影の中の個室病棟
写真を手にしたまま、希望はしばらく動くことができなかった。
病室へ入っていく人物は、優ではない。
これまで優に向けられていた疑いが、一気に揺らぎ始めた。
誰がこの写真をロッカーへ入れたのか。
味方なのか、それとも事件を楽しむ犯人なのか。
答えは分からない。
ただ一つ分かるのは、あの夜、香織の病室には優以外の人物がいたという事実だけだった。
勤務が終わると、希望は宮田を病院近くの喫茶店へ呼び出した。
人通りの少ない奥の席に座り、希望は封筒から写真を取り出す。
「これ……」
宮田は写真を見た瞬間、目を見開いた。
「防犯カメラ?」
「ロッカーに入ってた」
「また匿名?」
「うん」
宮田は写真をスマートフォンで拡大する。
「時間は二十三時四十一分」
「優さんじゃなかった」
「そうね」
宮田は頷いた。
「でも顔までは分からない」
白衣姿の人物は帽子を深くかぶり、マスクも着けている。
背格好しか判別できない。
「これだけじゃ証拠にはならない」
「うん……」
「でも」
宮田は写真を裏返した。
裏面には、小さく数字が書かれていた。
508-2
「これって……」
「カメラ番号じゃない?」
宮田が言う。
「つまり、一台だけじゃない」
病室周辺には複数の防犯カメラが設置されていた可能性がある。
「他の映像が残ってるかもしれない」
翌日。
二人は病院の防災センターへ向かった。
受付には年配の警備員が座っている。
「防犯カメラですか?」
「はい」
宮田ができるだけ自然に尋ねる。
「三か月前の映像って残っていますか?」
警備員は苦笑した。
「うちは一か月で上書きだからね」
希望は肩を落とした。
やはり遅すぎた。
だが警備員は続けた。
「ただ……」
「?」
「警察が来た時だけは別」
「え?」
「映像をコピーして渡すことがある」
希望と宮田は顔を見合わせる。
「警察が来たんですか?」
「確か、亡くなった患者さんの件で」
希望の鼓動が速くなる。
「その映像は?」
「管理部に保管されてると思うよ」
管理部。
そこは病院の運営を担う部署で、一般職員が自由に入れる場所ではない。
「簡単には見せてもらえないね」
宮田がため息をつく。
「どうしよう」
「正攻法じゃ無理」
その時だった。
「宮田さん?」
二人を呼ぶ声がした。
振り向くと、若い男性職員が立っていた。
「佐藤先生?」
希望は思わず口にする。
佐藤祐太郎。
研修医一年目。
香織が入院していた頃から何度か病棟で顔を合わせていた医師だった。
「何してるんですか?」
「ちょっと資料を探してて」
宮田が笑ってごまかす。
祐太郎は二人の表情を見て察したように言った。
「香織さんの件ですよね」
二人は黙った。
「……やっぱり」
祐太郎は小さく息を吐く。
「僕も、おかしいと思ってました」
三人は人気のない医局の休憩スペースへ移動した。
「僕、……」
祐太郎は声を潜める。
「香織さんが亡くなった翌朝、変なものを見たんです」
「変なもの?」
「事故報告書です」
希望は思わず身を乗り出す。
「そこには」
祐太郎は当時を思い出すように話し始めた。
「“モルヒネ投与後、患者急変”って書いてありました」
「……」
「でも、その日の夕方には文章が変わっていた」
「変わった?」
「“原疾患による急変”に」
宮田の目が鋭くなる。
「誰が書き換えたの?」
「分かりません」
祐太郎は首を振る。
「でも」
彼は確信を持った口調で続けた。
「書類を持っていったのは山本先生でした」
病院の闇が、少しずつ形を見せ始める。
山本はカルテを隠し、事故報告書にも関わっていた。
しかし、それでも希望には引っかかることがあった。
「山本先生は隠しているだけ」
「?」
「本当に香織さんを死なせた人とは違う気がする」
宮田も同じ考えだった。
「私もそう思う」
「どうして?」
「隠蔽する人間と、実行する人間は別だから」
その日の夕方。
希望が病棟へ戻ると、師長の石川が静かに声をかけた。
「土屋さん」
「はい」
「今日の夜勤」
「?」
「8号室もお願い」
希望は思わず立ち止まった。
508号室。
それは香織が最期を迎えた病室だった。
「今は空室だけど」
石川は穏やかに微笑む。
「掃除が終わったら、設備点検をお願いね」
夜。
508号室には誰もいなかった。
ベッドも新しいものへ交換され、壁紙まで張り替えられている。
それでも希望には分かった。
