TSクリーニング 外伝
漂白される男性としての性別と、洗い立ての性への変貌。
今や都市伝説となったTSクリーニング店の噂を聞いたある男子学生は、
自分の性別をクリーニングしてしまう。
都市伝説の類を真に受けるほど、子供ではないつもりだった。
だが、大学の講義室の片隅で回ってきたその噂は、妙に生々しい尾ひれを伴って二十歳の野村航平の頭から離れなくなった。
『駅裏の古びたクリーニング店——あそこに女物の衣類を出すと、“中身”まで女になって返ってくる』
野村は自室のクローゼットの奥深く、教科書の束に隠すように押し込まれていた紙袋を引き寄せた。ガサリと無機質な音が部屋に響く。
中から取り出したのは、通販サイトのタイムセールで、半ば衝動的に購入してしまった一着のミニスカートだった。
落ち着いたネイビーのプリーツスカート。
届いた日の夜、鍵を締め切った部屋で恐る恐る足を通したときの、あの感覚。太ももを撫でる心もとない風と、生地の滑らかな肌触り。鏡に映った己の男くさい脚に強烈な自我の崩壊を覚えつつも、胸の奥がじんわりと熱くなるような、異常な背徳感。
二、三度着て、どうしても自分で洗う勇気が持てず、そのまま放置されていた代物だ。
(……バカバカしい。都市伝説を確かめるためだ。捨てに行くようなものだろ)
自分にそう言い訳を口の中で呟く。だが、紙袋を握りしめる指先はほんのりと汗ばみ、小さく震えていた。
薄暗い夕暮れ時、街灯がぽつぽつと灯り始める時刻を見計らって、野村は部屋を出た。
駅裏の路地は、昼間でも陽が差し込まない湿った空気が漂っている。コンクリートの壁に挟まれた狭い道を奥へ進むと、薄汚れ半ばネオンの消えかけた看板が見えてきた。
『白鳥クリーニング店』
カラカラと乾いた音を立てる引き戸を押し開けると、蒸気と合成洗剤の匂い、そしてどこか埃っぽい独特の熱気が鼻腔をくすぐった。
「いらっしゃい」
奥から現れたのは、普通のおばさん、眼鏡をかけた、中年女性だった。
店主の視線が、野村の差し出した紙袋と、その中から覗くネイビーのプリーツ生地へと落ちる。
「これ……クリーニング、お願いします」
緊張した声で告げると、店主は深く追求する風でもなく、ただ薄く口元を歪めて「かしこまりました」と短く応じた。伝票にサラサラとペンを走らせる音が、野村の耳にやけに大きく響く。
「お預かりしますね。……仕上がりを、どうぞお楽しみに」
受領票を受け取った野村の手のひらに、謎の緊張による不快な汗が滲んでいた。
店を出た瞬間、背後でガラガラと引き戸が閉まる。
この時の野村はまだ知らなかった。
数日後、あの店から受け取ったスカートに再び足を通した瞬間、自身の骨格が、肌の質感が、そして世界の視界の高さが、不可逆の変貌を遂げてしまうことを。
◇
『本日仕上がり』と刻まれた控えの紙を握りしめ、野村は再び『白鳥クリーニング店』の前に立っていた。
西日が路地の隙間に赤黒い影を落としている。引き戸を開けると、あの蒸気と合成洗剤の独特な匂いが鼻を突いた。
「はい、お待ちしていましたよ」
店主は一切の感情を読ませない無機質な手つきで、カウンターの下から薄いビニールカバーで覆われた衣類を取り出した。
渡されたのは、間違いなく野村が持ち込んだネイビーのプリーツスカートだった。だが、何かが違う。
手に取った瞬間、違和感が走った。
ずっしりとした布の重みが消えている。まるで羽毛か空気でも包んでいるかのように異様なほど軽やかで、カバー越しでもわかるほどシワひとつなく、洗練された新品以上の光沢を放っていた。
「……あの、いくらですか」
「前払いでいただいておりますよ。……どうぞ、ご自宅で『ご着用』ください」
店主の眼鏡の奥の目が、すっと細められた気がした。野村は逃げるように店を後にし、足早に自室へと戻った。
◇
自室のドアを施錠し、深呼吸を一つ。
ビニールカバーを破るように剥がすと、部屋の中にふわりと、甘く清涼な、まるで花蜜と石鹸を混ぜ合わせたような透明感のある香りが広がった。
「なんなのだよ、この香り……好き♡」
触れた生地は、信じられないほど滑らかだった。
半ばヤケクソだった。都市伝説のバカバカしさを証明して、この気味の悪い高揚感に決着をつける。そのために、野村は履いていたジーンズを脱ぎ捨て、男性下着の上からそのスカートに足を通した。
ウエストのファスナーを上げる。
カチリ、と小さな金属音が響いた——その瞬間だった。
(……え?)
