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地下室のカルテ


 翌朝。


 希望はほとんど眠ることができなかった。


 彩乃から渡された日記帳は、何度読み返しても涙で文字が滲んだ。


 「お姉ちゃんは悪魔なんかじゃない」


 たった一行のその言葉が、二十年以上自分を縛り続けてきた呪いを少しずつほどいていく。


 しかし、それと同時に昨夜の宮田からの電話が頭を離れなかった。


「封筒から検出された指紋は、十五年前に死亡した人物のものだった」


 あり得ない。


 死人が脅迫状を書いたというのか。


 それとも__。


「誰かが、その人物の名前を利用している……?」


 希望は小さく呟いた。




 午前八時。


 病院のスタッフルーム。


 夜勤明けの看護師たちが疲れた表情で申し送りをしている。


 希望がロッカーを開けると、宮田が足早に近づいてきた。


「希望ちゃん」


「ちょっといい?」


 その表情はいつになく真剣だった。


 二人は人気のない休憩室へ移動した。


「昨日の件だけど」


 宮田は一枚のコピーを机に置く。


 それは警察から提供された簡易報告書だった。


 希望は目を通す。


 そこには指紋照合結果が記されていた。


照合一致 神崎 恒一かんざき・こういち


死亡年月日 十五年前


 希望は眉をひそめた。


「神崎……」


「誰?」


 宮田は静かに答えた。


「この病院の元診療放射線技師」


「十五年前、この病院で亡くなってる」




「事故死?」


 希望が尋ねると、宮田は首を横に振った。


「表向きはね」


「でも」


 彼女は声を潜めた。


「資料を調べたら、不自然なことが多かった」


 宮田はノートパソコンを開く。


 古い新聞記事が表示された。


『都内総合病院職員転落死 警察、自殺と判断』


「転落?」


「病院の地下搬入口」


「夜勤明けに転落したらしい」


 希望は記事を読み進める。


 事故として処理されている。


 家族のコメントもない。


 続報もない。


 まるで最初から存在しなかった事件のようだった。




「この人」


 宮田は画面を拡大した。


「死亡する一週間前」


「院内で医療事故を目撃したらしい」


 希望は息を呑む。


「それって……」


「証言する予定だった」


「でも、その前に亡くなった」


 部屋の空気が一気に重くなる。


 偶然とは思えなかった。




 その時、ドアがノックされた。


 優だった。


「入るぞ」


 宮田は資料をすぐ閉じる。


 優は二人を見ると静かに言った。


「神崎のことを調べてるんだな」


 希望は驚く。


「知ってるの?」


 優は少しだけ苦笑した。


「知ってる。俺が新人だった頃。神崎さんは病院でも有名な人だった」



「どんな人だったの?」


 希望が尋ねる。


「正義感が強かった。曲がったことが嫌いで。上司にも平気で意見する人だった。」


 優は遠くを見るような目をした。


「だから嫌われてた。特に管理職には」




「優さん」


 宮田が真っ直ぐ見つめる。


「あなた、本当は何を知ってるの?」


 優はしばらく黙っていた。


 やがて小さく息を吐く。


「全部は話せない。まだ……。でも一つだけ言える」


 彼はゆっくり希望を見る。


「香織が亡くなった夜、俺は神崎の名前を聞いた」


 希望の鼓動が速くなる。


「誰から?」


 優は答えない。


 代わりに言った。


「その人も……」


「もう、この病院にはいない」




 その日の午後。


 希望は薬剤部へ書類を届けに行く途中、地下へ続く非常階段の前で立ち止まった。


 地下。


 普段看護師が立ち入ることはほとんどない。


 薬品倉庫。


 カルテ保管室。


 古い医療機器置き場。


 病院の「裏側」が集まる場所。


 階段の脇には古びた案内板が立っていた。


地下資料保管室(許可者以外立入禁止)