ここが香織の最期の場所だと。
静かな病室を見回していると、不意に違和感を覚えた。
「……あれ?」
ベッドサイドの壁。
コンセントの横に、小さな傷が残っている。
爪で引っかいたような細い線。
希望はそっと指で触れた。
その瞬間。
壁の奥で、カチッという小さな音が響いた。
次の瞬間、ベッド脇のパネルが数ミリだけ浮き上がった。
そこには、病院の誰も知らない隠し収納が存在していた。
希望は息をのんだ。
ベッドサイドのパネルが、ゆっくりと数センチだけ開いている。
「……こんなところに収納?」
この病棟で働いて二年。
何度もこの部屋へ入ったことはあるが、こんな場所があるとは知らなかった。
恐る恐る指先を差し込み、パネルを開ける。
中には配線が通っているだけ……ではなかった。
奥に、小さな茶色の封筒が押し込まれている。
「何これ……」
封筒には何も書かれていない。
埃をかぶっており、長い間ここへ隠されていたことが分かった。
希望は胸の鼓動を抑えながら封を開く。
中から出てきたのは、一枚のSDカードだった。
「宮田さん!」
勤務終了後、希望は急いで宮田のアパートを訪ねた。
ノートパソコンへSDカードを差し込む。
画面には一つだけ動画ファイルが表示された。
『508_2305』
「2305……」
「23時05分の意味かな」
宮田が再生ボタンを押す。
画面は暗い。
数秒後、病室の様子が映し出された。
「これ……」
希望は言葉を失う。
香織の病室だった。
映像は天井近くから撮影されている。
おそらく、小型カメラだ。
香織はベッドの上で苦しそうに呼吸をしていた。
その横には優が立っている。
「優さん……」
優は香織の手を握りながら、穏やかな声で話していた。
「痛みはどう?」
「……つらい」
香織は弱々しく笑う。
「でも、今日は少し楽」
希望は涙がこぼれそうになった。
優の表情には、看護師としての優しさしかなかった。
そこには殺意など微塵も感じられない。
その時。
病室のドアが開いた。
一人の人物が入ってくる。
白衣姿。
帽子とマスク。
顔は見えない。
「この人……」
宮田が映像を止める。
「例の写真の人物じゃない?」
希望も頷いた。
体格も歩き方も一致している。
人物はベッドサイドまで近づく。
そして優へ何かを話しかけた。
しかし音声は入っていない。
優は驚いたような表情を浮かべる。
二人は数秒間言い争うような様子を見せると、優は病室を出ていった。
「どうして?」
希望がつぶやく。
映像では優は自分から出ていったように見える。
病室には香織と、その人物だけが残った。
人物はカーテンを閉める。
そして点滴スタンドへ近づいた。
「止めて……」
希望は思わず画面へ手を伸ばした。
人物は点滴のラインへ手を伸ばしている。
だが、ちょうどその瞬間。
映像が乱れた。
激しいノイズ。
画面が真っ黒になる。
「え?」
数秒後、映像が戻る。
しかし病室にはもう誰もいなかった。
映像はそこで終わっていた。
「編集されてる」
宮田が静かに言う。
「途中だけ消されてる」
「じゃあ……」
「一番大事な場面だけ削除された」
希望は拳を握る。
真実は、この映像の空白の数分間にある。
宮田は動画ファイルの情報を確認し始めた。
「おかしい」
「何が?」
「作成日時と更新日時が違う」
「どういうこと?」
「動画は三か月前のものだけど、一週間前に編集されてる」
「編集?」
「つまり誰かが最近このデータを開いた」
二人は黙り込んだ。
つまり犯人は今も証拠を管理している。
事件は終わっていない。
その時だった。
玄関のインターホンが鳴る。
ピンポーン。
希望と宮田は顔を見合わせる。
「こんな時間に?」
宮田がモニターを見る。
そこには誰も映っていない。
「いたずら?」
恐る恐るドアを開ける。
廊下には人影はない。
ただ、一つだけ封筒が置かれていた。
白い封筒。
差出人はない。
宮田が中を開ける。
一枚の紙が入っていた。
『その映像の続きを見たければ、今夜二十三時、508号室へ来い。』
その下には、赤い文字でさらに一文。
『真実を知れば、もう後戻りはできない。』
希望はゆっくりと紙を握りしめた。
香織の死の真相は、もうすぐそこまで迫っている。
だが同時に、誰かが自分たちの行動をすべて見ていることも、はっきりと分かったのだった。
時計の針が午後十時五十分を指した。
病院の廊下は昼間とはまるで別世界だった。
