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沈黙の証人


 地下資料室で薬剤部長・山本和彦の遺体が発見された翌朝__。


 病院全体が異様な空気に包まれていた。


 警察車両が正面玄関に並び、刑事たちが慌ただしく出入りしている。職員は事情聴取を受け、ナースステーションからはいつもの笑い声が消えていた。


「こんなの……初めて」


 希望は白衣のポケットを握りしめた。


 昨日まで、自分は「三か月前の事件」を追っていたはずだった。


 しかし今、病院では新たな殺人事件が起きてしまった。


 しかも被害者は、病院の中枢にいた薬剤部長。


 偶然とは思えない。




「土屋さん」


 師長・石川真由美が静かに声をかけた。


「今日は警察から事情を聞かれると思う。昨日、病院に残っていた職員は全員対象だから」


「……はい」


 石川は少しだけ間を置き、小さくため息をついた。


「それとね」


「?」


「山本先生の件には、あまり深入りしない方がいい」


 希望は思わず石川の顔を見た。


「どういう意味ですか?」


「あなたは看護師でしょう」


 石川は穏やかな笑みを浮かべる。


「患者さんを守るのが仕事。刑事じゃない」


 その言葉は優しい。


 しかし、どこか壁を作るような冷たさもあった。


「……分かりました」


 そう答えながらも、希望の胸には違和感だけが残った。




 昼休み。


 宮田が食堂へやって来た。


「警察、何か聞いてきた?」


「昨日の行動だけ」


「こっちも」


 宮田は周囲を確認すると、小さなUSBメモリを机へ置いた。


「これ」


「何?」


「昨日の映像をコピーしておいた」


 希望は驚く。


「持ち出したの?」


「消されると思ったから」


 宮田は真剣な表情だった。


「山本が殺された時点で、証拠も狙われる」




 二人は人気のない休憩室へ移動した。


 ノートパソコンを開き、もう一度映像を確認する。


「やっぱり気になる」


 宮田は動画を止めた。


「ここ」


 画面には優と白衣の人物が向かい合う姿。


「この人、優さんに紙を見せてる」


「うん」


「何が書いてあったんだろう」


 希望は画面を拡大した。


 文字は潰れて読めない。


 だが、一文字だけ見えた。


 『優』


「名前?」


「違う」


 宮田は首を振る。


「これは宛名じゃない」


「え?」


「脅迫状よ」




 宮田は紙へメモを書き始めた。


『優』


『……するな』


『秘密』


「全部は読めないけど、この三つだけ判別できる」


 希望は息をのんだ。


「優さんは脅されていた?」


「可能性は高い」


「だから病室へ入れなかった……」




 その日の夕方。


 希望は休職中の優を訪ねることを決意した。


 アパートの呼び鈴を押す。


 しばらくしてドアが開いた。


 優は以前より痩せて見えた。


「希望か」


「少しだけ話がしたい」


 優は黙って部屋へ招き入れた。




 部屋は相変わらず整頓されていた。


 テーブルには飲みかけのコーヒー。


 医学書が何冊も積まれている。


 その中に、一冊だけ古びた大学時代のアルバムがあった。


 希望は思わず手に取る。


「懐かしいな」


 優が小さく笑った。


「昔の写真だ」


 ページをめくる。


 看護学部の集合写真。


 若い優。


 そして__


「……香織さん」


 笑顔の香織が写っていた。


 二人は肩を並べ、自然に笑っている。


「やっぱり……。」


 希望は静かに言った。


「優さんと香織さんは恋人だったんですね」


 優は否定しなかった。


 しばらく黙ってから、小さく頷く。


「ああ」


「大学四年間、一緒だった」




 静かな沈黙が流れる。


 やがて優が口を開いた。


「香織は誰よりも患者思いだった」


「だから看護師になった」


「乳がんになっても、また病棟へ戻るって笑ってた」


 その声は震えていた。


「なのに……」


 優は拳を強く握る。


「病気は香織から全部奪った」




 希望は意を決したように尋ねた。


「優さん」


「三か月前の夜」


「病室の前で、誰に止められたんですか」


 優の表情が凍りつく。


「……」


「映像を見ました」


「誰かが優さんへ紙を見せていました」


「知っていることを教えてください」




 長い沈黙のあと。


 優は深く息を吐いた。


「……やっぱり」


「映像は残っていたんだな」


 希望と宮田は顔を見合わせた。


 優は知っていた。


 あの夜の映像が存在することを。


 そして、ゆっくりと口を開く。


「俺が病室へ入れなかった理由を話す」


「ただし……」


 優の目には、これまで見たことのない恐怖が浮かんでいた。


「その話を聞いた瞬間、お前たちはもう普通の看護師ではいられなくなる」


 希望は黙って頷く。


 真実は、ようやく口を開こうとしていた。






 部屋の空気が重く沈んだ。