スカートのウエストが、キュッと収縮した。
締め付けられたのではない。野村の腰まわりそのものが、服のサイズに合わせてキュッと内側へ縮んだのだ。
「う、わぁぁぁぁぁ!?」
立ちくらみのような激しい浮遊感が全身を襲う。
視界がぐにゃりと歪み、思わず膝をつきそうになる。だが、倒れ込む前に、身体の内側から劇的な変化が押し寄せてきた。
足元から、熱いような、冷たいような感覚が駆け上がってくる。
男特有のゴツゴツとした膝の関節が、角を削られたように丸みを帯びていく。太もも同士が擦れ合う感触が変わる。引き締まっていた筋肉が柔らかく解け、滑らかな曲線を描いて脂肪へと置き換わっていく。
「な、なんだこれ……息がくるちぃ……!」
喉を鳴らそうとして、野村は絶句した。
胸の奥が圧迫される。肋骨のフレームが一回り小さくなり、逆に胸元にズキズキとした心地よい痛みが走る。皮下脂肪が集まり、ふくらみとなって柔らかな重みを生み出していく。
ゴツゴツしていた手首は華奢に細まり、指先は繊細に伸びる。
全身の毛穴という毛穴から、男としての痕跡がキレイに洗われていくような感覚。まるで、心身の余分な汚れ、いわば男性性というやつをまるごと漂白。まさに『クリーニング』されているかのように。
最後に、喉仏が溶けるように引っ込んだ。
「あ……がっ、うがうがっ、うそ……だろ……」
ピンク色に染まった唇からもれた声は、野村航平のものではなかった。
澄んだ、小鳥のような高い音、あまりにも可憐な少女の音色。
ふんふんと荒い息を吐きながら、野村は恐る恐る姿見の前に行く。
そこに映っていたのは——
ネイビーのプリーツスカートを完璧に着こなした、息をのむほど華奢で愛らしい、一人の美少女の姿だった。
短かったはずの髪は柔らかく肩を過ぎるまで伸び、男くさかった輪郭は完璧な卵型へと変貌を遂げている。
「な……なに、これ……おんな、女の子だよなー。誰、オレ……?」
自分の手で、ふくらんだ胸を触る。柔らかな感触がダイレクトに脳を揺さぶる。
「ひゃー、萌え~~。揉み放題ってか。にひゃー」
スカートの裾から伸びる脚は、自分で買ったあの時の何倍も細く、白い。
男としての記憶や思考はそのままなのに、身体が完全に洗練された女性として上書きされてしまっていた。
その時、デスクの上に放り出されていたスマートフォンが、ブブッと振動した。
画面に表示されたのは、大学の友人・高橋からのメッセージだった。
『野村、今日のノート送ってくれ頼む!』
「ひっ……!」
喉から出た可憐な悲鳴とともに、野村航平は自分が取り返しのつかない、洗いたての日常に叩き落とされたことを理解した。
◇
「ハッ……ハッ、落ち着け! 服だ、服を脱げば戻るはずだ!」
激しく上下する胸を押さえながら、野村は震える手でスカートのファスナーに指をかけた。
ジーッ、と軽い金属音が静寂な部屋に響く。
拍子抜けするほどあっさりとファスナーは下がり、ネイビーのプリーツスカートはサラリと床へ滑り落ちた。
「あ……脱げた。なんだ、普通に脱げるじゃん……っ」
安堵の溜息がもれた。
都市伝説なんてあるわけがない。一瞬クラクラして妙な錯覚を見ただけだ。そう自分に言い聞かせ、野村は自分の手元に視線を落とした。「やっ、やばいんじゃね?」
床に落ちたスカートの先にある自分の脚は、相変わらず白く、驚くほど華奢なままだった。
「……え?」
慌てて自分の体を抱きしめる。
手のひらに伝わるのは、ゴツゴツした男の肋骨ではなく、柔らかくふくよかな乳房の感触。
腹筋の浮き出ていたお腹はへこみ、滑らかな曲線を描いている。
下着の上から股間に手を伸ばす野村。
