第6章:下心だらけの湖
本章をお読みいただきありがとうございます!
第6章は、姫佳が小説で描き尽くした「あの湖」での夜。
猛烈なアプローチ(いちゃつき)に耐えかねたリッカの決死の行動と、ラストに登場する謎のライバル(?)にご注目ください!
その湖は、姫佳が描いた記述そのものだった。
月明かりに照らされた、静まり返った銀色の水面。岸辺で囁くアシ。表面に我が身を映すように傾れ込む巨大な柳の木。そして、濡れた草と危険な予感の入り混じる生暖かいそよ風。
馬車から降りたリッカは、あたりを見回すと、夜の寒さとはまったく関係のない悪寒を覚えた。
「見覚えがありますね」彼女は呟いた。
「ほんとうに?」姫佳は、ガチョウすら騙せないほどの無辜な面持ちで後に続いて降り立った。「奇遇ですこと」
二人は無言のままキャンプの設営をした。リッカが焚き火を熾し、二枚の毛布を敷き、鞍袋からパンとチーズを取り出し、いつでも手の届くところに剣を置く。姫佳は丸太に腰掛け、片手で顎を支えながら、岩をも緊張させかねない熱視線でその働きぶりを観察していた。
「手際がいいですわね」
「訓練を受けておりますので」
「さすがね。とても……頼もしい手をしておいでだこと」
リッカはチーズのかけらをポトリと取り落とした。
「……感謝します、殿下」と、精一杯の威厳を保ちながらそれを拾い上げる。
姫佳はふふっと微笑んだ。
(フェーズ1、軽いジャブね)
ここで私から、ちょっとしたテクニックの解説を挟ませていただきます。
以下のシーンには、「中程度のいちゃつき」「激しいいちゃつき」、そして「今すぐここから逃げ出したいレベルのいちゃつき」が含まれています。心臓の弱い読者の方は、何か頑丈なものにつかまることを強く推奨します。
まあ、そうでない方も、しっかりつかまっておいた方が身のためですが。
話を続けましょう。
チーズは美味しかった。夜の気候も悪くない。湖はきらめき、焚き火はパチパチと音を立てている。リッカは炎に目を釘付けにしたままもぐもぐと咀嚼し、その向かいに座る姫佳は、まるで最高級の美術品でも鑑賞するかのように彼女を眺めていた。
「なんて美しい夜かしら」王女は溜息をついた。
「ええ。晴れていて、雨の心配もありません」
「ひとりぼっちで過ごすには、あまりにも惜しい夜ですわね」
リッカはパンを喉に詰まらせかけた。
「私には……剣がありますので」必死に声を絞り出す。「十分に良い相棒です」
「おや、残念。私には、もっと温かいものが必要なのだけれど」
「毛布があります」
「そういう意味で言ったわけではありませんわ、ヴァンス卿」
姫佳は腰を上げると、驚くほど自然な足取りで隣の丸太へと移動し、彼女の隣に腰掛けた。二人の間隔はわずか一息分。姫佳が肩にショールを掛け直したことで、その距離はさらに縮まった。
「綺麗な横顔をしていらっしゃるのね」火を見つめたまま、姫佳が呟いた。
「は?」
「会話のきっかけ作りですわ。ご自身の横顔が美しいと思わないこと? その顎のラインや、首筋……そして、その無造作な髪の毛とか」
「髪は……梳かしていないだけですので」
「そう。手入れなんてしなくても素敵ってことね」
リッカは言葉を返せなかった。彼女の脳みそはすでに家出しており、明日の朝まで帰ってくるつもりはなさそうだった。
姫佳は勝者の笑みを浮かべた。(フェーズ2、開始)
そして、ここからが本当の「攻撃」だった。
姫佳はこれ以上ないほど優雅な仕草で靴を脱ぎ捨て、湖の岸辺へと歩み寄った。冷たい水に足を浸し、ドレスの裾を膝までまくり上げると、ゆっくりとリッカの方を振り返り、優しく芝居がかった声で朗読し始めた。
「『――貴婦人は冷たい水に足を浸し、決して見ようとしない騎士を流し目で見た……』」
リッカはガバッと跳ね上がった。
「それ、外交報告書じゃありませんよね!?」
「詩的な報告書ですのよ。さあ、続けてくださいな、ヴァンス卿。続きはどうでしたっけ?」
「知りません!」
「思い出せるはずですわ」姫佳が一歩踏み出し、足首まで水に浸かる。「『そして騎士は、炭火のように赤い耳で……』」
「『……目を逸らした。もし再び見つめれば、自分の意志がすべて崩れ去ってしまうと分かっていたからだ』」
リッカは機械的に最後まで暗唱してしまった。
静寂。
リッカは両手で自分の口を塞いだ。
姫佳はこれ以上ないほどに、満面の、それはもう眩しい笑みを浮かべた。
「なんと素晴らしい記憶力こと。一度も読んだことのないお方にしてはね」
「わ、私は……あなたがさっき、朝食の時に言ったからです」
