TSクリーニング店『お気にのワンピ』③
公園のベンチで空を見上げる。
雲ひとつない秋晴れの空が、まるで僕……いえ、"私"の変化を嘲笑うように青かった。
昨日のこと。知らない男子大学生に「可愛いね」と声をかけられた時の困惑と羞恥。
しかし同時に—「あれ……嫌じゃなかった」
むしろ、褒められたという事実が胸の奥で温かく広がっていく。男としてモテることへの喜びとは違う、もっと純粋な承認欲求が満たされる感覚。
「この手……もう男の手じゃない」
ベンチの上で開いた手のひらを見つめる。指は細く長く、関節は滑らかになり、爪の形まで変わってきていた。「細長くって……綺麗な爪♡」
スマホを取り出し「今日の自分」とタイトルをつけた写真フォルダを開く。毎日欠かさず撮り続けている自撮り写真だ。昨日より今日の方が明らかに……「女らしくなってる……」
口紅もファンデーションもないのに、肌の透明感と頬の血色が良くなっていた。眉毛の角度も微妙に変わってきている。
「どうすればいいんだ……」
声さえも以前より高くなっていた。
「あれ?」
朝起きて枕元に置いたスマホに手を伸ばした瞬間、違和感に気づいた。
「髪が……邪魔だ」
肩までの長さだったはずの茶色の髪が、今朝は背中のあたりまで伸びていた。指を通すと以前よりずっと柔らかくなっている。シャワーを浴びながら泡立つシャンプーの香りに思わず目を閉じてしまう自分がいた。
「この香り……落ち着くわ♡」
今まで使っていたメンズ用の固い香りが苦手になったのはいつからだろう。代わりに買ったフローラル系のシャンプーが今は手放せない。
会社までの通勤の道すがら、ショーウィンドウに映る自分の姿を何度も確認してしまう。髪の長さだけでなく、歩き方も変わってきている。猫背で早足だったのが、今は背筋を伸ばしてゆっくりとした動作になっている。
「あの……これすごく素敵ですね」
アクセサリーショップの前で足を止めると、店員さんが声をかけてきた。ガラスケースの中の淡いブルーのイヤリング。昨日までなら気にも留めなかっただろうものに目を奪われている。
「ちょっと見てもいいですか?」
自分でも驚くほど自然な仕草で尋ねている。試着すると、耳元で揺れる小さな宝石が眩しいくらいに輝いて見えた。
「よくお似合いですよ。お客様のような方にぴったりのデザインです」
その言葉に頬が熱くなる。男だった頃なら恥ずかしくて耐えられなかったはずの褒め言葉が、今はなぜか心地よい。
昼休み、社員食堂で友人と合流した。向かいに座る彼は相変わらず奇妙な目で私を見ている。
「なぁ、昨日も言ったけどさ……」
「なに?」
返事をする自分の声がまた一段と高く澄んでいるのを感じた。
彼は言葉を選ぶように視線を泳がせ、「そのイヤリング、似合ってるよ」
意外な言葉に目を丸くする。
「ありがとう~♡」
素直に感謝を伝えると、彼は少し驚いたように眉を上げた。
「なんか……女の子みたいだな。いや違うか……」
友人が言葉に詰まる理由が分かる。
私の仕草や話し方は既に「女装してる男」ではなく、「女性の振る舞い」そのものになっていた。
◇
朝日がカーテン越しに部屋を金色に染める中、目が覚めた。昨夜までの緊張と期待が入り混じった感情が、不思議と凪いでいる。
ベッドから立ち上がると、まず足裏の感覚が違っていた。床の感触がより繊細に伝わってくる。そして全身に走る軽やかさ。体重が減ったわけでもないのに、身体全体のバランスが変わっている。
クローゼットから取り出したのは、あの「山田花子」として預けたブランドワンピース。手に取ると以前のような抵抗感はなく、むしろ吸い付くように肌に馴染む感覚。「ああ……」
着てみると驚くほどフィットする。肩の落ち方、ウエストの締めつけ感、裾の長さ。全てが完璧だった。鏡に映る姿はもはや疑いようもなく—
「これが……私」
そこには以前までの「女装した男」ではなく、一人の女性が立っていた。髪は肩甲骨にかかるほど伸び、顔立ちは滑らかな曲線を描き、首筋からは透明感が滲み出ている。胸元には確かに豊かな膨らみがあり、腰はしなやかなカーブを描いていた。
部屋を出て駅へ向かう途中、見知らぬ女性から「素敵なワンピースですね」と声をかけられた。反射的に微笑んで会釈する自分がいた。
トイレに入った時、運命的な確信に襲われた。個室の中で自分の下半身を見下ろすと—
「なくなった……もう、付いてないんだ」