照明は必要最低限まで落とされ、ナースステーションから漏れる光だけが静かな廊下を照らしている。
希望はナース服の胸ポケットにボイスレコーダーを入れ、宮田と顔を見合わせた。
「本当に行くの?」
宮田が小声で尋ねる。
「うん」
希望は迷わず頷いた。
「ここまで来たら、もう引き返せない」
宮田は苦笑した。
「昔からそうだよね、希望ちゃん」
「え?」
「怖がりなのに、患者さんのことになると無茶する」
希望は少しだけ笑った。
「宮田さんだって」
「私は法学部出身だからね。真実を知らないまま終わる方が気持ち悪い」
二人は静かに廊下を歩き始めた。
508号室。
香織が最後に過ごした特別個室。
事件後、改装され、現在は使用を中止されている。
病室の前には「設備点検中」と書かれた札が掛かっていた。
「誰もいない……」
希望が小さく呟く。
時計を見る。
午後十一時ちょうど。
約束の時間だった。
その時だった。
病室の奥から微かな物音が聞こえた。
カタン。
二人は顔を見合わせる。
「誰かいる」
希望はゆっくりとドアノブへ手を掛けた。
静かに開く。
病室の中は真っ暗だった。
カーテンだけが夜風でわずかに揺れている。
「誰ですか?」
返事はない。
希望は壁のスイッチへ手を伸ばした。
パチッ。
蛍光灯が点いた。
そこには誰もいなかった。
「……」
宮田が部屋を見回す。
「誰もいないじゃない」
その瞬間だった。
病室のテレビが突然ついた。
二人は思わず身をすくめる。
ザーッという砂嵐。
やがて映像が切り替わる。
そこには病院の廊下が映っていた。
「これ……」
防犯カメラ映像だった。
画面の右上には日時が表示されている。
三か月前。
香織が亡くなった夜。
映像には508号室へ向かう一人の人物が映っていた。
帽子を被り、マスクを着けている。
これまで見てきた人物と同じだ。
人物は周囲を確認すると病室へ入っていく。
数分後。
別の人物が現れた。
「優さん……」
優だった。
優は病室へ入ろうとする。
しかし、中から出てきた人物と廊下で鉢合わせになる。
二人は何かを話している。
音声はない。
だが、その人物は優へ一枚の紙を見せた。
優は明らかに動揺していた。
そして病室へ入ることなく、その場を離れてしまった。
「だから優さんは……」
希望は息をのんだ。
優は香織を見捨てたのではない。
病室へ入れなかった。
何者かに止められていたのだ。
その時。
テレビ画面が切り替わった。
今度は病室内の映像。
香織が苦しそうに横たわっている。
そこへ、先ほどの人物が近づく。
ゆっくりと香織の耳元で何かを囁く。
香織は涙を流して首を振る。
人物はポケットから注射器を取り出した。
希望は思わず叫ぶ。
「やめて!」
しかし映像の中の出来事は止められない。
人物は点滴ルートへ注射器を接続する。
数秒後。
香織の表情が苦しみに歪んだ。
モニターの心拍数が急激に低下していく。
アラームが鳴る。
人物は落ち着いた様子で注射器をポケットへ戻し、病室を出て行った。
その数十秒後。
優と希望が病室へ駆け込む映像へ切り替わった。
そこから先は、希望が何度も夢で見てきた光景だった。
希望はその場へ崩れ落ちた。
「そんな……」
涙が止まらなかった。
香織は急変したのではない。
誰かによって急変させられた。
宮田は震える声で言う。
「これは殺人事件よ……」
その瞬間だった。
テレビ画面が真っ暗になった。
そして白い文字だけが表示される。
『ここまで来たか。』
二人は息を止めた。
文字が続く。
『次は地下手術室で待つ。』
最後に、たった一文。
『真犯人は、君たちが一番信じている人物だ。』
画面が消える。
病室は再び静寂に包まれた。
その時、廊下から慌ただしい足音が響いた。
「土屋さん!」
佐藤祐太郎だった。
息を切らしながら508号室へ飛び込んでくる。
「ここにいた!」
「佐藤先生?」
「今すぐここを出て!」
「え?」
「警備室から連絡が入った!」
祐太郎の顔は青ざめていた。
「病院内で、もう一人亡くなった。」
希望の心臓が大きく鳴る。
「誰が……?」
祐太郎はゆっくりと答えた。
「山本和彦薬剤部長です。」
「……!」
「地下資料室で遺体が見つかった。」
希望と宮田は言葉を失う。
隠蔽工作の中心人物だった山本が殺された。
それはつまり__
真犯人は、口封じを始めたということだった。




