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夢の病室


 ナースコールが鳴った。


「鈴木さん、お手洗いですか? 一人で歩くと危ないので、呼んでくださいね」


 先輩看護師の佐々木遥が患者の腕を支えながら、穏やかに声をかけている。


「佐々木さん、そのままお願いします。記録、進めておきます」


 土屋希望はナースステーションへ戻り、電子カルテを開いた。


 夜勤の病棟は静かだった。


 聞こえてくるのはモニターの電子音と、点滴が一滴ずつ落ちる小さな音だけ。


 看護師二年目。


 夜勤にもようやく慣れてきたはずだった。


 それなのに__。


 ピッ、ピッ、ピッ……。


 モニターのアラームが鳴る。


 希望の指が止まった。


 胸の奥がざわつく。


 その音だけは、どうしても慣れることができない。


 モニターの光を見るたび、あの夜を思い出す。


 三か月前。


 大雨の夜だった。


 患者、村木香織。


 三十歳。


 乳がんは寛解していたが、原因不明の浮腫と激しい痛みに苦しみ、長く入院していた。


 希望が受け持った、その夜。


 香織は突然、急変した。


「土屋さん?」


 佐々木の声ではっと我に返る。


「大丈夫?」


「あ……はい。すみません」


 慌てて画面に視線を戻す。


 画面の文字がぼやけて見えた。


 何度深呼吸しても、胸の苦しさは消えない。


 あの夜、自分は何かを見落としていたのではないか。


 もっと早く異変に気づいていたら。


 もっと経験があったら。


 自分ではなく、別の看護師が担当していたら。


 香織は助かったのではないか。


 その問いは三か月経った今も、答えのないまま希望の心を締めつけ続けていた。


     


 短い仮眠時間。


 希望はベッドに横になると、すぐに眠りへ落ちた。


 暗い病室。


 窓を叩く激しい雨。


 耳をつんざくモニターの警報音。


 ベッドには香織が横たわっていた。


「村木さん!」


 希望は駆け寄る。


 冷たくなった手を握り、何度も名前を呼ぶ。


「村木さん! 聞こえますか!」


 返事はない。


 モニターには一本の水平線が映っていた。


「嘘……」


 喉が震える。


 ナースコールを押そうとしても指が動かない。


 助けを呼びたいのに、声が出ない。


 突然、病室の扉が開いた。


 誰かが立っている。


 逆光で顔は見えない。


 その人物は静かに言った。


「あなたじゃなかったら、助かったのに」


 その一言が胸を貫く。


「違う……」


 希望は首を振る。


「違う……!」


 しかし、その声は誰にも届かなかった。


     


「土屋さん!」


 肩を揺すられ、希望は勢いよく目を開けた。


「大丈夫? うなされてたよ」


 目の前には佐々木が立っていた。


 希望は荒い呼吸を整えながら起き上がる。


「……すみません。」


 額には冷たい汗が滲んでいた。


「また、あの夢?」


 佐々木は小さくため息をつく。


 希望は少し迷ったあと、小さくうなずいた。


「……はい」


 佐々木はそれ以上何も聞かなかった。


「休憩終わり。巡視、一緒に行こうか」


「はい」


 白衣を整え、病室へ向かう。


 廊下は静かだった。


 患者たちは眠り、照明も落とされている。


 その静けさが、かえって希望には苦しかった。


 香織が亡くなった夜も、病棟はこんなふうに静かだった。


 何事もない夜だと、誰もが思っていた。


 だからこそ、急変は突然だった。


 希望は胸ポケットのペンライトを握りしめる。


 この小さな光だけが、自分を現実につなぎ止めてくれている気がした。


 __もう二度と、同じ思いはしたくない。


 そう心の中でつぶやきながら、希望は静かな病室の扉を一つずつ開けていった。





 夜勤明け。


 窓の外では、いつの間にか雨が上がっていた。


 朝日が病棟の廊下を淡く照らし、昨夜の嵐が嘘だったかのように静かな時間が流れている。


「土屋さん、お疲れさま」


 佐々木遥がコーヒーを片手に笑った。


「今日はゆっくり休みなよ」


「ありがとうございます」


 希望は笑顔を作ったが、胸の重さは変わらなかった。


 夜勤が終わっても、香織のことだけは頭から離れない。


 タイムカードを押し、更衣室へ向かう。


 白衣を脱ぎ、ロッカーを開けようとした、その時だった。


 カサッ__。


 足元に一枚の付箋が落ちた。


「……?」


 誰かのメモだろうか。


 何気なく拾い上げた瞬間、希望の動きが止まる。


 そこには、黒い油性ペンで乱暴に書かれた文字があった。


 『あの夜、すべてを見ていた』


 息をのむ。


 裏返しても差出人の名前はない。


 自分宛てなのかも分からない。


 ただ、その一文だけが書かれていた。


 希望の脳裏に、香織が亡くなった夜の光景が鮮明によみがえる。


 誰かのいた気配。


 雨音。


 鳴り止まないアラーム。


 そして、自分の記憶にはぽっかりと穴が空いているような違和感。


「……気にしすぎ、だよね」


 そう言い聞かせる。


 悪質ないたずらかもしれない。


 誰かが落としたメモを、自分が拾っただけかもしれない。


 そう思いながらも、その紙を捨てることはできなかった。


     


 二日後。


 休憩時間のスタッフルーム。


 希望は向かいに座る同期の宮田桃へ、例の付箋を差し出した。


「これ、見て」


 宮田はコーヒーカップを置き、付箋を受け取る。


 数秒、黙って文字を見つめていた。


「……誰にも見せてない?」


「うん。宮田さんが初めて」


「そう」


 宮田は付箋を机に置いたまま、小さく息を吐いた。


「希望ちゃん」


「なに?」


「これ、偶然じゃないと思う」


 希望は思わず顔を上げた。


「え?」


「この病院ってね、あんまりきれいな組織じゃない」


 宮田は声を落とした。


「患者や職員に都合の悪いことは、表に出ないことがある」


 希望は眉をひそめる。


「どういうこと?」


「噂だから断言はできない。でも、前から気になってたの」


 宮田は周囲を確認してから続けた。


「村木さんの急変も、少し不自然だった」


 その一言に、希望の心臓が大きく跳ねた。


「……どういう意味?」


「カルテを見ても、急変するほど悪化していたとは思えなかった」


 希望は言葉を失う。


 自分も何度も考えたことだった。


 それでも、


 “新人だった自分が見逃した”


 そう思い込むことでしか、自分を納得させられなかった。


「もちろん、本当に急変だった可能性もある」


 宮田は静かに言った。


「でも、このメモを書いた人は違うと思ってる」


 希望は付箋を見つめる。


 『あの夜、すべてを見ていた。』


 もし、この言葉が本当だとしたら。


 あの夜、自分の知らない出来事があったのだろうか。


「……私」


 希望は小さくつぶやいた。


「知りたい」


「何を?」


「香織さんに、本当は何があったのか」


 宮田は少しだけ笑った。


「その言葉、待ってた」


 窓の外では、再び空が曇り始めていた。


 遠くで雷が鳴る。


 希望は知らなかった。


 一枚の付箋をきっかけに、自分が病院に隠された闇へ足を踏み入れることになるとは。


 そして、その真実が、自分自身の過去までも大きく揺るがすことになるとは__。


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