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最後の証言


 翌朝、雨は上がっていた。


 しかし、希望の心には昨夜の地下室の冷たい空気がまだ残っていた。


 地下資料室で見つけたカルテ。


 十五年前の村木香織の入院記録。


 隠蔽された事故報告書。


 そして最後に残されていた一枚のメモ。


本当の記録は、院長室にはない。旧小児病棟・308号室。


 その言葉だけが頭の中で何度も繰り返される。




 石川師長が運転する車は、市街地を離れ、小高い丘の上へ向かっていた。


 窓の外には、蔦に覆われた古い建物が見えてくる。


「……ここ?」


 希望が呟く。


 石川は頷いた。


「あれが旧病棟。十年以上前に閉鎖された」


 現在は立ち入り禁止区域となり、解体計画も延期されたまま放置されている。


 優が静かに口を開いた。


「308号室は、この建物の三階だ」


 希望は驚いた。


「どうして知ってるの?」


 一瞬、優は答えをためらう。


「……俺は、あの部屋に行ったことがある」


 その表情には、今まで見せたことのない苦しみが浮かんでいた。




 三人は建物の中へ足を踏み入れた。


 廊下には埃が積もり、天井の蛍光灯はすべて外されている。


 足音だけが静かに響いた。


 壁には色あせた案内板が残っていた。


 301号室


 303号室


 306号室


 そして一番奥。


 錆びついたプレートには、


308


 とかすかに数字が残っていた。




 優は扉の前で立ち止まる。


 しばらくノブに手を伸ばせずにいた。


 希望はその横顔を見つめる。


「……優さん」


「何があったの?」


 長い沈黙のあと、優は小さく息を吐いた。


「十五年前」


「神崎先生は俺をここへ連れてきた」




 宮田が眉をひそめる。


「神崎先生?」


「地下室のカルテを書いた先生?」


 優は頷いた。


「あの日、神崎先生はこう言った」


『優、お前はまだ新人だから何も知らなくていい。だが、もし私に何かあったら、この病院の真実だけは忘れるな』


「俺は意味が分からなかった。でも、そのあと神崎先生は突然亡くなった」


 希望は思わず息を呑んだ。


「事故じゃ……」


「表向きはな」


 優は静かに答えた。


「でも俺は、事故とは思えなかった」




 扉を開ける。


 部屋の中には、古びたベッドが一台だけ残されていた。


 窓ガラスにはひびが入り、風がカーテンを揺らしている。


 静かな病室。


 まるで時間だけが止まっていた。


 希望はゆっくり部屋を見渡した。


「何も……ない」


 その時だった。


 宮田が壁際でしゃがみ込む。


「これ」


 床板の一枚だけ色が違う。


 優と一緒に持ち上げると、その下から金属製の小箱が現れた。


 錆びついていたが、鍵は掛かっていなかった。




 箱の中には、一冊のノートと古いICレコーダーが入っていた。


 ノートの表紙には、


神崎修一


 と書かれている。


「神崎先生の日誌……」


 希望は震える手でページをめくる。


 そこには病院で起きた出来事が、日付順に細かく記録されていた。


『事故は偶然ではない。』


『麻薬の在庫が合わない。』


『院長は調査を止めた。』


『証拠を残す。』


 宮田が息をのむ。


「全部……本当だった」




 優はICレコーダーの再生ボタンを押した。


 ザーッというノイズのあと、


 一人の男性の声が流れ始める。


「私は神崎修一です。この録音を聞いているということは、おそらく私はもう生きていません」


 希望の背筋に鳥肌が立つ。


 部屋の空気が一変した。


「この病院では、多くの事故が隠されています。しかし、それだけではありません」


 一瞬、録音が途切れる。


 そして神崎の声は、今まで以上に低くなった。


「私は、ある人物が患者を選んでいることを知りました」


 希望たちは顔を見合わせた。


「患者を……選ぶ?」


 宮田が小さく呟く。


 録音は続く。


「その人物は、病院の誰からも疑われません」


「白衣を着て、人を救う立場にいるからです」


 希望の鼓動が速くなる。


 まさか__。


 その瞬間、レコーダーから激しいノイズが流れた。


 ザーッ__。


 ザーッ__。


 そして、神崎が最後に発した名前だけが、かろうじて聞き取れた。


「犯人は__」


 ブツッ。


 録音は、そこで途切れた。


 部屋には、風が窓を叩く音だけが残っていた。



第十六章 影の個室病棟(後編)


