白衣の仮面
夜の病院は、昼間とは別の顔を見せる。
廊下には人影が少なくなり、足音だけが白い壁に反響していた。ナースステーションではモニターの電子音が一定のリズムを刻み、窓の外では細かな雨が静かに降り続いている。
希望は、その音を聞きながらカルテを閉じた。
事件は終わっていなかった。
薬剤部長・山本和彦が亡くなり、村木香織の死との関連が疑われ始めた。しかし、新たに見えてきたのは、「山本は実行役に過ぎない」という事実だった。
誰かが山本を動かしていた。
そして、その誰かは今も病院の中にいる。
そんな確信だけが、希望の胸に重く沈んでいた。
「土屋さん」
振り向くと、宮田桃がコーヒーを二つ持って立っていた。
「少し休憩しよ」
希望は紙コップを受け取り、小さく礼を言う。
二人は人気のないラウンジへ移動した。
窓の向こうでは、街の明かりが雨に滲んでいる。
宮田はコーヒーを一口飲むと、小さなUSBメモリを机の上に置いた。
「これ、昨日お願いしてたデータ」
「警察に提出された事故報告書と、病院に残ってた電子カルテを照合してみた」
希望の表情が引き締まる。
「何かわかった?」
宮田は頷いた。
「改ざんされてる」
「しかも一か所じゃない」
二人はノートパソコンを開いた。
画面には村木香織のカルテが映し出される。
入院経過。
疼痛コントロール。
モルヒネ投与量。
急変時刻。
一見すると何の問題もない。
しかし宮田は一つの数字を指差した。
「ここ」
「午前二時十七分」
「モルヒネ追加投与」
「でも、この時間」
宮田は別の画面を開く。
「薬剤管理システムでは出庫記録がない」
希望は息をのんだ。
「そんなこと……」
「普通はありえない」
「そう」
宮田は静かに答えた。
「誰かが記録だけを書き換えた」
希望の脳裏に、あの夜の光景が蘇る。
鳴り響くアラーム。
香織の苦しそうな呼吸。
慌ただしく出入りする医療スタッフ。
そして――。
病室のドアが、一瞬だけ開いたような気がした記憶。
「……」
あれは錯覚ではなかったのだろうか。
希望は拳を握り締めた。
「やっぱり」
「香織さんは、ただ急変したんじゃない」
その時だった。
ラウンジの入口から低い声が聞こえた。
「二人とも」
振り向くと、優が立っていた。
以前よりさらにやつれた表情。
目の下には深い隈ができている。
「話がある」
三人は誰もいない会議室へ移動した。
優は周囲を確認すると、ドアに鍵をかけた。
その様子に希望は思わず尋ねる。
「そこまで警戒する必要があるの?」
優は静かに頷いた。
「ああ」
「病院の中に味方がいるとは限らない」
その一言で空気が凍りついた。
優はバッグから古びた封筒を取り出した。
「これは香織が亡くなる一週間前に俺へ預けたものだ」
希望は目を見開く。
「今までどうして……」
「話せなかった」
優は苦しそうに答えた。
「もしこれを持っていることが知られたら、次に狙われるのは俺だと思った」
宮田が封筒を開く。
中には数枚のコピー用紙。
薬剤搬出記録。
患者一覧。
そして、手書きのメモ。
そこには香織の文字でこう書かれていた。
『薬が合わないんじゃない。誰かが薬を変えている。』
希望の心臓が大きく脈打つ。
「香織さんは……気づいていた」
さらに紙をめくると、もう一枚のメモが現れた。
『白衣を着ているからって、みんな味方じゃない。』
会議室に沈黙が落ちる。
宮田がゆっくり呟いた。
「白衣の仮面……」
その言葉に、優は静かに頷いた。
「患者を救うはずの白衣が、人を欺く仮面になっていた」
その瞬間、会議室のドアノブがゆっくりと動いた。
三人は息を止める。
カチャ__。
誰かが外から開けようとしている。
優は小声で言った。
「誰にもここにいるとは話していない」
再びドアノブが回る。
そして、ドアの下の隙間から、一枚の白い封筒が静かに滑り込んできた。
足音はない。
廊下を確認しても、そこには誰の姿もなかった。
封筒には、赤い文字でたった一行だけ書かれていた。
『次に口を開く者は、生きて病院を出られない。』
希望は封筒を見つめながら、小さく息を呑んだ。
黒幕は、自分たちのすぐ近くにいる。
会議室に重苦しい沈黙が流れた。
希望は、床に落ちた白い封筒を見つめたまま動けなかった。
『次に口を開く者は、生きて病院を出られない。』
赤い文字は、まるで血で書かれたように見えた。
「……悪趣味ね」
最初に口を開いたのは宮田だった。
