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消えない傷跡


「最近、ちゃんと眠れてる?」


 宮田桃の何気ない一言に、希望はコーヒーカップを持つ手を止めた。


「……まあ、それなりに」


「嘘」


 宮田は苦笑した。


「顔色、ひどいよ」


 希望は曖昧に笑ってごまかした。


 悪夢のことは誰にも話したくなかった。


 話してしまえば、本当に自分が壊れてしまいそうだったから。


 昼休憩を終え、病棟へ戻る。


 患者の点滴を確認し、バイタルサインを測定し、カルテを入力する。


 いつもと変わらない一日。


 それなのに、香織が使っていた個室の前を通るたび、胸の奥が苦しくなる。


 今は別の患者が入院している。


 カーテンもベッドも新しくなり、何事もなかったように時間だけが過ぎている。


 なのに、希望にはあの日の光景だけが色濃く残っていた。


 仕事を終え、帰宅したのは午後七時過ぎだった。


 コンビニで買った弁当を机に置いたまま、ベッドへ倒れ込む。


 食欲はなかった。


 天井を見つめていると、スマートフォンが震えた。


 画面には「母」の二文字。


 希望は一瞬ためらい、それから通話ボタンを押した。


「もしもし」


『希望? 元気?』


 母・美奈子の声は、昔と変わらず落ち着いていた。


『仕事には慣れた?』


「うん……」


 少しだけ沈黙が流れる。


 希望は思い切って口を開いた。


「お母さん……私、まだ村木さんのことが忘れられない」


 電話の向こうで、小さく息をつく音がした。


『そう』


「私がもっと早く気づいていれば助けられたのかな」


 返事はすぐには返ってこなかった。


 やがて母は静かに言った。


『新人だったあなたにできることは、ちゃんとやったと思う』


 その言葉に、少しだけ肩の力が抜ける。


 けれど、次の一言が胸を締めつけた。


『でも……担当が別の看護師だったら、違う結果だった可能性はあるかもしれないね』


 希望は言葉を失った。


 胸の奥にしまい込んでいた傷口が、ゆっくりと開いていく。


『看護は結果がすべてだから』


 母は責めるような口調ではなかった。


 ただ、経験を積んだ看護師として事実を話しただけだった。


 だからこそ、その言葉は重かった。


 電話を切ると、部屋は静まり返った。


 雨は降っていない。


 それでも希望の耳には、あの夜の雨音が聞こえる気がした。


 __あなたじゃなかったら、助かったのに。


 夢の中で何度も聞いた言葉が、現実と重なる。


 希望は顔を覆った。


「……違う」


 そう呟いても、自分の心は納得してくれない。


 香織の死を、自分は本当に受け入れられているのだろうか。


 それとも、まだ何か知らないことがあるのだろうか。


 ローテーブルの上には、昨日ロッカーで見つけた付箋が置かれている。


 『あの夜、すべてを見ていた』


 何度見ても、その文字だけが異様な存在感を放っていた。


 希望は付箋をそっと手に取る。


 __もし、この言葉が本当なら。


 私は、何を見落としたのだろう。


 その疑問は、静かに、しかし確実に希望の心へ根を張り始めていた。






 その夜も、希望は眠れなかった。


 目を閉じれば、モニターのアラームが鳴る。


 耳を塞いでも、香織の名前を呼ぶ自分の声が頭の中で響き続ける。


 時計を見ると午前二時。


 あと四時間もすれば出勤だった。


「……寝なきゃ」


 そう思えば思うほど、眠気は遠ざかっていく。


 翌朝。


 鏡に映る自分の顔はひどかった。


 目の下には濃い隈ができ、頬は少しこけて見える。


 適当に髪をまとめ、白衣に袖を通す。


 病院へ向かう足取りは重かった。


     


