第百七十五話「アジョラの最後の遺産」
氷原大陸との境、凍った湖の底。ニーナは防寒具に身を包み、ガランと共に氷の階段を降りていた。ニイナから受け取った鍵が、凍りついた扉を開いた。
「母上が、こんな場所に」
ニーナの声が白い息と共に漏れる。地下施設は予想以上に広大だった。法石の明かりが自動的に灯り、長い廊下を照らし出す。
最深部の研究室。扉を開けた瞬間、二人は息を呑んだ。
壁一面に広がる設計図。それは、見たこともない巨大な構造物だった。球形の居住区、生命維持装置。そして中央には『月面基地建設計画』の文字。
「これは...」
ガランが絶句している横で、ニーナは母の机に向かった。そこには、古い手帳が置かれていた。
最初のページを開く。アジョラ九世の筆跡だった。
『空はもう飽和した』
短い一文。だが、その意味は重い。
次のページ。
『星に、本当は国境はない』
ニーナは震える手でページをめくった。母の思考が、時系列で記されている。
『帝国も、東の国も、全ての争いは地上という狭い箱の中での諍い。もし人類が星の海に出られたら、領土を巡る戦争は意味を失う』
「母さん...」
ガランは、防寒具を着込んでちょっと震えながらいろいろな資料を眺めていたり模型を眺めている。
「おいおい、こりゃあどういう船だ? なんかすごそうだな…」
ガランは船の船長だ、一応の飛空艇のことについては一通りわかっている。模型やいろいろな推進力の小さな部品を検討した痕跡を見て、ニーナの母親の思惑を少しずつ理解していた。
「おい、こりゃあぶっ飛んでるぜ…塩化爆弾を制御して推進力にするってアイディアか…科学誌でそんな話は聞いたことあったが…気合の入れ方が違うぞこりゃあ…」
ニーナは読み進める。
『私は老いた。この計画を実現する時間はもうない。だが、技術は残す。いつか、誰かがこれを見つけ、人類を次の段階へ導いてくれることを願って』
机の引き出しを開けると、さらに詳細な資料が出てきた。
新型飛空艇の設計図。ただし、これまでのものとは根本的に違う。大気圏を突破できる推進システム。宇宙空間での生命維持装置。
「信じられない」
ガランが設計図を見ながら呟いた。
「これが実現したら、本当に月に行ける」
「まじで? お前の母親、どうかしてるな!」
ニーナは別の資料を手に取った。『星海連盟構想』と題されている。
『地球という惑星に縛られた国家の概念を超えて、宇宙に広がる人類の新たな共同体。国境も、民族も、全てを超越した組織』
母の壮大な夢。それは、現在の帝国という枠組みすら超えている。
「でも、なぜこれを隠していたの」
ニーナの疑問に答えるように、最後のメモが見つかった。
『この技術を今の人類に渡すのは危険。宇宙を戦場にするだけ。まず、地上での争いを最小限にしなければ。そのためには、強力な指導者と、統一された意思が必要』
ニーナは理解した。母は、この技術を使える日が来るのを待っていた。そして今、塩化爆弾の脅威を乗り越え、議会制度も導入された。タイミングは整った。
「ガラン」
「ん?」
「これは秘密」
ニーナは真剣な表情で言った。
「議会にも、四大家にも」
「なんでだよ?」
「わかんない人ね、横やり入れられて御破算なんてごめんよ」
「確かに、めんどくさそうなのが多いからな」
ニーナは資料を慎重に集め始めた。
「だから、私が密かに進める。研究機関を作って、信頼できる者だけでね!」
帝都に戻ったニーナは、即座に行動を開始した。
「セラフィナ、極秘研究機関を正式に発足させる」
「え、えっと、わかりましたけど、いったい何のです?」
「表向きは、アンデッド対策と新型飛空艇の開発」
「どういうことです?」
「人類を、星の海へ」
「はい?」
研究機関には、厳選された科学者たちが集められた。東の国からも、融和派の優秀な技術者を招いた。民族を超えた協力体制。
「諸君」
ニーナは集まった研究者たちに語りかけた。
「我々の目標は、人類の新たな一歩」
彼女は月面基地の設計図を見せた。驚きの声が上がる。
「不可能だ」
「いや、理論的には可能だとわかりますが…」
「予算が」
「予算は私が何とかするわ!」
「議会には内密に。これは帝国を超えた、人類全体のプロジェクト」
研究者たちの目が輝き始めた。科学者にとって、これほど魅力的な挑戦はない。
その夜、ニーナは執務室で母の手帳を読み返していた。
娘への手紙や個人的なメッセージは一切なかった。当然だ。母は自分が死んだと思っていた。十六年前の襲撃で、ニーナ・クロウは死んだことになっていたのだから。
「母さん...」
ニーナは呟いた。
「あなたの夢、私が叶えます」
窓の外では、星が輝いていた。あの星々の間を、人類が自由に行き来する日。それは、もう夢物語ではない。
扉が開き、ガランが姿を現した。
彼は部屋の中を見回し、窓辺に立つニイナの背中を見つけると、大股で近づいていった。
「なあ、本当に月に行けるのかよ?」
半信半疑の声だった。予知夢で見た月面の砦、あの光景が現実になるとは、まだ信じきれていない。
ニイナが振り返った。その唇に、悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
「もう私は行ってきたわよ」
「まじで!?」
ガランは思わず素っ頓狂な声を上げた。初代女帝は、いつも彼の想像の斜め上を行く。
「前に岬で言ったじゃないの」
ニイナは窓の外に広がる夜空を見上げた。煌々と輝く月が、二人を見下ろしている。
「月に行きたいって。だから行ってきたの。あそこに私たちの別荘も建てちゃいましょう!」
「すげぇな……!」
ガランは呆れたように、しかし心からの賞賛を込めて笑った。
「女帝様はやることが違うぜ!」
「当然よ」
ニイナは誇らしげに胸を張った。そして、ふわりとガランの胸に飛び込んできた。
彼女の金髪が、ガランの顎をくすぐる。甘い花の香りが鼻腔をくすぐった。ニイナは腕の中で顔を上げ、まるで少女のように無邪気な笑みを浮かべている。
「この地上のしきたりなんて、ちっぽけよ」
彼女の碧い瞳が、遠い記憶を映すように潤んだ。
「私は見たの。上から見れば——あの月から見下ろせば——みんなの悩み事なんて、本当にちっぽけなものだった」
その声は、どこか夢見るような響きを帯びていた。
「国境も、身分も、因縁も。全部がただの線に見えた。みんな、もっと自由に生きていいんだって……やっと分かったの」
ニイナはそっと自分の腹部に手を当てた。
その仕草に、ガランの眉がぴくりと動く。
「この子は、もっともっと自由に生きるのよ」
ニイナの声が、柔らかな慈しみに満ちていく。
「私たちが限界だと思っていたもの、越えられないと諦めていた壁——この子は、そんなもの全部、軽々と飛び越えていくの」
「え……」
ガランの視線が、ニイナの顔と、彼女の手が添えられた腹部を何度も往復した。
「お、おい……まさか……」
言葉が続かない。口をぱくぱくと動かすガランを、ニイナは太陽のような満面の笑みで見つめ返した。
そして、彼女は両腕でガランの首にしがみつき、ぎゅっと力を込めて抱きしめた。
その胸の中で、ガランは確かに感じ取った。
二つの鼓動。