そこにあるはずの男としての象徴は、跡形もなく消え去っていた。
「なんで……!? 服は、服は脱いだだろ!?」
床に転がるスカートを拾い上げ、狂ったように引っ張ってみる。ただのポリエステル混紡の布地だ。怪しい光を放っているわけでも、魔法陣が浮かび上がっているわけでもない。
服は、ただのきっかけに過ぎなかったのだ。
あのクリーニング店で洗われ、漂白されたのは、服に付着していた野村航平の男性性そのもの。一度洗い流されてしまった痕跡は、服を脱いだ程度で戻ってくるものではなかった。
身体の奥から冷たい汗が噴き出す。
全身の毛穴が収縮するような恐ろしさに打ち震えていると、その時、パーンと1階の玄関から重いドアの閉まる音が響いた。
『ただいまー。航平、いるのー?』
「ひぃぃぃ!?」
母親の声だ。パートから戻ってきたのだ。
続いて、カチャリと階段を上ってくる靴下の足音が近づいてくる。
(やばい、やばいやばいやばい!!)
今の自分は、上は自分のだぼだぼなTシャツ、下は下着一枚の美少女だ。しかも髪は肩まで伸び、声も完全に女の子のそれになっている。
こんな姿を母親に見られたらどうなる?
「息子が部屋で女装していた」どころの騒ぎではない。「見知らぬ美少女が息子の部屋に侵入している」として警察を呼ばれるか、あるいは狂人扱いされるかだ。
『航平? 晩ごはんのお肉買ってきたけど……ちょっと、部屋に入っていい?』
ドアノブが、ガチャリと音を立てて回りはじめた。
「待ててぇぇぇぇぇ!」
咄嗟に声を張ろうとして、出たのは小鳥のような可憐な高音。野村は慌てて両手で口を塞ぎ、絶望に目を剥いた。
逃げ場はない。
足音が、すぐドアの向こうまで迫っていた。
◇
「ちょっと、公平? 開けるわよー」
「きゃ、きゃゃゃゃ!?」
ガチャリとドアノブが下がる。絶体絶命。
野村は反射的に床に落ちていたネイビーのプリーツスカートを拾い上げ、バッと足を通した。
(脱いでも戻らないなら、履いて誤魔化すしかない!!)
ウエストのファスナーを強引に上げ、Tシャツの裾を整えた瞬間、ドアがスパーンと開け放たれた。
「ちょっと航平、返事くらいしなさいよ。お昼の食器も下げてないし……って、あら?」
スーパーのポリ袋を両手に下げた母親が、部屋の中で凍りついていた。
そこにいたのは、愛しの息子……ではなく。
大きすぎる男物のTシャツにネイビーのミニスカートを合わせ、細い足を丸出しにした、息をのむほど可憐な見知らぬ美少女。
野村は背中に冷や汗をダラダラと流しながら、可憐な声で必死に叫んだ。
「あ、あの! はじめまして、お母様! 私、公平くんの大学の友達で……っ! 航平くんはちょっとコンビニに炭酸買いに行っていて、留守番を頼まれていて——」
完璧だ、と一瞬思った。
声は完璧に可愛い女子大生だし、シチュエーションとしても「息子の部屋に遊びに来た彼女(仮)」で押し切れるはずだった。
だが。
母親はポリ袋をパサリと床に落とすと、じーーーっと野村の顔を凝視した。
その瞳には、長年わが子を育て上げてきた母親特有の、恐ろしいほどの洞察力と執念が宿っている。
つかつかと足音を立てて近づいてくる母親。野村は思わず後ずさりし、壁に背中をぶつけた。
「……ちょっと、あんた」
「は、はいっ!?」
母親は野村航平の顔の横に両手を突き、完璧な壁ドンを決めた。
至近距離でジロジロと、つむじからつま先まで観察される。甘い石鹸の匂い、華奢な肩のライン、そして華奢に縮んだ骨格。
逃げ場のないプレッシャーに野村の心臓がバクバクと暴れる。
(バレたか!? 狂人だと思われるか、警察に通報されるか……っ!)
