第8章:言葉にできなかったこと
本章をお読みいただきありがとうございます!
第8章は、ついに明かされる8年前の「本当の秘密」。
すれ違い続けてきたふたりの過去と、互いに抱え続けていた想いがついに交差します。
涙あり、笑いありの感動の対話をお楽しみください!
姫佳が向かった先は、あらかじめ分かっていた。
湖から一里(約4キロ)ほど離れた場所に、一本の古いオークの木があった。ねじれた根元を持ち、枝の一本はちょうど二人が腰掛けられるほどの低さに伸びている。王宮の庭園にも同じような木があり、子供の頃はいつもそこへ登っていた。リッカは一番高い枝に座り、姫佳は一番低い枝に座る。そして上からブドウや秘密の噂話、召使いたちのゴシップを投げつけ合うのが日課だった。
今、リッカはその高い枝の上にいた。両膝を抱え、顔をうずめ、肩を小さく震わせながら。
姫佳はその木のふもとに歩み寄り、足を止めた。
「リッカ」
返事はない。
「聞こえているでしょう」
「聞きたくありません」くぐもった声が返ってきた。
「降りていらっしゃい」
「嫌です」
「じゃあ、私が上に登りますわ」
「ドレスが破れますよ」
「構いません」
ここで語り手である私からどうしても指摘しておかなければなりませんが、21年間もインクの染みに怯えて生きてきたヴァレノワの王女・姫佳の口から「ドレスなんて構わない」という言葉が出るのは、それ自体が完全無欠の愛の告白に他なりません。どなたか気づいていなかった方のための解説です。
姫佳は裾をたくし上げると、低い枝に飛びつき、英雄的な不器用さでよじ登り始めた。途中でレースを2箇所も引き裂き、片方の靴をどこかへ落としながらも。リッカの隣にたどり着いた時には、髪には葉っぱが絡まり、顔は紅潮し、そのアメジスト色の瞳はこれまでになく潤んでいた。
「追いつきましたわ」息を切らせて彼女が言う。
「……見ての通りです」
「最後の会話を聞いていなかったでしょう」
「聞く必要なんてありません」リッカは顔を上げたがらない。「騎士の方。はっきりそうおっしゃった。子供の頃からずっと愛している人。そして、私は……」声が震えて掠れた。「私は、いつだってただの馬鹿だった」
「リッカ」
「どうでもいいんです。私はあなたの護衛ですから。私の任務を全うします。あなたが死ぬまで護衛続けますし、いつかその騎士殿と――その、その男の人と結ばれたなら、私は……」
「リッカ」姫佳は彼女を遮るように、まっすぐな声で名前を呼んだ。「その『騎士』っていうのは、あなたのことよ」
ぴたりと、空気が止まった。
リッカはゆっくりと、恐る恐る顔を上げた。真っ赤に腫れた目に、濡れた睫毛、そして完全にフリーズした表情があった。
「……私?」
「あなたよ」
「でも……」リッカはどもった。「だって8年前、男爵令嬢に『男の子が好きだ』って言っていたじゃないですか。聞いたんです。カーテンの裏で聞いていたんだから」
「知っているわ」
「はっきりそう言っていた!」ええ、知っているわ。
「知っているわよ」
「だったら、どうして……!」
姫佳は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
「13歳よ」彼女は静かに言った。「あの時、私は13歳だったの、リッカ。そして人生で初めての原稿を書き終えたばかりだった。『深紅の薔薇の吐息』をね」
「知っています。読みました。つまり……」リッカは言葉を詰まらせた。「あの晩餐会で、朗読したんです。大声で」
「サー・リック」と姫佳が呟いた。
リッカの呼吸が止まった。
「主人公の名前よ」震えるような、どこか切なげな笑みを浮かべながら姫佳が続けた。「勇敢で、ぶっきらぼうで、短髪で、耳まで真っ赤にする騎士。私は彼を男の子として書いたわ……だって、13歳の私には、それ以外の書き方なんて分からなかったから。お姫様が別の女性の騎士を愛したっていいんだなんて、誰も教えてくれなかった。そんな本はどこにもなかった。あるのは王子様とのおとぎ話ばかりで、私の本当の気持ちを、そのままの言葉で私の騎士に乗せる勇気なんてなかったの」