 その文字を見た瞬間だった。


「希望ちゃん」


 宮田が小走りでやって来る。


「ちょうどよかった」


 彼女は周囲を確認すると、小声で言った。


「昨日、退職した事務員さんに会ってきた。その人が教えてくれた。十五年前のカルテ。全部廃棄されたことになってる」


「……ことになってる?」


「実際は違う」


 宮田の表情が険しくなる。


「地下に残ってる。誰にも知られていない保管庫があるらしい」




 希望は思わず地下へ続く階段を見つめた。


 地下資料保管室。


 十五年前のカルテ。


 神崎の死。


 香織の事件。


 すべてが一本の線で繋がろうとしていた。


 宮田は静かに言う。


「今夜。夜勤交代の時間。地下へ行こう。」


「十五年前のカルテを見つければ。黒幕の正体に、一歩近づける」


 希望はゆっくり頷いた。


「行こう」


「もう逃げない」


 二人は地下へ続く階段を見つめる。


 その先に待っているのが真実なのか、それとも新たな罠なのか。


 まだ誰も知らなかった。


 その頃__。


 病院最上階の院長室では、一人の男が監視カメラの映像を静かに見つめていた。



 画面には地下入口の前で立ち止まる希望と宮田の姿。


 男は受話器を取り、低い声で命じる。


「……地下へ入るようだ」


「計画を変更しろ」


「地下室には、絶対に入らせるな」








 午後十一時四十分。


 病棟は消灯時間を迎え、廊下には規則正しくモニターの電子音だけが響いていた。


 希望はナースステーションで電子カルテを閉じる。


「巡視、行ってきます」


 先輩看護師の佐々木遥が頷いた。


「気をつけてね」


 希望はペンライトで辺りを照らしながら病室を一つずつ回る。


 点滴を確認し、寝息を立てる患者の表情を見る。


 いつもと変わらない夜勤。


 そう見せかけながら、胸の奥では鼓動が速くなっていた。


 今夜、自分は病院の「裏側」へ足を踏み入れる。




 午前零時十分。


 夜勤の巡視が一段落すると、希望は人気のない非常階段へ向かった。


 そこにはすでに宮田が待っていた。


 私服の上から白衣を羽織り、肩には小さなリュックを掛けている。


「遅かったね」


「ごめんなさい」


 希望が息を整える。


「508号室の患者さんが眠れなくて」


 宮田は優しく微笑んだ。


「そういうところが希望ちゃんらしい」


 そう言いながら、小型の懐中電灯を取り出す。


「地下は照明が少ないらしい。これ、持って」




 二人は非常階段をゆっくり下り始めた。


 一階。


 地下へ続く鉄の扉。


 普段なら職員証をかざさなければ開かない。


 しかし今夜は、鍵が半開きになっていた。


「……おかしい」


 宮田が眉をひそめる。


「誰かが入った?」


 希望も頷く。


「それとも……」


「私たちを待ってる?」


 二人は顔を見合わせた。


 嫌な予感が胸をよぎる。




 ギィ……


 重い扉を押すと、冷たい空気が流れ込んできた。


 地下独特の湿った匂い。


 古い紙と消毒液が混ざったような臭い。


 蛍光灯は半分以上切れ、廊下は薄暗かった。


 壁には古びた案内板が並んでいる。


 薬品保管室


 旧手術器械室


 カルテ資料室


 そして、一番奥。


 旧記録保管庫




「ここだ」


 宮田が小声で言った。


 扉には南京錠が掛かっている。


「開かないね」


 希望が呟いた、その時だった。


「開くよ」


 二人は同時に振り返る。


 暗闇から現れたのは、優だった。


 白衣姿ではない。


 黒いパーカーにジーンズという私服姿だった。


「優さん!?」


「どうしてここに……」


 優は苦笑する。


「二人だけで来ると思ってた。危ないから追いかけてきた」




 優はポケットから一本の古びた鍵を取り出した。


「神崎さんにもらった鍵だ」


 希望は驚く。


「神崎さんは十五年前に亡くなったんじゃ……」


 優は静かに頷く。


「亡くなる前だ」


「俺が新人だった頃」


「神崎さんは言った」


 優は鍵穴に差し込みながら、その時の言葉を思い出すように呟いた。


「もし俺に何かあったら、この部屋だけは守ってくれ。その時は意味が分からなかった。でも今なら分かる」


 カチリ、と乾いた音が響いた。


 南京錠が外れる。




 扉を開けると、埃っぽい空気が流れ出た。


 棚一面に並ぶ古い紙カルテ。


 段ボール箱。


 フィルム。


 古い台帳。


 まるで時間が止まった部屋だった。


 希望は思わず息を呑む。


「全部……残ってる」


 宮田は棚のラベルを見ていく。


「十五年前」


「十六年前」


「十七年前……」


 どれも廃棄されたはずの資料だった。




「これ」


 希望が一冊のカルテを手に取る。


 患者氏名。


 村木 香織


 希望は目を見開いた。


「香織さん!?」


「そんな……」


 カルテには十五年前の日付が書かれている。


「でも」


「香織さんが入院したのは去年……」


 宮田が静かにカルテを開いた。


 そこには幼い少女の診療記録。


 患者名 村木香織 15歳


 乳がんではない。


 学校検診で見つかった別の疾患による入院記録だった。


「つまり」


 宮田が呟く。


「香織さんは十五年前にも、この病院に入院していた」




 ページをめくる。


 看護記録。


 検査結果。


 そして最後のページ。


 そこには赤字で大きく書かれていた。


「院長決裁により閲覧禁止」


 その下には、一枚の紙がホチキスで留められていた。


 優がゆっくり外す。


 そこに書かれていた名前を見て、三人の動きが止まる。


 担当医 高橋 政則


 現在の院長だった。




「院長……」


 希望が小さく呟く。


 香織は十五年前から院長と関わっていた。


 偶然ではない。


 しかし、その瞬間。


 部屋の照明が一斉に消えた。


 ガタン!