覚悟を決めて目をギュッと瞑った野村に、母親の雷が落ちた。
「アンタ……勝手に女の子になってんじゃないわよ!!」
「……え?」
野村は間抜けな声をもらして目を開けた。
「え、じゃないわよ! なに勝手に可愛くなってんの!? 髪もツヤツヤにしちゃって! お母さんがどれだけ美肌に課金してるか知ってるの!? なんでアンタが先にそんな卵肌になってんのよ!」
「ええっ!? そこ!?」
混乱する野村の肩を、母親はガシガシと揺さぶる。
「だいたいねぇ! 航平の面影はそのままだから一目で分かるわよ! 自分の生んだ子の顔を見間違えるわけないでしょうが! どんな手を使ったのか知らないけど、親に一言もなく性別変えるなんてどういう神経してんの!?」
「いや、違うの! 俺だってなりたくてなったわけじゃなくて! クリーニング屋にスカート出したら勝手にこうなっちゃって——」
「言い訳しない! 女の子になるなら『明日から娘になります』って事前に申請しなさい! 晩ごはんのお肉だって、男の子用のメガ盛りパック買っちゃったじゃないの! どうすんのよこれ!」
「知らんよ! 理由が肉の量かよ!?」
可憐な美少女の姿のまま、身振り手振りを交えて男口調で怒鳴り返す野村。
母親はハァハァと息を荒らしながら腕を組み、仁王立ちで『娘』となった元・息子を睨みつけた。
「はぁ……もういいわ。怒っても元の男臭いアンタに戻るわけじゃないし。……っていうか、アンタ」
母親の視線が、野村の履いているミニスカートと、ダボダボのTシャツへと注がれた。
「なにそのダサい格好。せっかく可愛い顔になったのに、男物のTシャツ着て台無しじゃない。着替えさせるわよ、来なさい!」
「へ!? ちょ、お袋、どこ引っ張って——うわああっ!?」
細い手首をガシッと握られ、野村は抵抗する間もなく部屋の外へと引きずり出された。
「男としての矜持」を叫ぶ余裕すら与えられないまま、野村航平の、あまりにも理不尽でコミカルな女の子生活が強制スタートしたのだった。
◇
「いいこと? 女の子になったからには、うちの家訓として『妥協した服で街を歩くこと』は許されません!」
「家訓なんて初耳だし、街どころかここ家の中なんだけど!?」
野村航平の抵抗は、台風の前の木の葉のように虚しく吹き飛ばされた。
強引に座らせられたドレッサーの前。鏡に映る自分の顔は、相変わらず整いすぎた美少女のそれだ。
母親はクローゼットから「いつか着ようと思って買っておいたけど、若すぎて諦めた」という秘蔵の服を次々と引っ張り出してきた。
「はい、まずはこれ! インナーは……まあサイズ的に私のキャミソールでぴったりね。ほら、腕通して!」
「待っ……自分で着る! 自分で着るから脱がさないで!」
男の矜持を全力で主張しながらも、抗えない力で次々と着せ替えられていく。
肌触りの良いシルクのキャミソールの上に重ねられたのは、柔らかなアイボリーのフリルブラウス。そして、先ほど自分で履いていたネイビーのプリーツスカートを合わせ、ウエストに細い革ベルトを巻く。
「……うん、完璧! 自分の遺伝子を自画自賛したくなるわね!」
「うぅ……」
鏡の中の姿を見て、野村は思わず絶句した。
そこには、まるでファッション誌のグラビアから抜け出してきたかのような、可憐で上品な女子大生が立っていた。大きすぎる男物Tシャツを着ていた時とは比べものにならないほど、女子としての魅力が引き出されてしまっている。
(くそっ……悔しいけど、めちゃくちゃ似合ってる……)