「土屋さん、おはよう」


 ナースステーションで佐々木遥が声をかける。


「おはようございます」


「顔色、大丈夫?」


「昨日あまり眠れなくて」


「無理しないでね」


 その一言に、希望は小さくうなずいた。


 患者のバイタルサインを測り、点滴を交換し、電子カルテへ記録を入力する。


 手順は覚えている。


 体も動く。


 それでも、どこか現実感がなかった。


「土屋さん」


 突然、患者に呼ばれる。


「はい」


「ありがとう」


 その笑顔を見た瞬間、希望の胸が締めつけられた。


 __私は、本当にこの人たちを守れるのだろうか。


 香織の姿が重なる。


 また同じことが起きたら。


 また患者を救えなかったら。


 そんな考えが頭から離れない。


     


 昼休憩。


 食堂で定食を前にしても、箸は進まなかった。


「また食べてない」


 宮田桃が向かいの席に座る。


「食欲ないの?」


「うん……」


「何日くらい?」


 希望は少し考えた。


「ちゃんと食べたの……いつだろう」


 宮田は黙ったまま水を一口飲む。


「希望ちゃん」


「うん?」


「病院へ行きなよ」


「病院にいるじゃん」


「そうじゃなくて」


 宮田は真っ直ぐ希望を見た。


「心の病院」


 希望は苦笑した。


「そんな大げさな」


「大げさじゃない」


 宮田の声は穏やかだった。


「患者さんのことを考えられる人ほど、自分のことは後回しにする」


 その言葉に、希望は返事ができなかった。


「最近、笑ってないよ」


 希望は思わず目を伏せる。


 自分では気づいていなかった。


     


 仕事が終わる頃には、頭痛がひどくなっていた。


 ロッカーで着替えながら立ち上がると、視界がふらつく。


「あっ……」


 思わずロッカーに手をつく。


「土屋さん!」


 佐々木が慌てて駆け寄る。


「顔真っ白だよ」


「大丈夫です……」


「大丈夫な人はそんな顔しない」


 佐々木は少し考えたあと、静かに言った。


「明日、心療内科へ行ってきなさい」


「でも……」


「仕事のことは気にしなくていい」


 希望は何か言おうとした。


 しかし言葉にならなかった。


 涙だけが頬を伝う。


「ごめんなさい……」


「謝る必要ないよ」


 佐々木は優しくティッシュを差し出した。


「看護師だって、人間だから」


     


