天使と悪魔
日曜日の午後。
数日ぶりに晴れた空の下、希望は彩乃が通う就労継続支援B型事業所の最寄り駅へ降り立った。
病院の冷たい空気とは違い、駅前には子どもたちの笑い声が響き、小さなパン屋から焼きたての香りが流れてくる。
それでも希望の胸は重かった。
バッグの奥には、あの写真が入っている。
「真実を知れば、この笑顔は消える」
黒い文字が頭から離れない。
それでも今日は、そのことを彩乃に話すつもりはなかった。
ただ、妹に会いたかった。
姉として。
家族として。
ずっと避け続けてしまった時間を取り戻したかった。
公園では、彩乃が車椅子に座って待っていた。
木漏れ日が肩に降り注ぎ、風が短い髪を優しく揺らしている。
希望に気付くと、彩乃は少し照れたように笑った。
「お姉ちゃん」
「彩乃」
希望も自然と笑みを浮かべる。
その笑顔を見るだけで、胸の奥が少し軽くなった。
「待った?」
「ううん」
「私も今来たところ」
どこか恋人同士の待ち合わせのような、ぎこちない会話だった。
姉妹なのに。
こんなふうに二人だけで過ごすのは、いつ以来だろう。
二人は公園内をゆっくり歩いた。
希望が車椅子を押し、彩乃は周囲の景色を楽しそうに眺めている。
「ここ、桜の季節はすごくきれいなんだよ」
「そうなんだ」
「利用者さんたちとお花見するの」
彩乃の穏やかな声を聞いていると、希望は胸が締め付けられた。
自分は何も知らなかった。
彩乃の日常も。
好きな場所も。
何を考えて生きてきたのかも。
全部、知らなかった。
噴水の近くのベンチで足を止める。
彩乃が空を見上げた。
「今日は雨じゃなくてよかった」
その一言に、希望は思わず笑う。
「香織さんのことを考えると、最近、雨ばっかり思い出しちゃう」
「病院でも、雨の日になると苦しくなる」
彩乃は静かに頷いた。
「お母さんも、雨の日はいつも機嫌悪かったね」
希望の笑顔が消える。
母。
その存在だけで、心のどこかが固くなる。
少しの沈黙。
彩乃が小さく息を吸った。
「お姉ちゃん」
「うん?」
「私ね」
「ずっと謝りたかった」
希望は驚いて彩乃を見た。
「謝る?」
「何を?」
彩乃は膝の上で指をぎゅっと握る。
「私のせいで」
「お姉ちゃん、いっぱい我慢したでしょ」
その言葉だけで、希望の胸が熱くなった。
「違うよ」
希望はすぐ首を振る。
「彩乃のせいじゃない」
「でも」
彩乃はゆっくり続けた。
「私、小さい頃から全部聞こえてた」
希望の呼吸が止まる。
「……聞こえてた?」
彩乃は小さく頷く。
「病院の個室」
「お母さんが、お姉ちゃんに言ったこと」
「全部」
希望の脳裏に、あの日の病室の記憶が蘇る。
白い壁。
点滴台。
消毒液の匂い。
泣き叫ぶ幼い自分。
そして__
「あんたなんて産まなきゃよかった」
「彩乃は私の天使なのに」
「あんたは悪魔」
あの日。
彩乃は眠っていると思っていた。
何も知らないと思っていた。
違った。
全部聞いていた。
「私ね」
彩乃は涙をこらえながら笑った。
「寝たふりしてた」
「だって」
「目を開けたら、お母さんもっと怒ると思ったから」
希望の視界が滲む。
そんなこと、考えたこともなかった。
彩乃もまた、幼い子どもだったのに。
「お姉ちゃん」
「私、一度も自分が天使なんて思ったことない」
その声は震えていた。
「むしろ……私が生まれたせいで、お姉ちゃんから、お母さんを奪っちゃったってずっと思ってた」
希望は何も言えなかった。
自分だけが傷ついていると思っていた。
自分だけが愛されなかったと思っていた。
でも違った。
彩乃もまた。
母の言葉に縛られながら生きてきたのだ。
希望はゆっくりと彩乃の前へ回り込み、しゃがみ込んだ。