男心としては恥ずかしさで爆発しそうなのに、頭のどこかで「可愛い~♡」と思ってしまう自分がいる。そのジレンマに悶絶していると、母親がニヤニヤしながらスキンケア用品とメイク道具のポーチを広げた。
「さぁ、仕上げよ。女の子の肌は保湿が命なんだから」
「えっ、メイクまで……っ!?」
顔にパシャパシャと吹き付けられる化粧水。柑橘系の爽やかな香りが鼻腔をくすぐり、ひんやりとした水分が角質層にしみ込んでいく。続いて、手際よく施される薄化粧。まつ毛をビューラーで軽く持ち上げられ、唇にほんのりとピンクのリップグロスが塗られる。
柑橘と甘い花蜜の匂いが混ざり合い、全身を包み込む。
「はい、完成! 見てごらんなさい」
言われて姿見を凝視する。
鏡の中の美少女が、唇はうるうると瑞々しい光を放ち、少し頬を赤らめた少女が、上目遣いでこちらを見つめていた。
「あ……」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
男だった頃の自分では絶対に味わえなかった「綺麗に飾られる喜び」という未知の感覚。自分の体が、世界で一番大切に扱われているような心地よい錯覚。
(なんだこれ……。気持ちいい……)
男としてのプライドが、甘やかな快感とともにじわじわと漂白されていく。
「よし! 今夜の晩ごはんは特別に、女の子祝勝会としてケーキ買ってくるわね! それと、下着も男物じゃ合わないでしょ。買ってくるから、ちゃんとブラも付けるのよ。航平……じゃなくて、今日からなんて呼ぼうかしら?」
「航平のままでいいよ! ……というか、祝勝会ってなんだよ」
「まぁまぁ。アンタはそこで大人しく、女の子の自分を堪能してなさい!」
母親はルンルン気分で部屋を出て行き、再び静寂が戻った。
一人残された野村は、ベッドの上にそっと腰を下ろした。
スカートの裾がふわリと広がり、太ももに柔らかい生地が触れる。指先で唇のグロスに触れてみると、ペタリとした甘い感触が残った。
パシャリ、とスマホで自撮りをしてみる。
画面に写ったのは、どこからどう見ても、守ってあげたくなるような可愛い女の子だ。
「……はは、マジで女の子になっちゃったんだな、俺」
自嘲気味につぶやいた声すら、甘く響いて愛らしい。
明日からは大学だ。どうやって講義を受けるのか、友人たちにどう言い訳するのか、問題は山積みで頭が痛い。だが——
野村はベッドにバタリと仰向けに倒れ込み、胸の前で自分の細い手をギュッと握りしめた。
ほのかに香るスキンケアの甘い匂いと、体にフィットした可愛い服の感触。
男としての焦りの裏側で、野村の心はほんの少しだけ、これから始まる女の子としての日常に、甘く甘美なときめきを覚えていたのだった。
◇
翌朝。
目覚まし時計の無機質なアラーム音で目を覚ました野村は、天井を見上げたまま数秒間、フリーズした。
胸の上に感じる、心地よいはずの重み。
肌に擦れるシーツの感触が、昨日までの男の体とはまるで違う。
「……夢じゃ、ない」
口からもれた声は、小鳥がさえずるような可憐な高音だ。
ガバッと起き上がり、姿見の前に走る。そこに映っているのは、ボサボサの寝起き姿すら守ってあげたくなるような、可憐な美少女だった。
現実だ。俺は、女の子になってしまったのだ。
「航平! 朝ごはんよ! あと大学に行く準備しなさい!」
階下から母親の呑気な声が響く。野村は頭を抱えた。
(どうすんだよ……!? 休むか? いや、今日の二限は出席に厳しい鬼の講義だ。単位を落としたら留年が確定する……!)
