第四十二話 奏と碧
「ああ碧、泣き止んでくれ、はい、これで鼻をかんで」
「前に見た覚えのある光景だなぁ」
碧が生まれた時から政宗との間にあった壁。
それが無くなり歩み寄れた親子から遠く距離を置いて、哲人は二人を見守る。
すると隣に来たのは、奏、これは珍しい事だった。
今はあの不器用な親子をそっとしてあげたい気持ちもあったのだろうが、親友の代替として自分を選ぶとはと、哲人は首を傾げた。
「って、精太たちはトイレに行ったのか。
雄二もまた遠くまで引っ張っていったな」
「……アンタ、すごいね」
「?、!?、???」
「動揺するにも大袈裟でしょ、当て付けのつもり?」
「……熱?」
「おでこ触ろうとするな!」
伸ばした手を叩かれて安心する。
ボケへのツッコミ、そしてこの邪険こそ奏の本領である。
などと哲人は失礼な思い込みを胸に、少女の次の言葉を待った。
嫌いな相手にわざわざ寄って来たのだから、言いたい事があるのだろう。
「……アタシ、あの人苦手だった」
「それは、政宗さんが現れてからの態度で分かったよ」
「家に遊びに行った日、どりみんがあの人への対応に困っていたから」
予想外の発言だった。
苦手な理由にしては具体性に欠けている。
我の強そうな奏には似つかわしくないと思える、主体性のない理由だ。
「アンタさ、アタシを狂犬の類だと思っているでしょ」
「何にでも噛み付くとは思っていないよ。
好き嫌いが激しいやつだとは思っているけど」
「正直ね。
そういうところは嫌じゃないな」
「前に聞いたよ」
「言った事ないでしょ、今の今までアンタ嫌いだったもん」
「正直者が好きって話!」
からかわれた意趣返しだったのだろう、その反応に奏は笑った。
しかしそれも束の間、真面目な顔で話し始める。
「……実際に犬だったんだよ。
教官の立場なら、アタシに家族が居ないのは知ってるでしょ」
「おう」
黄桜奏は戦争孤児である。
とはいえさして珍しいものではない、哲人もそうなのだから。
十五年戦争を経て、そうなった人間はこの国にごまんといる。
「どっかの廃墟で見つかった、身元不明の赤ん坊でさ。
児童養護施設の頃から手あたり次第に喧嘩売って、誰ともそりが合わなくて。
後見人も匙を投げてね。
十歳になったら向こうから市営団地の一室を用意してくれたよ」
「当時の精太が住んでた部屋の隣だったんだってな」
「おじさんおばさんも良くしてくれて、精太に寄り掛かったまま中学に上がって。
今でも覚えてる。
入学式の日に教室で、どりみんがアタシに話し掛けてきたの」
哲人が奏の担任から聞いているのは、現在、碧ととても仲が良いという話だ。
そして面倒見は良いが、以前は情緒が安定しない面もあったという事も。
「アタシさ、昔から嘘には敏感なのね。
もう貼り付けた笑顔が癪に障って、口開くより前に正拳突き叩き込んだの」
「どこに?」
「顔に決まってるでしょ」
「決まってるのかぁ」
言えよ担任。
女の子は砂糖菓子でできている、なんて思った事はないが。
これで強念奏者の奏なら、自称するのは犬より熊の方が相応しいかもしれない。
「鼻血だらだらで何が起きたのか分からないって顔してた。
そんで二発目仕掛けたらスウェーで躱されて、次の瞬間お腹蹴られたんだ。
後ろの壁までいって朝食全部吐いてから、顔を上げたら拳が目の前でさぁ」
「戦闘民族なん?」
「アタシもヤバいのに手を出したと思ったよ。
直感で殴り合いじゃ負けると思って、そっからは念波動で吹っ飛ばしまくった。
最終的に髪掴んで振り回すのがアタシの喧嘩殺法の必勝法だったんだけどね。
武道やってるのには通じないや、無言で寄って来るのが怖くて泣きまくりよ」
「その状況で攻略方法探すお前も肝が座ってるよ」
血塗れの顔で殴ってくる碧かぁ。
この二名、想像以上にバイオレンスな青春を送っていた。
正直俺と爺さんの昔話も実は大したことないのでは、という気分になってきた。
勿体ぶらずにさっさと明かしても、案外そんなもんかで流されそうだ。
「でもどりみんは最後まで泣かなかった。
