あの夜
翌朝。
希望はほとんど眠れなかった。
机の上には、昨夜地下資料室から持ち帰った内容をまとめたメモが置かれている。
__消えたカルテ。
__院長判断により提出中止。
__切り取られた三十五ページ。
そして。
『投与量変更 23:40 S・Y』
その付箋が、何度見ても頭から離れなかった。
優は犯人ではない。
そう信じたい。
だが、状況証拠だけを見れば、優が関与していたと考えることもできてしまう。
希望は目を閉じた。
優はいつも言っていた。
「真実は、一つの証拠だけでは見えない」
だからこそ、感情だけで判断してはいけない。
希望は深く息を吸い、病院へ向かった。
病棟では、朝の申し送りが始まっていた。
「3号室の畑野さん、夜間に発熱ありました。アセリオ投与して最終6度台です」
「5号室の西村さん、本日退院予定です」
「新規入院一名です」
いつもと変わらない日常。
だが希望には、病棟の空気が昨日までとは違って感じられた。
誰を信じればいいのか分からない。
そんな思いが胸の中に渦巻いていた。
昼休み。
希望は宮田と病院裏の中庭へ向かった。
人目を避けて話ができる場所だった。
「昨日のことだけど」
宮田が口を開く。
「あの付箋、どう思う?」
「正直……分からない」
希望は俯いた。
「優さんが本当に投与量を変更したなら、どうして隠す必要があるの?」
「そこなの」
宮田は静かに頷いた。
「優さんなら、勝手に投与量を変えるような人じゃない」
「うん」
「もし変更したとしても、必ず医師へ報告する」
希望も同じ考えだった。
優は病棟でも特にルールを守る看護師だった。
新人だった希望にも、何度も言っていた。
「記録は自分を守るためじゃない。患者さんを守るために残すんだ」
そんな人が、無断で記録を改ざんするだろうか。
「もう一つ気になることがある」
宮田はノートを開いた。
「23時40分」
「……」
「香織さんが亡くなったのは0時過ぎ」
「そう」
「投与量変更から急変まで二十分くらいしかない」
希望は顔を上げた。
「そんな短時間で急変する?」
「普通は考えにくい」
宮田はページをめくる。
「モルヒネならなおさら」
「じゃあ……」
「本当の原因は別にある可能性が高い」
その言葉に、希望の鼓動が速くなる。
「じゃあ香織さんは……」
「投与量じゃなく、別の何かで急変した」
宮田は断言した。
「だからカルテが隠された」
その時だった。
「土屋さん」
二人は振り返る。
佐々木遥だった。
「師長が探してるよ」
「分かりました」
希望が立ち上がる。
遥は一瞬だけ宮田を見る。
「……何か調べてるの?」
「え?」
「最近、二人とも様子がおかしいから」
希望は思わず言葉に詰まる。
「いや、その……」
遥は優しく笑った。
「無理して話さなくていい」
そう言うと、そのまま病棟へ戻っていった。
「遥さんには話さないの?」
宮田が尋ねる。
希望は少し考えた。
「まだ」
「どうして?」
「巻き込みたくない」
もし病院全体が隠蔽に関わっているなら、誰が味方で誰が敵なのか分からない。
今は、確実に信頼できる人だけで動くしかなかった。
師長室では石川が書類を整理していた。
「土屋さん、ちょっと座って」
「はい」
石川は希望の顔をじっと見つめる。
「最近、無理してない?」
「大丈夫です」
「本当に?」
その問いに、希望は目を逸らした。
石川はため息をつく。
「患者さんのことで悩むのは悪いことじゃない。でも、一人で抱え込まないで」
その言葉は優しかった。
だからこそ、希望は胸が痛んだ。
石川は何かを知っているのだろうか。
それとも、本当に何も知らないのか。
師長室を出ようとした時だった。
机の上に、一冊の古いファイルが置かれているのが目に入る。
表紙には、
「インシデント報告書(閲覧禁止)」
と書かれていた。
その一番上の付箋には、見覚えのある日付が記されている。
三か月前。
香織が亡くなった日だった。
希望は思わず立ち止まる。
「どうしたの?」
石川が声をかける。
「いえ……」
希望は視線を逸らし、部屋を出た。
だが、心臓は激しく鼓動していた。
あの報告書には、きっと何かが書かれている。
そして、その真実は――
希望がまだ思い出せていない「あの夜」の記憶へとつながっていた。
その日の夜。
仕事を終えた希望は、自宅の机に一冊のノートを広げていた。
宮田と整理した情報を書き出していく。
* 香織のカルテは何者かによって隠されていた。
* 三十五ページだけが切り取られていた。
* 医療安全委員会への報告は「院長判断」で中止。
* 山本がカルテを持ち出していた。
* 「投与量変更 23:40 S・Y」という付箋。
どれも事件につながる重要な手掛かりだった。