 窓を打つ雨音だけが静かに響いている。


 優はコーヒーカップを手にしたまま、しばらく口を開かなかった。


 希望も宮田も急かさなかった。


 ようやく優が、小さく息を吐く。


「……あの夜、俺は香織に呼ばれていた」


 希望は思わず身を乗り出した。


「呼ばれていた?」


「夜勤が始まる少し前に、香織からメッセージが届いたんだ」


 優はスマートフォンを取り出した。


 古いメッセージ画面を開く。


 そこには三か月前の日付が残っていた。




『優へ』


『今日、どうしても話したいことがある。夜、病室に来て。』




「このメッセージを見て、仕事が落ち着いたら病室へ行こうと思ってた」


「話って……何だったんですか?」


 優は静かに首を振る。


「聞けなかった」


「病室へ着く前に、止められたから」




 優は目を閉じた。


 その表情は、三か月前へ戻っていくようだった。




 午後十一時過ぎ。


 508号室へ向かう廊下。


 病室の灯りが細く漏れていた。


 あと数歩でドアに手が届く。


 その時だった。


「佐藤さん」


 背後から低い声が聞こえた。


 振り返ると、白衣姿の人物が立っていた。


 帽子を深くかぶり、マスクで顔は見えない。


「こんな時間に何の用ですか」


 優が尋ねると、その人物は一枚の紙を差し出した。


 そこにはたった一文だけ書かれていた。




『病室へ入れば、彩乃さんが困ることになります』




 希望の顔色が変わった。


「彩乃……」


 優はゆっくり頷く。


「犯人は彩乃の存在を知っていた」


「どうして……」


「俺にも分からない」


 優は苦しそうに続けた。


「でも、その時点で理解した」


「相手は俺のことだけじゃなく、お前の家族まで調べていた」




「だから病室へ入らなかったんですか?」


 宮田が尋ねる。


「違う」


 優は首を横に振る。


「俺は構わず入ろうとした」


 その言葉に希望は驚いた。


「でも、その人物は続けて言った」




『妹さんが通っている事業所も、ご実家も知っています』




「……」


 部屋が静まり返る。


「俺は……」


 優は拳を握り締める。


「香織も守りたかった」


「でも、お前たち家族まで危険にさらすことはできなかった」


「ほんの数分だけ様子を見るつもりだった」


「その判断が……」


 優は苦しそうに目を閉じた。


「香織を死なせた」




 希望は何も言えなかった。


 これまで優を疑っていた。


 香織を見捨てたと思っていた。


 しかし違った。


 優もまた、犯人に操られた一人だったのだ。




 宮田が静かに口を開く。


「つまり犯人は病院の内部事情だけじゃない」


「職員の家族構成まで把握していた」


「かなり上の立場の人間ね」


 優は頷く。


「人事記録を自由に見られる人物」


「あるいは、それに近い権限を持つ人物」




 宮田はノートへ次々と名前を書き始めた。


・院長 高橋政則


・副院長


・看護部長


・事務長


・人事課長


「この辺りまで絞られる」


 希望はその名前を見つめた。


 どの人物も病院では絶対的な立場だ。


「でも……」


「犯人はどうして香織さんを?」


 その問いに、優の表情がさらに険しくなる。


「香織は偶然、あるものを見てしまった」


「あるもの?」


「俺も最初は信じられなかった」


 優は机の引き出しを開け、一冊の古びた手帳を取り出した。


「これは香織から預かっていたものだ」


「日記ですか?」


「違う」


 表紙には小さく書かれていた。




『薬剤管理メモ』




 宮田が目を見開く。


「薬剤管理?」


「香織は入院中、暇つぶしに薬のことを調べていた」


「ここの元看護師だからな」


「その時、薬剤部の記録と実際の投与量に違和感を覚えた」


 優はページを開く。


 そこには細かな数字が並んでいた。




モルヒネ使用量


フェンタニル在庫


麻薬返却数


廃棄量




 数字の横には赤字で書かれている。




『計算が合わない。』




 さらに次のページ。




『誰かが麻薬を抜いている。』




 希望は思わず息をのんだ。


「これが……」


「香織さんが知ってしまった秘密」


 優は静かに頷いた。


「そうだ」


「香織は気付いてしまった」


「病院の中で、医療用麻薬が長期間にわたって不正に持ち出されていたことを」


 その瞬間、希望の頭の中で点と点が繋がった。


 山本薬剤部長。


 改ざんされた記録。


 謎の隠蔽。


 そして香織の死。


 しかし優はゆっくり首を振る。


「……だが」


「山本は黒幕じゃない」


「え?」


「山本は命令されていただけだ」


 希望と宮田は息を止めた。


 優は二人を真っ直ぐ見つめる。


「本当に恐ろしいのは――」


「山本に命令できる立場の人間だ」


 その言葉と同時に、優のスマートフォンが震えた。


 画面には、登録されていない番号からの着信。


 優が応答すると、相手は一言だけ告げた。