「そんな部分は言っていませんけれど?」
「その……私の耳が非常に良いもので」
「そう。……本当にね」
姫佳は裾をまくったまま岸辺を戻ると、丸太の上にひょいと腰掛け、両膝に顎を乗せて上目遣いに彼女を見つめた。
「リッカ」
低く、かすれ、そして熱を帯びた声で、彼女は呼んだ。
リッカは息をするのすら忘れていた。
「もし、あの騎士――あなたそっくりのあの人が――いま、この焚き火の光の中にいて、こんなふうに見つめてくる貴婦人を目の前にしたら……」
姫佳は身を乗り出した。ほんのわずかずつ。彼女の唇が、リッカの燃えるように赤い耳たぶからわずか数センチのところに迫る。
「あなたなら、どうすると思う?」
ゾクッとした悪寒が、リッカの背骨を上から下へと駆け抜けた。姫佳の温かい吐息が肌を撫で、ジャスミンの香りが鼻腔を満たし、すぐ目の前にある体温が近すぎて、膝の関節が液体のように溶けていくのを感じた。
「私なら……」絞り出すように言う。「その騎士は……立ち上がります。そして――周辺の警戒任務に行ってきます」
「なんてこと。まったくロマンチックのかけらもない選択ね」
「戦術的判断です」
「臆病なだけよ」
姫佳がスッと手を伸ばし、リッカの鍛え上げられた前腕に触れた。しなやかな指先が、手首から肘にかけて、布地の上から硬い筋肉のラインをなぞっていく。リッカの意識は、ここで一時的に4秒ほどトリップした。
「すごい筋肉……」姫佳は、これ以上ないほど露骨な感嘆の声を漏らした。「いつも思っていたのだけれど、見た目通りに硬いのかしら」
「これは……」リッカは唾を飲み込む。「訓練の成果ですので」
「そうでしょうね。ヴァンス卿、あなたが私を片手で軽々と持ち上げられるのに、私がその成果を十分に評価できないなんて、あまりにも不公平だわ」
「殿下!」
「姫佳、ですわ」
「姫佳!」
「そうですわ。いい響きだこと。もう一度言って?」
「無理です! 心臓が持病の発作を起こします!」
姫佳は頭を後ろに反らして、声を上げて笑った。それは低く、絹のように滑らかで、あまりにも生き生きとした笑い声で、湖の畔で鳴いていた鈴虫たちが一斉に鳴き声を止めたほどだった。
ここで、語り手である私から一言。
このシーン、私の心臓もすでにプロレベルのタキカディ(頻脈)を起こしかけていることをご報告いたします。
念のため申し添えておきますが、私は決して覗き見などしておりません。額に「覗き見禁止」と書かれた札を貼って、誠実に自重しております。もしカーテンの隙間からこっちをジッパと見つめている不審な影があっても、それは私ではありませんからね。
(※オオカミです。あのポニーサイズのオオカミが木陰から覗き見しています。口に魚をくわえたまま。なぜまだそこにいるのか、いよいよ私にも説明がつかなくなってきました)
発熱する前に話を続けましょう。
姫佳はまだ終わりにしていなかった。
彼女は立ち上がると、リッカの肩に手を置いたまま丸太の裏を回り込み、いつの間にか背後に回り込んでいた。そして上から身をかがめる。その唇が、リッカの首筋の柔らかな曲線に触れそうになる。
「第14章で、私のいちばんお気に入りの台詞が何か知ってる?」と、彼女は耳元で囁いた。
リッカは固く目を閉じた。
「……何の章のことか、分かりません」
「これよ。『もしあの騎士が、私たちが子供の頃からどれほど彼を求めていたか知っていたなら、剣を落とし、二度と拾い上げようとはしなかっただろうに』」
リッカは全身を硬直させた。
体中の筋肉が、限界まで張られた弦のように震えている。オメガの本能が「後ろにもたれかかり、その肩に頭を預けてしまえ」と叫んでいた。しかし、兵士としてのプライドは「今すぐ逃げ出せ」と警報を鳴らしている。王室護衛としての彼女は、技術的な意味で「最高レベルの内部紛争」の真っ最中にあった。
「姫佳……」彼女は掠れた声で懇願した。「お願いですから」
「何がお願いなの?」
「もう……やめてください」
「ほんとうに、やめてほしいの?」
白く美しい手が、リッカの脇腹をゆっくりと這い上がり、鎖骨をなぞり、そして顎の下でピタリと止まった。わずかな指の力だけで、彼女の顔を強制的に上を向かせる。
顔を上げざるを得なくなったリッカの視界に、濃く、燃えるような黄金色に輝く姫佳の瞳が飛び込んできた。彼女の魂の奥底まで見透かされているような気がした。王女がもう一息だけ、ほんの一指し指分だけ体を預ければ、二人の間の距離は完全に消え失せるだろう。
「やめてって言ってごらんなさい」姫佳は囁いた。「そう言えば、やめてあげる。ひとことだけでいいのよ」