 背後で扉が激しく閉まる。


 希望が振り返る。


「閉じ込められた!」


 宮田がドアノブを回す。


 開かない。


 外から鍵が掛けられている。


 暗闇の中で、どこからともなく足音が聞こえた。


 コツ……


 コツ……


 コツ……


 誰かが。


 この部屋へ近づいて来る。


 そして、扉の向こうから低い男の声が響いた。


「……見つけてしまったか」


 三人は息を潜める。


 その声には聞き覚えがあった。


 だが、暗闇の中では誰なのか分からない。


 次の瞬間。


 ガチャリ、と鍵がゆっくり回る音が響いた——。








 ガチャリ――。


 鍵がゆっくりと回る音が、静まり返った保管庫に響いた。


 三人は息を殺した。


 扉がゆっくり開く。


 暗闇の向こうから現れたのは、一人の男だった。


 懐中電灯の光が顔を照らす。


「……佐野先生」


 希望が思わず声を漏らした。


 主治医・佐野陽子ではない。


 その後ろに立っていたのは、内科医長の佐野健一だった。五十代半ば。温厚で患者思いと評判の医師であり、希望も何度も夜勤を共にしたことがある。


 男は静かに言った。


「そのカルテを見つけたんだね」


「先生……どうしてここに?」


 希望の問いに、佐野は寂しそうに笑った。


「私も、ずっと探していたんだ」


 優は一歩前へ出る。


「先生も神崎さんから聞いていたんですね」


 佐野は静かに頷いた。


「ああ十五年前、神崎先生は私に言った」


『この病院は、いつか人を殺す』


 その言葉に、地下室の空気がさらに冷たくなった。




 佐野は棚の一番奥から、一冊の古いファイルを取り出した。


 表紙にはこう書かれている。


「特別個室病棟 事故報告書(極秘)」


 宮田が目を見開く。


「事故報告書……?」


「病院には存在しないはずの書類」


 佐野は苦く笑った。


「存在しないことにされたんだ」


 ページを開く。


 そこには十五年前から現在までの事故が記録されていた。


 転倒事故。


 投薬ミス。


 人工呼吸器の接続ミス。


 輸液ポンプの設定ミス。


 そして、その横には赤いスタンプが押されている。


『記録修正済み』


『報告不要』


『院長決裁』


 希望はページをめくる手が震えた。


「こんなの……」


「全部、隠されてたの?」


 佐野は小さく頷いた。


「病院の評判を守るため。その一言ですべてが消された」




 宮田は次のページを開く。


 そこには見覚えのある患者名があった。


村木香織


 事故内容の欄は空白。


 だが、その下に一文だけ書かれている。


「予定外の死亡。調査中」


 その文章には二重線が引かれ、


「急変による自然死」


と書き直されていた。


「……書き換えられてる」


 宮田が呟く。


 優も拳を握った。


「やっぱり」


「あの日、何かが起きていた」




 さらにページをめくる。


 最後の一枚だけ紙の色が違っていた。


 コピー用紙ではない。


 手書きだった。


 そこには震えた字でこう書かれている。


『モルヒネ残量が合わない。誰かが持ち出している。』


 希望は息を止めた。


「これ……」


 優が静かに続ける。


「神崎先生の筆跡だ」




「つまり」


 宮田が冷静に整理する。


「病院では以前から麻薬がなくなっていた」


「事故も隠蔽されていた」


「香織さんは、その事実を知ってしまった」


 佐野はゆっくり頷いた。


「だから消された」


 その言葉に、希望の背筋が凍る。