目線を合わせる。
「彩乃」
「私はずっと」
「あなたがお母さんに愛されていて、幸せなんだと思ってた」
彩乃は静かに首を振る。
「違うよ」
「私は、お姉ちゃんが羨ましかった」
「え……?」
希望は思わず聞き返す。
「どうして?」
彩乃は少し笑った。
「だって、お姉ちゃん、歩けるし、学校にも行ける。友達もいる。看護師にもなれた。私がなりたかったもの、全部持ってたから」
その言葉に、希望は言葉を失う。
互いに相手を羨み、互いに相手は幸せだと思い込みながら、二人は二十年以上もの間、本当の気持ちを伝えられずにいたのだった。
公園には、子どもたちの笑い声が響いていた。
ブランコを押す父親。
ベンチで弁当を広げる家族。
そんな穏やかな風景とは対照的に、希望と彩乃の間には二十年以上積み重なった沈黙が横たわっていた。
彩乃は小さく笑った。
「変だよね。私、お姉ちゃんが羨ましかった。お姉ちゃんは私を羨ましいと思ってた」
「お互い、全然違うこと考えてた」
希望も苦笑した。
「本当だね」
「もっと早く話せばよかった」
その一言に、彩乃の目から涙がこぼれた。
「お姉ちゃん、私ね。ずっと怖かった」
希望は静かに耳を傾ける。
「お母さんが私を『天使』って呼ぶたびに。お姉ちゃんが悲しそうな顔するから。私、嬉しくなかった」
彩乃は膝の上で手を握りしめた。
「病院でね。先生も看護師さんも『頑張ったね』って褒めてくれる。でも、私は。何も頑張ってないの。病気だっただけ。なのに、お姉ちゃんは元気だからって、我慢ばっかりしてた」
希望は胸が締め付けられた。
自分は彩乃ばかり愛されていると思っていた。
けれど彩乃は、その愛情を重荷として背負っていたのだ。
「覚えてる?」
彩乃が小さく尋ねた。
「小学校の運動会」
希望は少し考えて頷いた。
「うん……」
忘れられるはずがない。
六年生最後の運動会。
徒競走で一位になった日だった。
観覧席を何度も見た。
母は来なかった。
父も来なかった。
祖父母だけが拍手をしてくれた。
夜になって帰宅すると、母は病院から戻ったばかりだった。
「彩乃の検査があったから」
それだけだった。
希望は賞状を見せることもできず、自分の部屋へ戻った。
彩乃が静かに言った。
「あの日ね。私、お母さんにお願いしたの」
『今日はお姉ちゃんの運動会だから行ってあげて』
希望は目を見開いた。
「え……?」
「でも、お母さん、
『彩乃の方が大事なの』
『希望は健康なんだから、一人でも大丈夫』って」
彩乃は少し俯いた。
「私」
「その言葉、一生忘れられない」
希望は何も言えなかった。
知らなかった。
そんな会話があったことも。
彩乃が自分のために母へ頼んでいたことも。
「それからね」
彩乃は苦笑した。
「私、お姉ちゃんに嫌われてると思ってた」
「どうして?」
「だって」
「お姉ちゃん、高校生くらいから私と全然話さなくなったでしょ」
希望は目を伏せる。
「ごめん」
「嫌いだったんじゃない」
「苦しかった。彩乃を見るたびに。お母さんに言われたこと思い出してた。だから逃げてた」
彩乃は静かに頷いた。
「やっぱりそうだったんだ」
「私ね。お姉ちゃんに避けられてると思って。ずっと悲しかった」
沈黙が流れる。
風が木々を揺らし、葉がさらさらと音を立てた。
希望はゆっくり口を開いた。
「彩乃」
「私、ずっと、自分が悪い子だから愛されないんだと思ってた。勉強も頑張った。看護師にもなった。患者さんにも優しくしようって……」
「いい子になれば、お母さんに認めてもらえると思って」
言葉が震える。
「でも……」
「何をしても『悪魔』って言葉だけは消えなかった。」
彩乃は涙を流しながら首を横に振った。
「違うよ。お姉ちゃんは悪魔なんかじゃない」