彼女は手袋を取り出し、封筒を慎重に持ち上げる。
「指紋を消したくない」
希望も我に返る。
「警察に提出した方が……」
「もちろん提出する」
宮田は頷いた。
「でも期待はしない方がいい」
「こういう人間は、証拠を残さない」
優は黙ったまま窓の外を見ていた。
その横顔には、どこか覚悟のようなものが滲んでいた。
その日の夜。
希望は夜勤に入っていた。
時計は午後十一時を回っている。
病棟は静かだった。
ナースコールも鳴らない。
患者たちも眠りにつき、廊下にはモニターの電子音だけが規則正しく響いていた。
記録を終えた希望は、一人で薬品庫へ向かった。
薬剤棚の鍵を開けようとした、その時だった。
視界の端で白衣が揺れた。
「……誰?」
振り返る。
誰もいない。
廊下の突き当たりには非常灯だけがぼんやり灯っていた。
気のせい。
そう思って鍵を差し込もうとした瞬間、
__カタン。
背後で何かが落ちる音がした。
希望は反射的に振り返る。
床には一本の注射器が転がっていた。
新品ではない。
誰かが落としたものだ。
しかし、この時間、この場所にいるはずの看護師はいない。
希望が拾い上げようとした時、
「触るな!」
低い声が廊下に響いた。
優だった。
彼は駆け寄ると、希望の手を制した。
「素手で触っちゃ駄目だ」
「証拠になる」
希望は息を呑む。
「証拠?」
優は注射器を見つめながら呟いた。
「また始まった……」
宮田もすぐに駆けつけた。
注射器を確認すると、表情が険しくなる。
「この規格……」
「普通の病棟じゃ使わない」
「緩和ケア病棟専用」
希望の鼓動が速くなる。
「香織さんが使っていた……」
宮田は静かに頷いた。
「そう」
「誰かがわざとここへ置いた」
「私たちへの警告よ」
翌日。
三人は病院近くの喫茶店で情報を整理していた。
優が静かに口を開く。
「俺は昨日、一つ思い出した」
希望と宮田が顔を上げる。
「あの夜」
「香織が急変する少し前」
「病室を出ていく白衣を見た」
希望の呼吸が止まる。
「誰だったの?」
優は首を振る。
「顔は見えなかった」
「帽子を深く被っていた」
「でも」
一拍置いて続ける。
「胸ポケットに銀色の万年筆を差していた」
宮田の目が鋭くなる。
「銀色の万年筆……」
「そんな人、この病院にいる?」
希望は首を振った。
「看護師では見たことがない」
優は小さく呟く。
「医師でもない」
「管理職でもない」
「もっと別の部署だ」
その時だった。
店のテレビからニュースが流れる。
『都内総合病院における医療安全体制について、厚生局が立ち入り調査を検討していることが分かりました。』
三人は顔を見合わせる。
宮田が静かに笑う。
「黒幕も焦ってる」
「だから脅してきた」
優は険しい表情のままだった。
「いや」
「もっと危険になる」
「追い詰められた人間は、証拠より先に人を消そうとする」
その言葉に希望は思わず彩乃の顔を思い浮かべた。
脅迫電話。
「次は妹さんです」という声。
胸が締め付けられる。
その日の夕方。
希望は仕事を終え、一人でアパートへ帰った。
ポストを開けると、一通の封筒が入っていた。
差出人はない。
中には写真が一枚。
彩乃だった。
B型事業所近くの公園で、車椅子に座って笑っている。
最近撮られたものだ。
裏返す。
そこには黒いマジックで書かれていた。
「真実を知れば、この笑顔は消える」
希望の手から写真が滑り落ちた。
その瞬間、スマートフォンが震える。
画面には彩乃の名前。
「もしもし!」
慌てて電話に出る。
『お姉ちゃん?』
いつもの穏やかな声だった。
「彩乃……!」
『どうしたの?』
「何でもない……」
希望は涙をこらえながら答えた。
「声が聞きたかっただけ」
『変なお姉ちゃん』
彩乃は小さく笑った。
『今度のお休み、一緒に公園へ行こう?』
その一言に、希望は静かに目を閉じた。
「うん」
「約束」
電話を切った後も、写真は足元に落ちたままだった。
希望はゆっくりと拾い上げる。
彩乃を守りたい。
その思いが、香織の真実を追う理由に新たな意味を与えた。
もはやこれは、過去の事件を暴くためだけではない。
大切な人を守るための闘いでもあった。
そして数日後__。
希望は、その約束を果たすため、彩乃が待つ公園へ向かうことになる。
そこで初めて、姉妹は二十年以上胸の奥に閉じ込めてきた本当の気持ちを打ち明け合うのだった。