男物のジーンズを引っ張り出し、履こうとして絶句した。
ウエストもヒップもサイズがまるで合わない。ダボダボどころか、ベルトを一番きつく締めても歩くたびにずり落ちてしまう。骨格そのものが一回り小さくなってしまったのだから当然だった。
絶望しながらリビングへ下りると、そこにはすでに作戦会議の準備を整えた母親が仁王立ちしていた。
「いいかい、公平。アンタがそのまま『野村航平です』って大学に行ったら、即座に都市伝説か怪奇現象として通報されるわ」
「うぐっ……そ、それはそうだけど……」
「だから、こうするのよ」
母親がバシッとテーブルに叩きつけたのは、メモ用紙と……昨日着せ替えられたものとはまた違う、清楚なサックスブルーのワンピースだった。
「『野村航平は急な高熱で欠席。ノートを借りるためにやってきた、従姉妹のあかねちゃん』。これでいきなさい」
「あかねちゃん!?? なにその安直な偽名! 無理に決まってんだろ、大学の友達にバレるって!」
「大丈夫よ。男なんてね、可愛い女の子を前にしたら頭のIQが3くらいまで下がるんだから。それに、今のアンタを『男の野村航平』だと思う人間なんて、世界中で私くらいのものよ」
説得力があるのかないのか分からない母親の論理。だが、他に手がないのも事実だった。
◇
結局、母親の手によって完璧な「女子大生・あかね(仮)」へとセットアップされた野村は、朝の眩しい太陽の下へ押し出された。
サックスブルーのワンピースの裾が、朝風にふわりと揺れる。
足元は小さめなミュール。一歩踏み出すたびに、カツン、カツンと澄んだ音がアスファルトに響いた。
(やばい……なにこれ、めちゃくちゃ視線を感じる……!)
駅へ向かう道すがら、すれ違うサラリーマンや高校生たちが、露骨に野村の顔二度見し、通り過ぎた後も振り返っているのが気配で分かる。男だった頃には一度たりとも経験したことのない、全身をなめ回されるような視線の熱量。
自分もかつては好みの女性にそうしていたことを思いだし、ゾッとする野村。
肌が粟立つような恥ずかしさと、背筋をゾクゾクと駆け上がる謎の緊張感。
「ひっ……」
後ろから歩いてきた男と視線が合いそうになり、野村は思わず俯いて、ワンピースの裾をギュッと握りしめた。
ついに到着したキャンパスの正門。
講義室へと続く並木道には、見慣れた大学の友人たちがグループで雑談している姿が見えた。
「おい見ろよ、あの子……めちゃくちゃ可愛くないか?」
「え、誰? ウチの大学にあんな子いたっけ……?」
ザワつき始める周囲の空気。
男としての意志を胸に宿したまま、野村航平は、人生で最も過酷で、最も甘美な女子大生としての登校という第一歩を踏み出した。
◇
「あ、航平のやつ……マジで今日講義休みなの? 珍しいじゃん」
人波が蠢く講義室の通路で、見慣れた顔を見つけた。
野村の親友であり、大学で一番一緒に過ごす時間の長い悪友——高橋だ。大雑把でノリが良く、普段なら「よっ、高橋」と肩をバシバシ叩き合う間柄である。
だが、今の野村はサックスブルーのワンピースに身を包んだ「従姉妹のあかね(仮)」だ。
(落ち着け……! 母親の言う通り、あかねとして押し通すんだ……!)
コホン、と小さく咳払いをして、野村は高橋へ歩み寄った。ミュールが床を鳴らすたび、視界の高さがいつもよりずっと低いことに目眩を覚える。
「あの……高橋くん、かな?」
可愛らしい小さくて高い声。高橋が「ん?」と振り返った。
次の瞬間、高橋の目が、漫画のように丸くなった。
「え……♡♡」
「あっ、私は航平くんの従姉妹の……あかねって言います。航平くん、今朝から高熱が出ちゃって……ノートを借りてきてほしいって頼まれて……♡」
完璧な演技だ、と野村は心の中でガッツポーズをした。
だが、目の前で静止した高橋の様子がおかしい。高橋の視線は、野村の顔、華奢な首元、そしてワンピース越しにもわかる細い腰回りへと、あからさまに泳いでいた。
(うわ、こいつ……やばっ! 男の俺には絶対見せない『女を見る目』してやがる!)
