
たった三文字。
その文字だけが大きく震えていた。
希望は無意識に日記を閉じた。
「どうしたの?」
向かいから宮田桃が声をかける。
希望は日記を差し出した。
宮田は黙って読み始める。
数分後、小さく息を吐いた。
「これは普通じゃない」
「……私もそう思う」
「夜に誰かが来るって書いてある」
「でも、それだけじゃ事件とは言えないよね」
宮田は静かに首を振った。
「問題はそこじゃない」
「え?」
「この日記、香織さんが亡くなる三日前から急に内容が変わってる」
希望は日記を見つめる。
言われてみれば、三日前までは痛みや治療について書かれていた。
しかし、その後は”誰か”についてしか書かれていない。
「つまり」
宮田は声を潜めた。
「香織さんは病気よりも、人を恐れていた可能性がある」
希望の背中に冷たいものが走った。
その日の夕方。
病棟の廊下を歩いていると、希望はふと三〇八号室の前で足を止めた。
香織が入院していた病室だった。
今は別の患者が入院している。
それでも、ドアを見るだけで胸が苦しくなる。
あの夜。
モニターが鳴る前、本当に異変はなかったのだろうか。
何か見落としていたことはないのだろうか。
希望はナースステーションへ戻り、当時の電子カルテを開こうとした。
しかし画面には無情な表示が現れる。
『閲覧権限がありません。』
「……え?」
思わず画面を見つめる。
同じ病棟の患者なのに。
しかも自分が担当した患者の記録だ。
なぜ閲覧できないのか。
「何してるの?」
背後から宮田が声をかけた。
希望は画面を指さす。
宮田は表示を見るなり表情を曇らせた。
「こんなこと、普通はない」
「システムの不具合かな」
「違う」
宮田は小さく首を振る。
「誰かが閲覧制限をかけてる」
「そんなことできるの?」
「管理者権限があればね」
希望は息をのんだ。
香織の日記。
謎の付箋。
そして閲覧できなくなったカルテ。
偶然とは思えなかった。
宮田は静かに言う。
「希望ちゃん」
「うん」
「香織さんの死、本当に急変だけだったのか、一から調べてみよう」
希望はしばらく黙っていた。
看護師として知ってはいけないことに踏み込もうとしている。
もし何もなかったら。
もし本当に自分の思い込みだったら。
それでも――。
希望はゆっくりとうなずいた。
「……真実を知りたい」
その言葉と同時に、病棟の窓を激しい雨が叩いた。
まるで、あの夜が再び動き始めたかのように。
翌日の昼休憩。
希望と宮田は、人目を避けるように職員食堂の隅の席に座っていた。
テーブルの上には、村木香織の日記が置かれている。
宮田は最後のページをもう一度読み返し、ゆっくり口を開いた。
「この『誰かが病室へ来る』っていう記述、いつ頃から始まったか覚えてる?」
希望は日付を確認した。
「亡くなる三日前」
「つまり、その頃から香織さんは誰かを怖がっていた」
宮田は腕を組んだ。
「病棟は夜になると出入りが限られる。患者、看護師、医師……それ以外の人が自由に入ることはほとんどない」
希望も頷く。
「夜勤中は病室を巡回するから、不審な人がいれば気づくはず……」
「普通ならね」
宮田のその一言が、妙に引っかかった。
午後の業務が落ち着いた頃、希望は物品庫へ向かった。
棚から点滴ルートを取り出そうとした時、奥から先輩看護師たちの話し声が聞こえてきた。
「……あの件、まだ話題になってるらしいよ」
「もう終わったことでしょ」
「でも、カルテまで触るなんて普通じゃないよね」
「しっ……」
突然、会話が止まる。
希望が姿を見せると、二人は慌てて笑顔を作った。
「あ、土屋さん」
「お疲れさま」
まるで何事もなかったように部屋を出て行く。
希望はその背中を見送った。
__カルテ?
さっき宮田と話していたことが頭をよぎる。
偶然なのだろうか。
夜勤。
病棟は昼間とは違う静けさに包まれていた。
消灯後は足音だけが廊下に響く。
希望は定時巡回を終え、ナースステーションへ戻る。
ふと、廊下の奥に人影が見えた。
白衣姿の男性。
こちらを見ることなく角を曲がっていく。
「あれ……?」
見覚えがある。
叔父の佐藤優だった。
だが、優は現在休職中のはずだ。
希望は慌てて後を追う。
角を曲がる。
しかし、そこには誰もいなかった。
「気のせい……?」
廊下には非常灯だけがぼんやりと灯っている。
自分の足音だけが響いた。
「土屋さん」
突然、背後から佐々木が声をかける。
「どうしたの?」
「いえ……今、人が歩いているのを見た気がして」
佐々木は不思議そうに廊下を見渡した。
「この時間は職員しかいないよ」
「ですよね……」
希望は苦笑した。
疲れているだけかもしれない。
そう自分に言い聞かせる。
夜勤明け。
ロッカーで着替えていると、一枚の紙が足元に落ちた。
白いコピー用紙だった。
拾い上げる。
そこには新聞記事が印刷されていた。
『都内病院で医療用麻薬の在庫数に不一致』
記事には病院名は書かれていない。
だが、最後の一文に希望の目が止まる。
「現在も関係者への聞き取りが続いている」
「誰の……」
その時だった。
「土屋さん」
驚いて振り向くと宮田が立っていた。
「どうしたの?」
希望は記事を見せた。
宮田は一瞬だけ表情を変えた。
「……これ」
「知ってるの?」
「前に少し聞いたことがある」
宮田は声を落とした。
「うちの病院でも、一時期モルヒネの帳簿が合わないって噂があった」
希望は目を見開く。
「でも、正式には何も発表されてない」