結局お互い痛み分けで、同じくらい怪我してたのに。
見てた女子まで泣き出した阿鼻叫喚の教室で、どりみんだけが真顔だったの」
「友達をターミネーターみたいに言うじゃん」
「んで次の日には仲良くなれたんだけど、そんくらいの事があってようやくだったから」
「翌日魔王でも攻めて来て一緒に迎え撃ったんか?」
「何の話してんの?」
いや、省略された翌日の話だが。
凄惨な殴り合いから仲直り、友人になるって少年漫画じゃないんだから。
もっと強大な敵を前に仕方なく力を合わせたとか、そういう話ではないのか。
「だから、それくらいのコミュニケーションしないとアタシは人を信用できない、懐に入れられないって話をしてんの。
そうよ野良犬よ、怯えてんの。
我が強いんじゃなくて脆いから、過剰防衛でも守らないと生きていけない。
そりゃ今はそこまでやらないけれどさ。
精太の両親や沢ちゃん、大山さんみたいな本心から優しい人たちならこうはならなくても、それ以外には距離を置いてる、関わらないように」
奏は自分の弱さを明かす。
入学式から半年が過ぎ、碧という同性の友人のおかげで牙の仕舞い方は覚えたものの、それは他人への積極性を得たという意味ではないと。
ああ、つまりこれが最初の、主体性の無さに繋がるのか。
「政宗さんという初対面の大人を前に尻込みして。
とりあえず父親との関係に煮詰まっていた碧に話を合わせたんだな」
「……うん」
「会話の正答が分からんから、一応友人の気持ちに同調しておいた、と。
なんだ神妙な顔をして、聞いてみたらよくある話じゃんか」
なあなあで会話を埋めるのは別に珍しくない、大人になれば尚更だ。
情報の少ない他人の人間関係に、正誤の判断など下せる筈もない。
だから友人の困り顔を見て同調したとして。
君も大変だね、それは困った人だねぇと話を合わせて、何が悪いという話だ。
「でもアタシはっ、よく知らない人を悪し様に語っていた。
嘘が嫌いと言った口でぬけぬけと、一番嫌ってた人間になって……!」
前に碧を殴った理由が、今はそっくり自分を殴りつける理由になっているのか。
自己欺瞞に直面して、汚れを嫌う子どもの素直さが、奏を苛んでいた。
そうして彼女は親子の様子を眺める。
家族を得た友人への、それを成した男への、羨望を眼差しに乗せて。
「……だからアンタは、すごいよ。
どりみんが避けてるところを見たら、ちょっとは悪い人だと思っちゃうじゃん。
でも惑わされずに、自分の目であの人を判断していた。
二人の関係から目を逸らさずに、ちゃんと行き違いを正してあげた。
友達のアタシは――誤魔化して逃げたのにな」
「…………」
「どりみんに必要だったのはアタシじゃなかった。
それは今の、あの姿を見ればよく分かるよ」
「お馬鹿さんかな」
ばっさりと断じる。
奏は何も言わずに下を向いた。
至らなさを責められていると思ったのだろうか。
これには哲人も呆れた。
きっと精太がこれを聞かされても、同じ気持ちを抱くだろう。
「必要かどうかとか、どうでもいいわ、友達だろう」
「……慰めとか、気持ち悪い」
「慰めてると思われる方が嫌なんだが。
お前さあ、碧が同じことをお前に言い出したらどう思うよ」
損益とか見返りとか、友情に絡める要素ではない。
興味があるから、気に入ったから、好きだから。
友達の始まりなんてそんなもんだし、その続きだって同じだ。
友情の文字通りに、友人への情があれば事足りる。
「俺には見えるぜ。
必要じゃないなんてほざいた口に拳を突っ込むお前の姿がな」
「……卑怯じゃない。
そう言われたら、アタシには何も言えなくなる」
しかし流石は奏、これだけでは納得できないらしい。
哲人を睨む目には、今にも涙が滲みそうで、とても見ていられない。
「ここまでの俺の発言から、お前の貢献ぶりなんてわざわざ語りたくないんだが」
「貢献?」
「碧に何をあげられたのか。
そんなつまらない事で悩むお前に、しゃーない、外野が教えてやろう」
見ろ、と、顎で碧の方に再び視線を誘導する。