「ずっと……ずっと優しかった」
「……」
「私が入院してた時、お姉ちゃん、自分のお小遣いで折り紙買ってきてくれた。毎日、鶴を折ってくれた」
希望は驚いた。
「そんなこと……」
「覚えてない?」
彩乃は微笑んだ。
「私、全部覚えてる。眠れない夜。お姉ちゃんが病室で絵本読んでくれたこと。学校で描いた絵を持ってきてくれたこと。先生に怒られても、お見舞いに来てくれたこと」
「…」
「全部」
希望の涙が止まらなかった。
母の言葉ばかり覚えていて。
自分が妹にしてきたことを、何一つ覚えていなかった。
でも彩乃は違った。
ずっと覚えていてくれた。
ずっと、姉を好きでいてくれた。
彩乃はそっと希望の手を握った。
「お姉ちゃん、私はね。お母さんが言ったことより、お姉ちゃんがしてくれたことの方が、何倍も覚えてるよ」
その一言で、希望の心の中で何かが音を立てて崩れた。
二十年以上、自分を縛り続けてきた「悪魔」という言葉。
その呪いが、少しずつ解け始めていた。
しかし、その穏やかな時間は長くは続かなかった。
希望のスマートフォンが静かに震える。
画面には差出人不明のメッセージ。
そこに書かれていたのは、たった一行だった。
「家族まで巻き込むつもりか」
希望の表情が凍りつく。
その様子を見た彩乃は、不安そうに姉の顔を見つめた。
「お姉ちゃん……何かあったの?」
希望は画面を静かに閉じ、無理に笑顔を作った。
「ううん、大丈夫」
そう答えたものの、その胸には新たな恐怖が広がっていた。
黒幕は、自分だけではなく――彩乃の存在まで把握している。
真実に近づくほど、大切な人たちが危険にさらされる。
希望は初めて、「真実を追うこと」と「家族を守ること」の間で揺れ始めるのだった。
スマートフォンの画面は、すぐに暗くなった。
希望は深呼吸をし、震える指でポケットへしまう。
__家族まで巻き込むつもりか。
その一文が、胸の奥に重く沈んでいく。
「お姉ちゃん?」
彩乃が不安そうに見上げた。
希望は精一杯笑顔を作る。
「本当に何でもないよ。仕事の連絡」
彩乃は少しだけ首をかしげたが、それ以上は聞かなかった。
昔からそうだった。
彩乃は相手が話したくないことを、無理に聞こうとはしない。
その優しさが、今日は余計に胸に刺さった。
二人は公園の売店でアイスクリームを買い、木陰のベンチに腰掛けた。
しばらく他愛もない話をした。
事業所で育てている花のこと。
最近覚えた料理のこと。
テレビ番組のこと。
その時間だけは、事件も病院も忘れられた。
すると彩乃が、ぽつりと呟いた。
「ねえ、お姉ちゃん、看護師、辞めたいって思ったことある?」
希望は少し驚いた。
「……あるよ。何度も」
彩乃は静かに頷く。
「やっぱり」
「でも続けてる」
「どうして?」
希望は少し空を見上げた。
真っ青な空だった。
あれほど降り続いていた雨が嘘のように晴れている。
「患者さんに救われたからかな」
「え?」
「私は患者さんを助けてるつもりだった。でも、本当は違った」
「苦しい時に『ありがとう』って言ってもらえたり、『あなたが担当でよかった』って笑ってもらえたり」
「その言葉で、私の方が何度も救われてきた」
希望は少し笑った。
「だから、まだ辞められない」
彩乃は嬉しそうに微笑んだ。
「やっぱり、お姉ちゃんは看護師なんだね」
「私ね、事業所のみんなに自慢してるんだ。私のお姉ちゃん、看護師なんだよって」
希望は照れくさそうに笑う。
「そんな大した看護師じゃないよ」
彩乃は首を横に振った。
「違うよ。私は知ってる。お姉ちゃん、昔から困ってる人を見ると放っておけないもん」
その言葉に、祖母・清子の声が蘇る。