リッカはわずかに唇を開いた。
「私……」
姫佳は息を止め、顎を支えた手に力を込め、瞳の奥に一筋の希望の灯をともしながら、その言葉を待った。
リッカは力いっぱい、固く目を閉じた。
「――湖だぁっ!!」
そして、彼女は跳び起きた。
剣を持ったまま、鎧を着たまま、靴を履いたまま、一直線に水面へと突撃し、うつろの森のすべての鴨たちが驚いて飛び立つほどの豪快な水飛沫を上げて、湖の真ん中へと頭から飛び込んだのだった。
完全な静寂が訪れた。
やがて、びしょ濡れで髪が乱れ、睫毛まで真っ赤に染まった頭がポコンと水面から突き出した。
「頭を冷やしに来たのです!」彼女は怒鳴り声を上げた。「これは……その……戦術的な健康管理の一環ですので!」
岸辺の草地に座り込んだ姫佳は、お腹を抱え、苦しくなるほどに身をよじって笑い転げていた。片手で目尻の涙を拭う。それは過去8年間で一度も聞いたことのない、全身全霊で、魂の底から自由を謳歌するような笑い声だった。
「ごめんなさい……!」彼女は笑いすぎて震える声で言った。「ごめんなさい、無理! あなたの顔が面白すぎて……!」
顎まで水につかったリッカは、底知れぬ、そして神聖ですらある深い怨念を込めて彼女を睨みつけた。
「ちっとも面白くありません」
「少しは面白かったわよ」
「これは外交上のハラスメントです」
「ローリスクな愛の営みよ」
「もう少しで溺れ死ぬところでした!」
「自ら鎧を着たまま湖に飛び込む人間なんて、私が言ったどんな言葉よりも危険ですわ」
リッカは言い返そうと口を開き、そして閉じた。ぐっと歯噛みする。鼻のあたりまで水に沈み、恨めしげな泡をプクプクと水面に吐き出し始めた。
その後、焚き火のそば。
リッカは耳まですっかり隠れる大きな毛布に包まれ(耳は相変わらず真っ赤だった)、自分の鎧を岩の上に並べて乾かしながら、不機嫌そうな顔で炎を見つめていた。その隣で、姫佳はショールを肩に掛け、靴を手に持ったまま、満足げで小さな微笑みを浮かべている。
「からかわないでいただきたいですね」リッカはぶっきらぼうに呟いた。
「からかってなどいませんわ」
「からかっているでしょう」
「少しはね」と、姫佳は素直に認めた。「でも、それだけじゃないわ」
リッカは首を向けた。オレンジ色の炎に照らされた姫佳の横顔は、言葉を失うほどに柔らかく、そして美しかった。
「こんなふうに近くに感じられたのは、8年ぶりですのよ」姫佳は静かに言った。「あんなふうに私に声を荒らげてくれたのも。……どれほどこれを恋しく思っていたか、自分でも忘れていたくらい」
リッカは言葉を飲み込んだ。喉の奥に熱いものが詰まり、長い人生で一度も使ったことのないような、気の利いた返答がひとつも出てこなかった。
「私は……」彼女が口を開きかけた時、
遠くの森から、蹄の音が聞こえてきた。
姫佳はハッと跳ね起きる。リッカは反射的に剣を引き抜き、王女と闇夜の間に自身の身を滑り込ませた。
木々の間の小道から、純白の毛並みを持つ一頭の馬に跨った、ひとりの騎士が進み出てきた。青い絹のマントにはオルレンヌ王国の紋章が輝き、完璧に整えられた金髪に、眩しいほどの白磁の歯を見せる笑顔、そして「人生で一度も小麦の袋を持ち上げたことがなさそうな」貴公子然とした気品をまとっていた。
「ごきげんよう、麗しの淑女たち!」その男は華麗な手つきで帽子を持ち上げて一礼した。「夜分にお邪魔して申し訳ない! 私はオルレンヌ王国の王子アラリック。君たちを我が領土へ歓迎しに参った」
彼はそこで言葉を切り、姫佳を上から下へと、必要以上に長い時間をかけて品定めするように見つめた。
「そして、貴女こそが……私の美しい許嫁に違いない」
ぞっとするような沈黙が流れた。
リッカと姫佳は顔を見合わせた。
リッカが握りしめる剣の柄から、関節の軋む音が聞こえた。
姫佳の瞳が、アメジスト色から冷酷な黄金色へと一変した。
一本の木のてっぺんで、オオカミが最高に満ち足りた顔で最後の魚を飲み込んでいた。
(第7章へ続く……)
ここまでお読みいただきありがとうございました!
誘惑に耐えきれず鎧のまま湖へダイブしたリッカと、腹筋が崩壊するほど爆笑する姫佳(笑)。
二人の距離がぐっと縮まった最高の夜……になるはずが、まさかの許嫁(アラリック王子)の乱入で現場は一触即発!?
オオカミも呆れて見守る中、物語は波乱の第7章へ突入します!
続きが気になる方は、ぜひブックマーク登録や**評価(★★★★★)**をしていただけると大変励みになります!
次回の更新もお楽しみに!