木の枝が、ギリと音を立てた。近くの木から鳥が驚いて飛び立つ。
「あの日の夕方、男爵令嬢に『誰に恋をしているの?』って聞かれて……」姫佳は囁いた。「あなたの名前を口に出すことができなかった。だから、『男の子よ、短い髪をした、勇敢な騎士に恋をしているの』って答えて、肝心なところは隠したの」
リッカは、唇を半開きにしたまま彼女を見つめていた。
「……私のこと、だったんですか?」
「いつだって、あなただけよ」
「だけど私は……」リッカの頬をひと筋の涙が伝った。「男の人だとばかり……。聞いてしまったから、胸のなかで何かが音をたてて壊れて、あなたが自分以外の誰かと幸せになることも、私が知らないところであなたが誰かに秘密を打ち明けることも耐えられなくて。だから、いっそのこと、みんなが知ってしまえばいいと思ったの。みんなが笑いものにすれば、あなたは二度と私以外の誰にもそんな顔を見せなくなるって、そう……」
彼女は両手で顔を覆った。
「私はただの、意気地なしのガキだったんだ」リッカは泣きじゃくった。「そしてその報いを8年間も受けてきた。謝る勇気すらないまま。あの時の自分が憎くて、あなたにも同じように憎まれて当然だと思っていた。その方が、ずっと楽だったから」
姫佳は何も言わなかった。震える手を枝の上に這わせ、リッカの手首をそっと掴み、顔からその手を優しく引き離すと、自分の指を彼女の指にしっかりと絡ませた。
「憎になど思っていなかったわ」彼女は言った。「一日だってね」
「……本当ですか?」
「怒ってはいたわよ。ものすごくね。大切な人にしか抱けないような、激しい怒りだった。でも、あなたを憎むなんて……そんなこと、できるわけないでしょう」首を横に振る。「そうできたら、どんなに楽だったか分からないけれど」
長くて、湿っていて、そして温かな沈黙が訪れた。
ここで、語り手である私から少し咳払いをさせていただきます。
いや、泣いてなんかいませんよ。花粉のせいです。この物語の世界ではいまちょうど春ですからね。花粉がたくさん飛んでいるんです。少し前から空気中に漂っていたんですよ。
(「嘘つけ」という声がどこからか聞こえました。ちゃんと聞こえてますからね)
話を続けましょう。
リッカは涙のなかでふっと笑った。それは、不器用で、ぎこちなくて、でもこれ以上ないほどに誠実な笑い声だった。
「ずっと……」彼女は呟いた。「ずっと私たちは……私という存在をめぐって、喧嘩していたわけですか」
「存在しない『架空の男の子』をね」
「サー・リックという名前の」
「短髪で、耳の赤い、とびきり馬鹿な男の子よ」
「ひどい名前だ」
「13歳だったんですもの」
「それにしてもひどい」
「リッカ!」
ふたりは声を上げて笑った。子供の頃に戻ったように、お互いの額をくっつけあい、涙を流しながら笑い転げ、何百年もそこにあるオークの木の樹皮の上でしっかりと手を繋ぎ合っていた。
笑いが落ち着くと、リッカは深く息を吸い込み、片方の手を放して自分の胸当ての内側、鎧の襟元へと差し入れた。
「これを……あなたに渡さなければならないものがある」かすれた声で彼女が言う。
「……なに?」
彼女が取り出したのは、ボロボロの布に包まれたひとつの束だった。見慣れぬほど丁寧に、大きな手で慎重に包みを開いていく。中から出てきたのは、端がすり切れて黄色く変色した紙の束だった。子供のころの、少し斜めに傾いた、窮屈な文字でビッシリと書かれている。
姫佳は思わず両手で口を覆った。
「嘘……」
「あの夜、拾ったんだ」リッカは呟いた。「みんなが去ったあとで。椅子の下に落ちていて……こんなものがそのまま捨てられるなんて耐えられなかった。だからずっと持っていた。8年間ずっと、肌身離さず持っていたんだ」
「リッカ……」
「何度も読んだよ……」耳の根元まで真っ赤に染まりながら彼女が言う。「暗記するほどに。『たとえ貴方に憎まれようとも、私の心は永遠に貴方のものだ……』。第9章の最後のセリフだよね。そこだけ、少し大きな文字で書いてあった。私はこの8年間……あなたが冷たい声で『ヴァンス卿』と呼ぶたびに、心のなかでこの言葉を自分に言い聞かせていたんだ」