「希望、人はね。強い人が弱い人を支えるんじゃないの」
「苦しみを知っている人が、人に優しくなれるの」
祖母は、いつもそう言っていた。
母の言葉とは違う。
責めることも、比べることもなかった。
ただ、ありのままの希望を受け入れてくれた。
祖母が亡くなった日。
もっと会いに行けばよかったと、何度も後悔した。
香織を救えなかった後悔と同じように。
希望の人生は、いつも「もっとできたかもしれない」という後悔でできていた。
彩乃が突然笑った。
「でもね……私、お母さんの言葉、今なら少しだけ分かる気がする。」
希望は驚いて彩乃を見る。
「どういうこと?」
「もちろん、『悪魔』なんて絶対間違ってる。でも、お母さんも壊れてたんじゃないかな」
「毎日病院で、仕事もして。私の付き添いもして。きっと、誰にも助けてもらえなかった」
希望は何も言えなかった。
母を許したわけではない。
あの言葉は、一生消えない。
それでも。
母もまた、一人の人間だった。
弱さを抱えたまま、誰にも頼れなかったのかもしれない。
「お姉ちゃん」
彩乃が優しく笑う。
「私は、お母さんを許せなくてもいいと思う。……でも。お姉ちゃんには、自分だけは許してあげてほしい」
その一言で、希望の涙が溢れた。
今まで誰にも言われたことがなかった。
自分を許していい、と。
患者を救えなかった自分も。
妹を避け続けた自分も。
母を憎んだ自分も。
全部抱えたままで、生きていいのだと。
希望は彩乃の手を強く握った。
「彩乃ありがとう」
「ううん」
「私ね。ずっとあなたを遠ざけてた。でも、本当は、世界で一番、大切な妹だった。」
彩乃は涙を流しながら笑った。
「知ってる」
「えっ?」
「私も世界で一人だけのお姉ちゃんだもん」
二人はしばらく言葉もなく泣いた。
二十年以上積み重なった誤解が、少しずつ溶けていく。
母が作った「天使」と「悪魔」という歪んだ物語は、ようやく終わりを迎えようとしていた。
帰り際。
彩乃はバッグから一冊の小さなノートを取り出した。
「これ。お姉ちゃんに」
「何これ?」
「日記」
希望は目を丸くする。
「私ね、辛い時、ずっと書いてたの。もし、お姉ちゃんが苦しくなったら読んで」
「きっと役に立つと思う」
希望は大切そうに受け取った。
「ありがとう」
二人が別れたあと。
希望は駅のホームでノートを開いた。
最初のページには、幼い字でこう書かれていた。
『お姉ちゃんが笑ってくれると、私は嬉しい。』
ページをめくる。
『お姉ちゃんは悪魔なんかじゃない。世界で一番優しい人。』
さらにページをめくった、その時だった。
一枚の紙が挟まって落ちた。
それは写真だった。
二十年以上前。
病院の個室で撮られた家族写真。
幼い希望と彩乃。
母・美奈子。
父。
そして、その後ろに__
白衣姿の一人の男性が写っていた。
希望は息を呑む。
「……この人」
見覚えがある。
病院で何度も見かけた顔。
事件の関係者の中にいる人物だった。
なぜ二十年以上前から、自分の家族と繋がっているのか。
その時、スマートフォンが鳴る。
宮田からだった。
「希望ちゃん!」
受話器の向こうで宮田の声が震えている。
「大変!」
「さっき、例の封筒の指紋が出た!」
「しかも__」
一瞬、言葉が詰まる。
「指紋の持ち主は、もう十五年前に死亡している人物だった」
希望の背筋に冷たいものが走った。
事件は、香織の死から始まったのではない。
二十年以上前から続く、病院と自分の家族を結ぶ巨大な闇だったのだ。
希望は彩乃から受け取ったノートを強く抱きしめる。
もう逃げない。
「悪魔」と呼ばれた少女ではなく、一人の看護師として。
そして、一人の姉として。
すべての真実と向き合うために。