「つまり噂?」
「そう。でも……」
宮田は記事を見つめたまま言った。
「香織さんもモルヒネを使ってたよね」
その言葉に、希望の鼓動が速くなる。
偶然。
そう思いたかった。
けれど、香織の日記、閲覧できないカルテ、そしてモルヒネの噂。
一つひとつは小さな違和感だった。
しかし、それらは一本の線で繋がり始めているように思えた。
病院を出る頃には雨が降り始めていた。
二人は駅まで並んで歩く。
「希望ちゃん」
「うん」
「思い込みかもしれない」
「……うん」
「でも、もし思い込みじゃなかったら」
宮田は立ち止まり、真っ直ぐ希望を見た。
「香織さんは病気だけで亡くなったんじゃない」
希望は雨空を見上げた。
胸の奥で、またあの夜の雨音が響く。
あの日、自分は何を見落としたのだろう。
そして__誰が「あの夜」を見ていたのだろう。
その答えは、まだ闇の中にあった。
数日後の夕方。
希望は病院近くの喫茶店で、村木紗香と向かい合って座っていた。
店内には静かなジャズが流れ、窓の外では小雨が降り続いている。
紗香はバッグから日記を取り出し、ゆっくりと希望の前へ置いた。
「家に帰って、もう一度最初から読み返してみたんです」
その声は少し震えていた。
「気になるページがあって……」
希望は日記を開く。
付箋が貼られたページには、これまで気づかなかった一文があった。
《夜になると、同じ匂いがする。消毒薬じゃない。甘い匂い。》
希望は眉をひそめる。
「甘い匂い……?」
「私も意味が分からなくて」
紗香は首を横に振る。
「でも香織は、匂いには敏感な子だったんです」
希望は病棟を思い浮かべた。
アルコール消毒液。
点滴。
洗剤。
どれも病院では日常の匂いだ。
しかし、「消毒薬じゃない」と書き残している以上、香織は明らかに違和感を覚えていたのだろう。
翌日。
希望は休憩時間に宮田へその話を伝えた。
「甘い匂い?」
宮田は少し考え込む。
「薬剤によっては独特の匂いがするものもあるけど……」
「私も病棟で働いていて、そんな匂いを意識したことはない」
「じゃあ香織さんだけが感じていた?」
宮田は首をかしげる。
「あるいは、その時だけ誰かが持ち込んでいたものか」
その言葉に、希望の心がざわついた。
もし夜だけ現れる「誰か」がいたとしたら――。
二人は病棟の記録室へ向かった。
閲覧できる範囲で、香織が入院していた頃の勤務表を確認する。
「亡くなった日は……」
宮田が指を滑らせる。
「夜勤は四人」
佐々木遥。
土屋希望。
看護助手一名。
そして__
「佐藤優」
希望は思わず息をのんだ。
「叔父さんも夜勤だったんだ」
「うん……」
それは知っていた。
だが、文字として目にすると現実味を帯びてくる。
宮田は続けて勤務表を見比べる。
「その三日前も」
「……優さんがいる」
「二日前も」
また同じだった。
偶然かもしれない。
だが、香織の日記に「夜になると誰かが来る」と書かれ始めた時期と重なっている。
「決めつけちゃいけない」
希望は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「優さんはそんな人じゃない」
宮田は静かにうなずいた。
「そう。だから証拠が必要」
その日の帰り道。
希望は思い切って叔父・優の自宅を訪ねた。
インターホンを押すと、しばらくしてドアが開く。
「希望か」
優は少し疲れた表情をしていた。
「どうした?」
「少し話がしたくて」
部屋へ案内される。
コーヒーの香りが漂う静かなリビングだった。
希望は意を決して口を開く。
「優さん」
「うん」
「村木さんのこと、覚えてる?」
優の動きが一瞬止まる。
「もちろん覚えてる」
「亡くなる前、病室へ行ってた?」
数秒の沈黙。
「仕事だからね」
それだけ答えると、優はコーヒーカップを持ち上げた。
「夜も?」
優は希望を見つめる。
「何が聞きたい?」
「香織さんの日記に、『夜になると誰かが来る』って書いてあったの」
優の表情がわずかに曇る。
「日記?」
「お姉さんが見つけた」
再び沈黙が流れた。
雨音だけが部屋に響く。
やがて優は静かに言った。
「過去を掘り返しても、誰も幸せにはならない」
「でも……」
「希望」
優は穏やかな口調のまま続けた。
「君は看護師だ」
「……うん」
「患者さんの死から学ぶことは大切だ。でも、必要以上に過去へ縛られてはいけない」
その言葉は正しかった。
けれど希望は、優が何かを隠しているようにも感じた。
「優さん」
「何?」
「何か知ってる?」
優は少しだけ笑った。
「知らない方がいいこともある」
その一言だけ残し、話題は変わってしまった。
帰宅した希望は、ベッドに腰を下ろした。
バッグから香織の日記を取り出す。
最後のページを開く。
《助けて》
その震えた文字を見つめていると、スマートフォンが震えた。
宮田からのメッセージだった。
『希望ちゃん、大変。明日、話したいことがある。病院のこと。』
その短い文章の下には、一枚の写真が添付されていた。
薄暗い廊下。
その奥に立つ白衣姿の人物。
顔ははっきり写っていない。
だが、その写真の右下には日時が表示されていた。
__村木香織が亡くなった夜。
希望は思わず息を止めた。
画面を見つめる手が震える。
あの夜、病室の前には誰かがいた。
そして、その誰かは今も病院のどこかにいる。
雨が窓を激しく打ちつける。
まるで真実へ近づこうとする希望を試すように。