二人の視界には、ようやく泣き止んだ少女が、ぎこちなく笑っていた。
父との変わった距離にまだ慣れてない、努力する最中の笑みだった。
「……何が言いたいのか分かんないけど。
あの笑顔がそれだ、とか言い出さないでよ」
「それだけじゃあ足りないな」
「はぁ?」
「嬉しそうだよなぁ。
今、あそこでああしていることに、お前の関わりは関係ないと。
その考えがそもそも間違っているんだよ」
奏の前に回り込み、頬を左右に引っ張る。
生躰変に守られた皮膚は哲人の力も通さず、変化もささやかなものであったが。
「もう二ヶ月ほど前か。
俺と会う前の碧がどう過ごしていたのかを俺は知らない。
政宗さんもあの調子だった以上、付き人の深見陸奥さんなら詳しいだろう。
さて、お前はどうだ、学友なんだろう?」
奏はその手を払わない。
されるがままに何も喋らない。
そうされている間は、喋らないでいられるからと、状況に甘えて。
だが教官は許さない。
甘んじる教え子の神経を逆撫でする。
「知ってるか、あいつ小学校に通っていないんだと。
知ってるか。あいつにだって口にはできない悪感情があるんだと。
俺は教えて貰ったぞ。
お前は知っているのか友人A」
「……!」
「知らないのかよ可哀想にな」
それは紛れもなく挑発だった。
勝ち誇るような哲人の顔に、奏の激しさが火を吹いた。
そしてようやく手をどかす。
いつもの奏が帰ってきた。
「そんなこと、知ってるに決まってるでしょ」
「入学式での殴り合い、あいつは真顔だったと言ったな。
それからの半年間、あいつは真顔だったのか、貼り付けた笑顔だったのか?
俺が見てきた、お前の隣で笑ってたあいつは嘘だったのかよ、奏」
嘘を嫌う少女に、嘘だったのかと尋ねる。
友の笑顔に、その共に居た時間に、嘘をつくなと少女に迫る。
嘘を言えないのなら、吐き出す言葉は一つしかない。
「嘘じゃない……!」
「あれは全部お前に見せる為の、お前の為の笑顔だったろうが。
それは今のあいつの笑顔と違うのか、価値に差があるとでも言うのか?
断言するぞ、変わらない。
どっちも可愛い、碧の喜びが溢れ出た顔だ。
ならこの二ヶ月間、俺の前でもその笑顔をもたらしていたのは誰だ。
姿の見えない付き人が、耳元で駄洒落でも言っていたってのか」
「……っ」
もう結論は出ている。
結論しか出ていないから、それを言えず言葉に詰まった奏に、哲人は。
「精太だって知っている、教えてくれたぞ、碧にはお菓子をあげてやれと。
あいつの喜ぶ顔が好きで、奏はよく駄菓子を買ってあげているってな」
「――――分かった!
分かったからもう、アタシの負け!」
フロアに響き渡る声は、一杯一杯な友人の耳にも届く。
何事かとこちらを見る親子に、心配しないよう哲人は目配せをして。
膝を曲げると、顔を真っ赤にした少女の視線に合わせて語る。
「あいつとの半年間を嘘にしてやるなよ」
「うん……」
「話を合わせる同調だって、どれだけ碧の気を楽にしたか。
父親と上手くいってなかったのは本当なんだ。
そういう時に少しでも吐き出せる相手がいたなら、相槌にだって価値があるさ」
「そうかな」
「お前が今まで笑わせてきた分だけ、碧は経験を得てきたんだ。
見ろよ、さっきまでぎこちなかった笑顔が、今はもうよく見た笑顔だ」
遠くの親友の顔を見て、奏は小さく頷いた。
「今の碧は、碧が関わったみんなで出来上がっているんだから。
その点で俺もお前も、結構良い仕事したと思うぜ」
奏と碧。
半年間を友人として過ごしてきた二人は、もうお互いの人生を補い合っている。
一緒に居て楽しかった、それが答えで、全てなのだ。
掛け替えのない友との時間なんて、プレイスレスと決まっているだろうに。
だからここまで言い聞かせたのは、したくなかった貢献の話なのだが。
「アタシ、どりみんの友達ってだけで、あげられるものがあったんだね」
そう嬉しそうに語る少女を見れば、そんな道理もどうでもよくなる。
教え子たちに相当参っている己を自覚して、哲人はもう何も言えないのだった。