男としての記憶があるからこそ、高橋の瞳の奥に浮かんだ下心と動揺が透けて見える。親友から向けられる性的な視線に、背筋をゾワゾワと鳥肌が駆け上がった。鳥肌が立つほどゾッとするのに、なぜか顔が熱くなる。
「あ、あかね……さん? え、公平の従姉妹って……!? マジで!?」
高橋の声が一オクターブ跳ね上がった。
「う、うん。だから、今日の講義のノート、見せてもらえたら助かるんだけど……」
「任せろ!! 俺の隣、空いてるから! ほら、荷物どかすから座って!!」
普段のズボラな高橋からは考えられないほどの手際の良さで、高橋は最前列近くの席を確保し、椅子を引いて野村を座るように促した。
(ゲンキンな奴だな本当に……!)
苦笑しながら席に腰を下ろす。サックスブルーの裾を丁寧に整えて座ると、ふわリと自分から漂う柑橘と花の甘い香りが、隣の高橋の鼻腔をくすぐったらしい。高橋が露骨に息をのむ気配が伝わってきた。
「へ、へえ……航平の奴、こんな可愛い従姉妹がいるなんて一言も言ってなかったのに……」
「そ、そうかな? 航平くんとは昔から仲良しで……兄妹みたいな」
「あ、あのさ!」
高橋が突然、身を乗り出してきた。
距離が、あまりにも近い。
普段なら気にも留めない男友達の距離感。しかし、今の野村にとって、高橋の体格は圧倒的に巨大で、男くさい脅威だった。太い腕、広い肩幅、そしてかすかに漂うメンズトワレの匂い。
「きゃっ……!?」
思わず体を縮こまらせると、高橋の顔が目と鼻の先まで迫っていた。
「あ、ごめん! 驚かせた!?」
「ううん、大丈夫……」
上目遣いで高橋を見上げてしまう格好になった。高橋の喉仏がゴクリと大きく動く。
その時だ。
高橋の手が、野村の肩にそっと触れた。
「あかねちゃんさ、髪に……消しゴムのクズ付いてるよ」
「え……あ」
指先が耳元をかすめ、柔らかな髪の毛をサラリと撫で上げる。
ほんの少し指が肌に触れた瞬間、野村の背中を、電気のような衝撃が駆け抜けた。
(ひぁっ……!?)
声になりかけの悲鳴が喉で止まる。
ゾワゾワとする恐怖や抵抗感の奥底で——心臓がドクン! と激しく脈打った。
男としての思考は「こいつ何どさくさに紛れて触ってんだ!」と怒り狂っているのに、女性化した華奢な身体は、男に優しく触れられたことに反応し、胸の奥を甘くキュンと締め付けられてしまったのだ。
頬が火照り、体温が一気に跳ね上がるのがわかる。
「と、取れたよ。あかねちゃん……顔、赤くない? 熱でもある?」
「な、なんでもない! なんでもないからっ……!」
高橋の手を払いのけることもできず、野村は小さくなった肩を震わせ、教科書で赤くなった顔を覆い隠した。
男心でのプライドと、女体としての本能的なときめき。
相反するふたつの感情に挟まれながら、野村航平の講義室での過酷で甘美な90分間が、ついに始まろうとしていた。
◇
「高橋、お前それ誰だよ!? ズルいぞ一人で隠し持って!」
講義室の扉が開き、同じゼミの男友達ふたりがドカドカと押し寄せてきた。
「君が航平の従姉妹のあかねちゃんなの~♡」
「いや俺が学食案内する」
従妹のあかねちゃんこと、女になった野村航平を巡って男たちが勝手に鼻息を荒くし、謎の牽制合いを始める。
(うわ、うぜぇ……! 男の集団ってこんなに暑苦しいのかよ……!)
