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第3章:怪しいスープ

本章をお読みいただきありがとうございます!


第四の壁を破る言い訳(?)から始まる第3章です。


懐かしい思い出の味と、女王陛下の強引な企み……ふたりの距離が少しずつ動き始めます!

物語を続ける前に、ひとつだけ釈明をしておかなければなりません。


勘のいい読者の方なら(ええ、第1章で眉をひそめていたのを知っていますよ)、私が第1章でただの一度も「第四の壁」を破らなかったことにお気づきでしょう。視線ひとつ送らず、目配せさえしなかったことに。


ですが、これは決して不注意などではありません。プロトコル(規約)の問題なのです。


契約上、語り手(ナラティブ)は読者が混乱しないよう、直接語りかけるまでに最低でも1章分の猶予を置かなければなりません。これは『全知的な語り手に関する一般規則』第7条――「師匠の死をネタバレしてはならない」のすぐ下にあり、「主人公の髪型を弄ってはならない」のすぐ上に記載されている【猶予期間(クーリングオフ)】というルールです。


それに、あの時は「第四の壁」がちょうど補修工事中だったのです。職人チームが修繕に来ていたのですが、どういうわけか作業員の一人が第2章の馬車の中に紛れ込んでしまいましてね。……だからこそ、馬車が『一台』しかなかったのですよ。


信じていない顔ですね? まあいいでしょう。話を続けましょう。


旅の初日は、まさに泥沼の消耗戦でした。


午前中半ばの時点で、リッカは窓の外に見える木を112本まで数えていました。正午には、姫佳(ヒメカ)がオルレンヌ王家の家系図をフルネームで脳内暗唱し終えていました。12時15分になる頃には、二人とも退屈のあまり叫び出しそうになっていましたが、どちらも最初に口を開く気など毛頭ありません。


「……暑いですわね」


ついに姫佳が天井を見上げながら呟きました。


「窓をお開けください」


「ホコリが入りますわ」


「では、お閉めください」


「それでは暑いですわ」


「……ならば、問題ですね」


「まあ、なんて素晴らしい洞察力でしょう、ヴァンス卿。流石は王国最高の護衛騎士ですこと」


リッカは奥歯を噛み締めました。姫佳は鞄から『外交報告書・厳重取扱注意』と革の表紙に書かれた notebook を取り出すと、神妙な面持ちでページを開き、ペンを走らせ始めました。


もちろん、その内容が外交報告書などであるはずがありません。彼女が書いていたのは『深紅の騎士の情熱』第14章――湖畔での夜のシーンであり、自画自賛ではありませんが、息をのむほど素晴らしい出来栄えになりつつありました。


リッカは横目でそれを盗み見ます。


姫佳は舌を少し覗かせ、眉をひそめながら猛スピードで筆を進めていました。時折漏れる溜め息は、事情を知らない者が聞けば「外交問題への憂慮」に聞こえたことでしょう。


ですが、リッカには分かっていました。


(……書いているわ)


リッカは心臓をバクバクさせながら思いました。


(湖で一体何が起きるのか、聞きたくても聞けないなんて……!)


舌を強く噛み締めたせいで、目頭が熱くなるほどでした。


「何かおありですか、ヴァンス卿?」


姫佳が顔も上げずに尋ねます。


「なんでもありません。……ハエがいたもので」


「ハエなど飛んでいませんわ」


「透明なハエです」


「まあ、それは大変ですこと」


その時でした。馬車の前輪が羊の頭ほどもある大きな石に乗り上げ、車体が跳ね上がりました。


姫佳のインク瓶が宙を舞います。


すべての動きがスローモーションのように感じられました。黒いインクで満たされた小さなガラス瓶が、きれいな放物線を描いて姫佳のドレス――先週の惨劇を生き延びた、二番目にお気に入りの水色の絹ドレス――へと向かって飛んでいきます。


姫佳は悲鳴を上げようと口を開きました。


――その瞬間、長年の訓練で鍛え上げられた巨大でゴツゴツした手が、布地からほんのわずか手前でインク瓶を完璧にキャッチしました。一滴のインクすらこぼさずに。


静寂が訪れました。


手にインク瓶を持ち、もう片方の手でシートを支えて体勢を保っていたリッカは、手元の瓶を見つめ、それから姫佳を見つめ、再び瓶へと視線を落としました。まるでそれがどうやって自分の手の中にあるのか分かっていないかのように。