「余計なことを話すな」


 そして電話は切れた。


 部屋には、不気味な電子音だけが静かに響いていた。







 部屋の中が静まり返った。


 切れた電話の画面を見つめたまま、優はゆっくりとスマートフォンを机に置く。


「……まただ」


 かすれた声だった。


 希望が尋ねる。


「また?」


「あの夜から何度も同じ電話がかかってくる」


「番号は毎回違う。でも内容は同じだ」


「『余計なことを話すな』」


 優は苦笑した。


「警察にも話そうと思った。でも証拠がなかった」




 宮田はすぐにメモを取り始める。


「電話会社に履歴を照会すれば何か分かるかもしれない」


「いや」


 優は首を振った。


「全部プリペイド端末だった」


「調べても足はつかなかった」


 宮田は悔しそうに唇を噛んだ。


「相当慎重な相手ね」


__


 希望は机の上に置かれた薬剤管理メモを見つめていた。


「優さん」


「香織さんは、このメモをどうするつもりだったんですか?」


 優は静かにページを閉じた。


「俺に預けた日のことを今でも覚えてる」




 三か月前__。


 病室の窓を雨が叩いていた。


 香織はベッドの上で苦しそうに呼吸をしながら、小さなノートを優へ差し出した。


「優」


「もし私に何かあったら……」


「これを信頼できる人に渡して」


「警察でもいい」


「でも絶対に病院へ返しちゃ駄目」


 優は笑って答えた。


「大げさだよ」


「そんなことあるわけない」


 しかし香織は真剣な表情だった。


「最近……夜になると誰かが病室へ来るの」


「誰か?」


「顔は見えない」


「でも」


 香織は震える声で続けた。


「私が寝たふりをすると、薬の棚を見てる」


「そして毎回」


 香織は小さく呟いた。


「『余計なことをするな』って聞こえるの」




 優は目を閉じた。


「あの時、本気で受け止めるべきだった」


「俺は全部、痛み止めの影響だと思ってしまった」


「幻覚かもしれないって」


 その声には、三か月分の後悔が滲んでいた。




 希望は胸が締めつけられた。


「香織さんは助けを求めていたんですね……」


「そうだ」


 優は静かに答えた。


「俺は気づけなかった」




 宮田が立ち上がる。


「でも、一つだけ分かった」


「犯人は香織さんが秘密を知ったことに気付いていた」


「だから口封じをした」


「そして山本も消された」


 優も頷く。


「さらに」


「今は俺たちも狙われている」




 その時だった。


 希望のスマートフォンが震えた。


 知らない番号。


 恐る恐る通話ボタンを押す。


「もしもし……」


 返事はない。


 聞こえるのは、ザーッという雑音だけ。


 数秒後。


 低い男の声が聞こえた。


「土屋希望さんですね」


 希望の背筋が凍る。


「あなたは……」


 男は淡々と話を続けた。


「村木香織のことは忘れなさい」


「もう終わった事件です」


「これ以上調べるなら」


 短い沈黙。


 そして、はっきりと言った。


「次は妹さんです」


 電話は一方的に切れた。


___


「彩乃……!」


 希望の顔から血の気が引く。


 優はすぐに立ち上がった。


「事業所へ連絡しろ!」


 希望は震える手で彩乃の通う就労継続支援B型事業所へ電話をかけた。


「お願いします……出て……」


 数回のコール音。


 ようやく職員が電話に出た。


「はい」


「土屋彩乃は無事ですか!」


 突然の質問に職員は戸惑いながら答えた。


「ええ、今日は元気に作業して帰宅されましたよ」


 希望はその場に座り込んだ。


「……よかった」




 だが、優の表情は変わらなかった。


「今日じゃない」


「相手は警告しただけだ」


「本当に危険なのはこれからだ」


 宮田も真剣な表情で言う。


「彩乃さんを守るためにも、私たちは早く黒幕へ辿り着かなきゃいけない」




 その日の帰り道。


 希望は病院の正面玄関を出た。


 雨はすっかり上がっていた。


 空を見上げると、厚い雲の切れ間から月が顔を出している。


 その時、玄関前に停まっていた黒い高級車が静かに走り去った。


 運転席には見覚えのある人物が座っていた。


「……院長?」


 高橋政則だった。


 だが、不思議なのはその隣だった。


 助手席には、警察の捜査を指揮している刑事が座っていたのである。


 二人は親しげに笑いながら何かを話していた。


 希望は思わず物陰へ身を隠した。


「どうして院長と刑事が……」


 嫌な予感が胸をよぎる。


 その様子を少し離れた場所から見ていた宮田が、小さく呟いた。


「希望ちゃん」


「この事件……」


「病院の中だけじゃ終わらないかもしれない」


 希望はゆっくりと頷いた。


 黒幕は病院の中にいる。


 そう思っていた。


 だが、その影は病院の外へも静かに伸び始めていた__。


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