逃げ場のない視線と熱気。ついに限界を迎えた野村は、高橋の手首を強引に掴むと、可憐な悲鳴のような声で叫んだ。
「高橋くん、ちょっと来て……っ!」
「えっ、あ、あかねちゃん!?」
驚く友人たちを置き去りにし、野村は高橋を引きずるようにして、講義室裏の静かな踊り場へと駆け込んだ。
コンクリートのひんやりとした空気が、火照った顔を冷やしてくれる。
荒い息を吐きながら、野村は胸元をギュッと握りしめた。これ以上、悪友たちに「女」として扱われるのは限界だった。
「……あかねちゃん? どうしたの、そんな顔して——」
「俺だ!!」
野村は意を決して、高橋の目を真っ直ぐに見つめて叫んだ。
「俺だよ! 野村航平だ!!」
踊り場に、可愛らしい少女の声が虚しく響く。
「……は?」
「だから! 俺が野村航平なんだよ! 急に体調崩したんじゃない! 駅裏の『白鳥クリーニング店』に女物のスカートを出したら、服と一緒に『俺の性別』まで洗われて女になっちゃったんだよ!!」
ヤケクソで一気に捲し立てた。
これで呆れられるか、気味が悪いと怯えられるか。
どちらにせよ、これで、女としての扱いからは解放されるはずだった。
だが。
高橋は固まったまま、じーーーっと野村の顔を見つめていた。
その瞳の奥に宿っていたのは、恐怖でも嫌悪でもなく、どこか底知れない、男としての歪んだ狂熱だった。
「……航平、なのか?」
「そうだよ! だから触るな、俺は男だ——」
「最高じゃん」
「……え?」
高橋が、スッと一歩踏み込んできた。
野村の背中が、逃げ場なく壁にぶつかる。高橋の両手が壁につき、完璧な壁ドンの形が完成した。
「お前が航平だろうがなんだろうが、関係ないよ。……だって今の君、めちゃくちゃ可愛いし、胸だって柔らかいし、良い匂いすんだもん」
「ひっ……!? お前、正気か!? 俺だぞ! 航平だぞ!?」
「いいよ、航平で。……俺と付き合おうぜ」
「嫌に決まってんだろ変態!!」
間一髪、野村は高橋の脇をすり抜け、猛ダッシュで距離を取った。
心臓が口から飛び出そうなほどの恐怖と、一瞬キュンとしてしまった自分への自己嫌悪で、全身が激しく震える。
「冗談じゃない! 俺は男に戻る方法を探すんだからな!」
怒鳴り散らす野村を見て、高橋はフラれたというのに、どこか夢見るようなうっとりとした目で自分の手を撫でていた。そして、ぽつりと呟いた。
「……なぁ、あかねちゃん、じゃなく、航平」
「な、なんだよ!」
「その……『白鳥クリーニング店』って、どこにあるんだ?」
「……は?」
高橋はゆっくりと顔を上げ、怪しく口元を歪めた。
「俺も……女物の服を買って、そこにクリーニング出してみようかなって」
「……!?」野村は絶句した。
高橋の瞳には、冗談などではない、怪しい好奇心と背徳の光が爛々と輝いていた。
「そしたらさ……俺も女の子になって、二人で『女子会』できるじゃん?」
「やめろ!! 絶対に行くな、人生を間違えるなよ!!」
悲鳴を残し、野村は逃げるようにその場を走り去った。
サックスブルーのワンピースの裾が、初夏の風になびく。
カツン、カツンと響くヒールの音を聞きながら、野村は背中に嫌な汗が吹き出すのを止められなかった。
あの怪しいクリーニング店。
洗剤と蒸気の匂いに満ちたあの店に、もしも高橋が足を運んでしまったら——。
次に大学で会う高橋は、いったいどんな洗いたての姿で現れるのだろうか。
男としての矜持を抱えたまま、可憐な少女として歩き出した野村航平の日常は、まだまだ元に戻りそうに甘く、そして恐ろしい予感に満ちていた。
もしかしたらあなたの街のクリーニング店にも……?
完