姫佳は言葉を失った。両手でその紙の束を受け取り、まるで神聖な聖遺物でも扱うかのようにそっと抱え込む。親指で、一番最初のたどたどしくも愛らしい一行をなぞった――『昔々、サー・リックという名の騎士がおりました』。
「このセリフ……」震える声で彼女はやっとの思いで言った。「私の小説に入れたの。『深紅の騎士の情熱』のね。第9章の、いちばん大切なセリフよ」
「知っているよ」恥ずかしそうに、しかし嬉しそうにリッカが微笑んだ。「本屋で見つけたとき、すぐに分かった。そして分かったんだ……あの夜、この言葉をずっと大切に持っていたのは、私だけじゃなかったんだって」
姫佳はじっと彼女を見つめた。
もう、言葉はいらなかった。
彼女はゆっくりと体を傾けた。お互いの額を合わせる。目を閉じる。相手の吐息を肌で感じる。すぐ近くにある肩の硬さと、自分の手を必死に、でも優しく包み込んでいる手の温もりが痛いほど伝わってきた。
リッカは小さく、長く息を吐き出した。
キスはしなかった。
――まだ、しない。
けれどふたりはそのままの姿勢で、何分とも知れない時間をただ額を寄せ合ったまま過ごした。オークの木を揺らす風の音を聞きながら、頭上の丸い月が、ようやく意地を張るのをやめたふたつの誇らしげな心を優しく照らし出していた。
――さて、私の可愛い読者たちのなかでも、気が早くて仕方のない人たちからそろそろ苦情が飛んでくる頃ですね。「いいから早くキスさせろ!」「8年も待たせて、まだ引っ張るのか!」と。
分かっています。ほんとうに分かっていますとも。
ですが、ルールはルールなのです。キスシーンの実行予定地は【第10章】と厳密にスケジュール帳に組み込まれているのです。ここで勝手に前倒しでもしようものなら、セラフィン女王陛下にクビを言い渡され、代わりに彼女がこのナレーションの席を乗っ取るでしょう。そして女王の語りは『句読点が一切ない地獄のゴシップ垂れ流し』になりますから、あなた方がいちばん後悔することになります。
もう少しだけ、お待ちなさい。
プロセスを信じるのです。
キスは必ず訪れます。約束しましょう。
ふたりがキャンプ場に戻ってきたのは、夜明けの光が差し込む頃だった。片足は裸足のままで、ドレスはあちこちボロボロ。それでも、どうしようもなくバカみたいに幸せそうな笑顔を顔中に張り付けたまま。
アラリック王子はサンダー号の傍らでぐっすり眠りこけており、その手には半分ほどかじられたプラムタルトが握りしめられていた。
リッカは寝息を立てる王子を一瞥し、それから隣に立つ姫佳を見た。
「あの……彼の愛馬に大声で怒鳴りつけたこと、謝ったほうがいいかしら」
「馬に怒鳴ったわけではないでしょう」
「心の中で、ものすごく大声で罵倒していた」
姫佳はくすくすと笑った。その瞬間だった。
木々の隙間から、青いマントをボロボロにし、額にびっしりと汗を浮かべたひとりの伝令が、文字通り転がり込んできた。
「殿下――っ!!」
男は姫佳の足元に崩れ落ちるように膝をついた。
「国境から急ぎ知らせに参りました! オルレンヌで大変なことが起きております! ヴェルドリック宰相が評議会を武力制圧し、全権を掌握したのです! 条約の調印は白紙に戻すとのこと……! いまや、オルレンヌの都へ足を踏み入れる者すべてが『敵国の侵略者』とみなされる事態となっております!」
姫佳とリッカは、互いに顔を見合わせた。
さっきまでの、気恥ずかしくて甘い笑顔が、一瞬にして消え去った。
(第9章へ続く……)
ここまでお読みいただきありがとうございました!
「サー・リック」の正体、そして8年間大切に保管されていた手書きの原稿……!
額を寄せ合い、ようやく素直になれたふたりの姿に胸が熱くなりますね。
(※語り手の都合により、キスはおあずけです! 第10章をお楽しみに!)
しかし、幸せな余韻も束の間、オルレンヌでまさかのクーデターが発生!?
物語はついに最終決戦直前の第9章へ突入します!
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次回の更新もお楽しみに!