 レコーダーが途切れた静寂の中、希望は何度も再生ボタンを押した。


 しかし、最後の数秒だけは何度聞いても激しいノイズにかき消され、犯人の名前だけが聞き取れない。


「ここだけ消されてる……」


 宮田が悔しそうに呟く。


 優はレコーダーを手に取り、静かに言った。


「違う」


「最初からここだけ録音されていない」


「神崎先生は、誰かに見つかったんだ」


 希望は神崎の日誌を握りしめた。


 最後のページには、たった一文だけ残されていた。


『真実は、人ではなく記録が証明してくれる。』




 三人は病院へ戻ることを決意した。


 すべてを終わらせるために。


 石川師長は静かに頷いた。


「もう逃げなくていい」


「今日で終わらせましょう」




 病院では朝のカンファレンスが始まろうとしていた。


 職員が次々とナースステーションへ集まる。


 院長、高橋政則。


 薬剤部長、山本和彦。


 看護部長。


 医師、看護師たち。


 誰もがいつも通りの顔をしていた。


 しかし、その空気を切り裂くように希望が歩み出る。


「院長先生」


 病棟中の視線が希望へ集まる。


「お話があります」




 高橋院長は穏やかな笑みを浮かべた。


「土屋さん、今は会議中ですよ」


 希望は一歩も引かなかった。


「地下資料室のカルテを見ました」


 その一言で院長の表情が止まる。


 薬剤部長・山本の顔色も変わった。


「十五年前から続いていた事故の隠蔽」


「改ざんされた事故報告書」


「消えた医療用麻薬」


「そして、村木香織さん」


 ナースステーションが静まり返る。




 宮田が一冊のファイルを机に置いた。


「これはコピーです」


「もう複数の場所に保管しています」


「消しても無駄ですよ」


 山本は思わず立ち上がる。


「勝手なことを……!」


「それは病院の機密資料だ!」


「機密ではありません」


 宮田は静かに言った。


「犯罪の証拠です」




 その時だった。


 一人の女性が病棟へ入ってきた。


 村木紗香だった。


 彼女は香織の日記を胸に抱えていた。


「院長先生、妹の日記を返してください」


 高橋は何も答えない。


 紗香はゆっくりページを開いた。


「最後の日、妹はこう書いています」


『優さんは悪くない。』


『私を怖がらせていた人は別にいる。』


『あの人は白衣を着て笑っている。』




 希望は優を見た。


 優はゆっくり前へ出た。


「俺は知っていました」


 病棟がざわつく。


「香織は亡くなる数日前、俺に全部話していました。だから俺は真実を知っていた。でも、証拠がなかった」


 希望は静かに尋ねる。


「どうして……今まで黙っていたの?」


 優は苦しそうに笑った。


「神崎先生が言ったんだ」


『証拠がない正義は、人を救えない。』


「だから待った。証拠が揃う日まで」




 その時、病棟の入口から数人の刑事が入ってきた。


「警視庁です」


「高橋政則さん」


「山本和彦さん」


「業務上過失致死、証拠隠滅、公文書改ざん等の容疑でお話を伺います」


 病棟が騒然となる。


 山本は崩れ落ちた。


 高橋は最後まで表情を変えなかった。


「医療は……理想だけでは守れない」


 そう言い残し、刑事に連れられていった。




 数か月後。


 病院は第三者委員会による調査を受け、多くの隠蔽が明らかになった。


 医療安全体制は一から見直され、多くの職員が証言した。


 神崎修一の名誉も回復された。


 村木香織の死亡診断は再調査され、病院の責任が正式に認められた。




 ある休日。


 希望は彩乃と公園を歩いていた。


 春の風が優しく吹いている。


「お姉ちゃん」


「雨、止んだね」


 彩乃が空を見上げて笑う。


 希望も同じ空を見上げた。


「あの日からずいぶん遠くまで来たね」


「うん」


 彩乃は微笑んだ。


「お姉ちゃん、もう悪魔なんかじゃないよ」


 希望は立ち止まった。


 幼い頃から胸に刺さっていた母の言葉。


 「産まなきゃよかった」


 「あなたは悪魔」


 その傷は消えない。


 きっと一生忘れることもない。


 それでも今なら分かる。


 あの言葉は、自分の価値を決めるものではなかった。




 後日、希望は香織の墓前を訪れた。


「村木さん。やっと真実を届けられました」


 風が静かに吹く。


 雨は降っていない。


「あなたを救うことはできませんでした。でも、あなたの死を無駄にはしません」


 希望は白い花を供え、深く頭を下げた。




 病院へ戻ると、新人看護師が緊張した表情で立っていた。


「土屋さん」


「患者さんが急変しました!」


 希望はすぐに走り出す。


「行きましょう!」


 その背中には、もう迷いはなかった。


 患者を救えるかどうかは、いつも自分一人で決まるものではない。


 それでも、自分にできることを最後まで諦めない。


 それが、あの日香織から教わったことだった。




 夜勤明け。


 病棟の窓から朝日が差し込む。


 かつて希望を苦しめた雨音は聞こえない。


 代わりに、病棟には患者たちの穏やかな笑い声が響いていた。


 希望は白衣の胸ポケットにペンライトをしまい、小さく微笑む。


「今日も、一人ひとりに寄り添おう」


 影は消えない。


 人の心にも、病院にも、誰にも見えない影は存在する。


 だからこそ、人は光を探し続ける。


 その光は、特別な誰かではなく、真実と向き合おうとする勇気の中にあるのだ。


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