「……殺されたってことですか」


 佐野はすぐには答えなかった。


「まだ断定はできない。だが、自然死ではない」




 その時だった。


 優の携帯電話が震えた。


 画面を見るなり、顔色が変わる。


「まずい」


「どうしたの?」


「地下の警備システムが解除された」


「誰かが来る」




 その瞬間。


 廊下から複数の足音が聞こえてきた。


 カツ。


 カツ。


 カツ。


 一人ではない。


 三人。


 いや、四人。


 希望は懐中電灯を消した。


 保管庫は闇に包まれる。


 外から男たちの声が聞こえた。


「ここだ」


「誰か入ってる」


「カルテを回収しろ」


 宮田が小さく囁く。


「私たちのことが知られてる」




 優は部屋を見回した。


「こっち」


 棚の奥に細い通路がある。


「避難用通路?」


 佐野が頷いた。


「昔の増築前の通路だ」


「院長しか知らないと思っていた」


 三人は急いで奥へ進む。


 その瞬間。


 ドン!!


 保管庫の扉が蹴破られた。


「いたぞ!」


 怒鳴り声が響く。




 三人は暗い通路を必死に走った。


 後ろから足音が迫る。


 狭い通路。


 湿ったコンクリート。


 息が切れる。


 希望は転びそうになった。


「希望!」


 優が腕を掴む。


「まだ止まるな!」




 数分後。


 通路の先に非常口が見えた。


 優が扉を押し開ける。


 冷たい夜風が吹き込んだ。


 三人は病院裏の植え込みへ飛び出す。


 その瞬間。


 地下の非常口から誰かが姿を現した。


 街灯に照らされたその人物を見て、希望は息を呑む。


「……師長?」


 そこに立っていたのは、


 石川真由美だった。


 しかし石川は三人を見るなり安心したように息を吐いた。


「間に合った」


「早く乗って」


 後ろにはワゴン車が止まっている。




 車が走り出すと、石川はバックミラー越しに言った。


「あなたたち、もう病院には戻れない」


「どういうことですか」


 希望が尋ねる。


 石川は静かに答えた。


「今、病院では、あなたたち三人がカルテを盗んだことになっている。防犯カメラの映像も。もう改ざんされているはずよ」


 希望は言葉を失った。


「そんな……」


「私たちは何も盗んでない」


 宮田が拳を握る。


 石川は静かに前を見据えた。


「だから私は」


「あなたたちを守るために来た」




 しばらく沈黙が続いたあと、優がポケットから一枚の紙を取り出した。


 地下室で持ち出した資料だった。


 そこには事故報告書とは別に、小さなメモが挟まれていた。


 希望が受け取り、懐中電灯で照らす。


 そこには、たった一行だけ書かれていた。


「本当の記録は、院長室にはない」


 そして、その下には矢印とともに一つの場所が記されていた。


『旧小児病棟・308号室』


 希望は思わず顔を上げた。


「308号室……」


 それは香織が十五年前、入院していた病室だった。


 優は静かに言う。


「真実は、まだ終わっていない」


 車窓を激しい雨が叩く。


 希望はメモを握りしめた。


 香織の死。


 十五年前の隠蔽。


 地下室のカルテ。


 すべての謎は、ひとつの病室へと繋がっていた。


 308号室。


 そこで待つ真実が、この病院最大の秘密を暴こうとしていた。


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