 翌日の午後。


 希望は自宅近くのメンタルクリニックを訪れた。


 待合室には多くの人が座っている。


 スーツ姿の会社員。


 制服姿の高校生。


 年配の女性。


 誰もが静かに順番を待っていた。


 自分だけじゃない。


 そう思うと、不思議と少しだけ肩の力が抜けた。


「土屋希望さん」


 名前を呼ばれ、診察室へ入る。


 白髪交じりの医師が穏やかな表情で迎えた。


「今日はどうされましたか」


 その一言で、希望の中に張りつめていた糸が切れた。


「患者さんを……助けられなかったんです」


 気づけば涙があふれていた。


「それから毎日、夢に出てきて……」


 医師は最後まで口を挟まずに話を聞いてくれた。


 希望は初めて、香織のことを誰かに話した。


 全部、話した。


 診察室には静かな時間が流れた。


 やがて医師はカルテを閉じる。


「土屋さん」


「はい」


「今は心も体も疲れ切っています」


 医師は穏やかな口調で続けた。


「抑うつ状態です。まずは休みましょう」


 希望は黙って診断書を見つめた。


 休む。


 その言葉が、少しだけ怖かった。


 でも同時に、どこか救われた気もしていた。


 __私は、弱かったから苦しかったんじゃない。


 ちゃんと限界だったんだ。


 診察室を出る頃には、夕暮れの光が街を優しく照らしていた。







 二週間後。


 希望は診断書を手に病院を訪れていた。


 休職中も香織の夢は消えなかった。


 けれど、眠れない夜は少しずつ減り、食事も以前より口にできるようになっていた。


 約束の時間になり、師長室の扉をノックする。


「失礼します」


「土屋さん、どうぞ」


 師長・石川真由美は立ち上がり、穏やかな笑顔で迎えた。


「体調はどう?」


「……少し良くなりました」


「それならよかった」


 石川は向かいの椅子を勧めると、自らコーヒーを淹れ始めた。


 部屋には静かな時間が流れる。


「村木さんのこと、まだ夢に出てくる?」


 希望は小さくうなずいた。


「毎日のように……」


「そう」


 石川はコーヒーカップを希望の前へ置いた。


「土屋さんは、自分を責めすぎている」


 希望は視線を落とす。


「でも……私が受け持ちでした」


「そうだね」


 石川は否定しなかった。


「だから責任を感じるのは当然」


 その言葉に、希望の胸が少しだけ軽くなる。


 初めて、自分の苦しさを否定されなかった。


「でもね…」


 石川は静かに続けた。


「患者さんが亡くなった理由を、一人の看護師だけの責任にすることはできない」


 希望は顔を上げた。


「私も新人の頃、受け持ちの患者さんを急変で亡くしたことがあるの」


 希望は驚いた。


 いつも冷静で頼れる師長にも、そんな過去があったとは思わなかった。


「毎晩、『あの時こうしていれば』って考えた」


 石川は少しだけ笑う。


「一年くらい引きずったかな」


「師長でも……?」


「もちろん」


 石川は頷いた。


「看護師は人の命に関わる仕事だから」


 部屋に沈黙が流れる。


 やがて石川は真っすぐ希望を見つめた。


「でもね、土屋さん」


「はい」


「亡くなった患者さんは戻ってこない」


 希望の肩が震える。


「だからこそ、その経験を次の患者さんに生かすしかない」


 その言葉は厳しかった。


 けれど、不思議と母の言葉のような冷たさはなかった。


「あなたは患者さんのことを真剣に考えられる看護師よ」


 石川は優しく微笑んだ。


「私は、その長所を失ってほしくない」


 希望は唇を噛んだ。


 目には涙が浮かんでいた。


「……ありがとうございます」


「無理はしなくていい。でも、一人で抱え込まないこと」


「はい」


「困ったら、いつでも相談して」


 その言葉に、希望は深く頭を下げた。


     


 一週間後。


 希望は病棟へ復帰した。


「おかえり」


 佐々木が笑顔で迎えてくれる。


「ありがとうございます」


 ナースステーションにはいつもの景色が広がっていた。


 電子カルテ。


 ナースコール。


 医師と看護師の慌ただしい会話。


 何も変わっていない。


 それでも、自分だけが少し変わった気がした。


 もう一度、看護師として歩いてみよう。


 そう思えた。


     


 午後の外来患者の対応を終えた頃だった。


「土屋さん、少しいいですか」


 女性の声が聞こえた。


 振り向くと、三十代半ばほどの女性が立っていた。


 黒いワンピースに、どこか疲れ切った表情。


 それでも、その目だけは強い意志を宿していた。


「私……村木紗香といいます」


 その名前を聞いた瞬間、希望の鼓動が速くなる。


 村木。


 忘れられるはずがない。


「香織の姉です」


 希望は言葉を失った。


 紗香はバッグから一冊の古びたノートを取り出した。


「妹の遺品を整理していたら、これが見つかりました」


 希望はゆっくり受け取る。


 表紙は使い込まれ、端が少し擦り切れていた。


「香織の日記です」


 紗香は小さく息を吸う。


「最後のページに、どうしても気になることが書いてあったんです」


 希望は喉を鳴らした。


「土屋さん」


 紗香は希望の目をまっすぐ見つめる。


「妹の死は、本当に病気だったのでしょうか」


 病棟の時計が午後五時を告げる。


 静かな病棟に、その鐘の音だけが響いた。


 希望は答えられなかった。


 ただ、胸の奥で何かが音を立てて動き始めていた。


 __あの夜、すべてを見ていた。


 ロッカーに残されていた一枚の付箋が、再び脳裏によみがえる。


 香織の死は、まだ終わっていない。


 希望はそう直感していた。


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