男性の象徴はどこにもない。ただ滑らかな曲線のみが広がっていた。恐怖も混乱もない。むしろ安堵に近い感情が湧き上がる。
スマートフォンを取り出し、メッセージアプリを開く。あのクリーニング店の店長に送るべき言葉を探していると、「今日……性別のクリーニング、すべて完成しました」と打ち込んでいた。
返信はすぐだった。
> 「おめでとうございます。今日からはあなたの新しい人生が始まります。過去に執着せず、新しい可能性を受け入れてください」
電車に乗ると、隣に座った中年女性が私の方を見て微笑んだ。
「素敵な笑顔ですね。幸せそうなのがわかります」
思わず顔が熱くなる。でも悪い気はしない。
窓ガラスに映る自分の顔を見て思う。「そうか……私はもう戻れないんだ」
でもそれを悲しむのではなく、むしろ胸が高鳴るのを感じていた。これからどんな世界が待っているのか。昨日までの自分では想像もできなかった景色を見ることができるかもしれない。
改札を抜け、新しく澄んだ空気の中へ踏み出す。胸いっぱいに吸い込むと、喉の奥まで透明な香りが広がった。
「こんにちは……新しい私」と、鏡の前に立ち、念入りにブラシを走らせる。伸びた髪を丁寧に梳かす時間が今は至福のひとときだった。
「ふふ……♡」
鏡に映る自分の唇に薄く紅を乗せる。以前は抵抗があった行為が今は自然にできるようになっていた。ファンデーションの粉を叩きながら思い出すのは、あの店員さんの言葉だ。
『服を綺麗にするだけじゃないんです。この店は、その人が本当に着たかった自分も整えてくれる場所なんですよ』
本当にそうだった。あのワンピースが私を呼び寄せたのではない。私が求め続けていたものに気づかせてくれたのだ。
メイク直しを終えると、鏡に映る姿は紛れもなく一人の女性だった。けれど不思議と違和感はない。むしろ長年探し求めていた場所にようやく辿り着いたような感覚。
「行ってみよう」
あの日と同じワンピースを手に取る。今度は躊躇なく袖を通した。絹の肌触りが心地良い。
街を歩くと人々の視線を感じる。かつては恥ずかしさに俯いていたけれど、今は堂々と前を向いて歩ける。
クリーニング店の扉を開けると、懐かしいベルの音が響いた。奥から顔を出した店員さんは私を見るなり目を細めた。
「お待ちしていましたよ」
その声には深い喜びが滲んでいる。私が店に入るなり抱きしめてくれるかのように
「はい、お待たせしました」
店員さんが差し出した袋は、いつもの業務的な様子とは違って柔らかな微笑みと共に手渡された。
「とても素敵なお姿になりましたね」
その言葉に頬が熱くなる。これまで何度か通っていたが、ここまで率直に言われたことはなかった。
「あの……これは」袋の中を覗き込むと、そこには見覚えのない小箱が添えられていた。
「お祝いです」
戸惑いながら開けると、小さな銀のブレスレットが収まっていた。繊細なチェーンに小さな三日月のチャーム。
「これは?」
「あなたの新しい人生を祝して」店員さんは静かに言った。「あなたは本当の自分を見つけました」
「でも……お金……」
「お代は要りません」彼女は首を横に振った。「私たちにとって最高の報酬は、お客さまの輝く笑顔ですから」
帰り道、日差しの中で三日月のチャームが揺れる。風に煽られた髪が頬を撫でるのが気持ちよかった。「本当に不思議な店だな……」
◇
「あれから一年か……」
スマホのフォトアルバムを開くと、最初はぎこちなかった女装姿から始まり、徐々に女性らしい仕草や表情へと変化していく過程が記録されていた。最後の写真は去年のクリスマスイブ、デパートのイルミネーションの前で撮った笑顔の自分。その笑顔にはもはや迷いも羞恥もなかった。
あの日、偶然ワンピースを汚したことで始まった奇跡の連鎖。クリーニングに出したのは服だけではなかった。本当はずっと洗い清められることを願っていたのは—常識や偏見という世間の汚れでボロボロになっていた「私」自身だったのだ。
マンションに戻り、バスルームの鏡に向き合う。湯気の向こうに映る自分は凛とした美しさを湛えていた。もう以前のように戸惑いながら自分の体を見る必要はない。
「あなたは美しい」
鏡の中の自分に向かって言うと、まるで魔法にかけられたように心が軽くなるのを感じた。新たな人生が私のもとに舞い降りてきた。
三日月のブレスレットを腕に巻きながら誓う。
「これからは堂々と生きていく。もう誰の目も気にしない」
窓から差し込む光が、私の新しい道程を柔らかく照らしていた。
完