しかし、一番重要なものが欠けている。
あの日、自分は何を見たのか。
希望は目を閉じた。
「……思い出して」
何度も繰り返し見る悪夢。
その中には、まだ現実の記憶が混ざっている気がした。
翌日。
希望は病棟の休憩室で、当時の勤務表を見せてもらっていた。
「三か月前の夜勤ですか?」
事務職員が不思議そうに尋ねる。
「はい。当時のことを少し振り返りたくて」
勤務表には、あの夜の夜勤メンバーが並んでいた。
師長・石川はいない。
夜勤リーダーは佐々木遥。
希望。
優。
そして、もう一人。
「……山本先生?」
薬剤部長である山本の名前があった。
「薬剤部長が当直?」
希望は首をかしげる。
病棟勤務ではない山本が、なぜあの日だけ夜間に病棟へ来ていたのだろう。
昼休み。
希望は宮田へ勤務表を見せた。
「やっぱり」
宮田は驚かなかった。
「山本が病棟へ来ていた」
「でも薬剤部長なのに」
「病棟には麻薬金庫の確認で来ることはある」
「そうなんだ」
「でも夜中に来るのは珍しい」
宮田は腕を組んだ。
「しかも香織さんが急変した夜だけ」
「もう一つ。」
希望は勤務表の端を指差した。
「優さんの休憩時間」
23時30分から24時。
「付箋には23時40分って書いてあった」
二人は顔を見合わせた。
ちょうど優が休憩中になっている時間だった。
「もし本当に休憩していたなら……」
「病室にはいない」
宮田が静かに言う。
付箋の内容と勤務記録に矛盾が生じていた。
その日の夕方。
希望は勇気を出して優を訪ねた。
休職中の優は、相変わらず静かなアパートで一人暮らしをしていた。
「優さん」
「希望か」
優は少し驚いた表情を浮かべる。
「入れ」
部屋はきれいに片付いていた。
コーヒーの香りが漂う。
しかし、どこか生活感が薄い。
希望は単刀直入に尋ねた。
「優さん」
「うん」
「香織さんが亡くなった夜」
優の表情が固まる。
「23時40分、どこにいましたか」
沈黙が流れた。
時計の秒針だけが響く。
やがて優は静かに答えた。
「休憩室だ」
「一人で?」
「……ああ」
「証明できますか」
優は苦笑した。
「できない」
希望はバッグから付箋を取り出した。
「これ」
優は目を通す。
その瞬間だった。
表情が一変する。
「……どこで見つけた」
「香織さんのカルテ」
優はしばらく黙っていた。
「希望」
「はい」
「その付箋は偽物だ」
「え?」
「俺はそんな記録を書いていない」
希望は息を呑む。
「でもイニシャルが……」
「だからこそだ」
優は静かに続ける。
「誰かが俺に罪を着せようとしている」
「じゃあ、本当に何があったんですか」
優は窓の外を見る。
雨が降り始めていた。
「あの夜」
ぽつりと呟く。
「俺は香織の病室へ行った」
希望は驚く。
「やっぱり」
「でも、その時にはもう……」
優は拳を握り締めた。
「病室には俺以外の誰かがいた」
希望の鼓動が速くなる。
「誰ですか」
「……」
優は目を閉じる。
「言えない」
「どうして!」
思わず声が大きくなる。
「その人を守るため?」
「違う」
「じゃあ!」
優はゆっくり首を振った。
「今話せば、お前まで危険になる」
その時。
優のスマートフォンが鳴った。
非通知。
優は顔色を変える。
電話には出ない。
しかし留守番電話にメッセージが残った。
機械音声が部屋に流れる。
「まだ話していないようですね」
「約束を忘れないでください」
「次は、あなたでは済みません」
ブツッ、と音が切れた。
部屋に重い沈黙が落ちる。
希望は言葉を失った。
優も脅迫されていた。
しかも、それは今も続いている。
「優さん……」
優は小さく笑った。
「だから言っただろ」
「この件から離れろって」
「でも私は」
「香織の真実を知りたい」
希望は真っすぐ優を見る。
「私は逃げません」
優は長いため息をついた。
「……本当に似てる」
「え?」
「香織もそうだった」
どんなに止めても、患者のためなら危険なことにも踏み込んでいく。
そんな性格だった。
優は少しだけ笑う。
「だから守れなかった」
その一言には、深い後悔がにじんでいた。
帰宅した希望は、優の言葉を何度も思い返していた。
「病室には俺以外の誰かがいた」
その人物こそ、事件の鍵を握る存在なのかもしれない。
そして翌朝。
出勤した希望は、自分のロッカーに新しい封筒が入っていることに気付く。
中には、一枚の写真。
香織の病室前の防犯カメラ画像だった。
時刻は23時41分。
画質は粗い。
だが、病室へ入っていく人物の白衣の胸元には、はっきりと職員証が揺れていた。
名前までは読めない。
しかし、その人物は優ではなかった。
事件は、新たな局面を迎えようとしていた。