「……反射神経です」リッカはかすれた声で言いました。「兵士の、です」


姫佳は答えませんでした。目を丸くし、頬をいつも以上に桜色に染めていましたが、ドレスの皺を整えるフリをして必死にごまかそうとしていました。


「……感謝しますわ」


ようやく聞こえたのは、消え入りそうなほど小さな声でした。


「お気になさらず。……そのドレス、二番目にお気に入りのものですよね」


「……なぜそれをご存知なのですか?」


「私は……」リッカは唾を飲み込みました。「もう3年も拝見していますから。それにインクがついた時の殿下の顔も」


姫佳は絶句しました。リッカは彫像のように硬直した動作でインク瓶を返し、背もたれに体を押し付けて窓の外へと視線を逸らしました。


二人の耳は、すでに夕焼けのような赤さに染まっていました。


二人は清流のそばにある道の交差点で昼食をとることにしました。そこには木製の傾いた看板が立っています。


『頑固おばあちゃんのスープ――驚愕の破格値!』


看板の後ろには派手な色の馬車と、バスタブほどもある湯気を立てた大鍋、そして胡散臭いほど大きな笑顔を浮かべたヒゲの男が立っており、怪しいほどの大歓声で二人を迎えました。


「いらっしゃい、麗しいお嬢さん方! うつろの森で一番のスープだよ! たったの銅貨2枚!」


リッカは目を細めました。


「銅貨2枚……?」


「パンもつけるならもう1枚だよ!」


「怪しいほど安いですね」


「おばあちゃんの太っ腹なおかげさ!」


「そのおばあちゃんはどこにいるのですか?」


男の笑顔が一瞬固まりました。……しかし、すぐに先ほど以上の笑顔を取り戻します。


「旅に出ているのさ!」


リッカは柄に手をかけました。隣に立つ姫佳の紫の瞳も、黄金色の光を帯び始めています。


ですがその時、大鍋から立ち上る香りが姫佳の鼻腔をくすぐりました。それはヴァレノワの王女がここ8年間嗅いだことのない香りであり、一瞬にして温かい厨房の記憶――パンを盗む小さな手と、「半分こにしよう、私が残りを食べるから」と言っていた短髪の少女の姿を呼び覚ましました。


「……二杯いただけますかしら」


姫佳は少し声を詰まらせながら言いました。


「殿下!?」リッカが抗議します。


「二杯、お願いしますわ」


二人は川 l 沿いの丸太の両端に腰掛け、湯気の立つスープ皿を手に取りました。一口、口に運んでみます。


絶対的な沈黙が流れました。


「……ものすごく美味しいです」リッカが悔しそうに呟きました。


「……美味しいですわね」姫佳も認めざるを得ませんでした。


ふと視線が交差しました。8年ぶりの、敵意のない一瞬の視線。しかし、二人はすぐに慌ててスープへと目を落としました。


その様子を愛おしそうに眺めていた店主は、袖で涙を拭いました。……ただの行商人にしては、あまりにも感極まりすぎた表情で。


そしてその時、兵士としての目を持つリッカが「ある詳細」に気づいたのです。


男の袖口に、金糸で小さな紋章が刺繍されていました。極小でほぼ見えませんが、リッカには見覚えがありました。王宮の厨房のエプロンで、毎朝のように目にしていた紋章――『一輪の薔薇と交差する剣』です。


リッカは固まりました。


「……殿下」


「なんですの?」


「……あのスープ売り、女王陛下の差し金です」


姫佳のレンゲがぴたりと止まりました。


二人が同時に男を見ると、男は即座に空を見上げて口笛を吹き始めました。


「いやあ! 今日はいい天気だなぁ! こんなところで会うなんて奇遇だなぁ! ああ忙しい、もう行かなくっちゃ!」


男は一分も経たないうちに鍋も看板も片付けると、御者台に飛び乗り、ロバが引いているとは思えない凄まじい速度で街道の彼方へと走り去っていきました。


姫佳とリikkaはスープ皿を手にしたまま、残された土煙をぼんやりと見つめていました。


「母上は……」姫佳がゆっくりと言いました。「私たちに飯を食わせるためにスパイを送り込んだのですわね」


「仲直りさせるためですね」


「仲直りさせるためですわ」


「……随分と強引なお方です」


「女王ですからね」姫佳は溜め息をつきました。「厄介な組み合わせですわ」


リッカは耐えきれず、思わず短く「ふふっ」と吹き出してしまいました。


姫佳は驚いて目を丸くしました。彼女の笑い声を聞いたのは、実に8年ぶりのことだったからです。


リッカは慌てて手で口を覆い、髪の生え際まで真っ赤になりました。


「……何も起きていません」リッカは低く呟きました。


「もちろんですわ」姫佳もスープ皿の底を真剣な顔で見つめながら言いました。「……何も起きていませんわ」


それから昼食が終わるまで、二人が言葉を交わすことはありませんでした。


日暮れ時、馬車が丘を越えると、遠くに小さな村が見えてきました。そこには明かりの灯った看板がひとつ掲げられています。


『疲れたガチョウ亭。客室あり。温かい夕食』


姫佳が窓から身を乗り出しました。リッカも反対側の窓から乗り出します。


「まあ……」王女が言った。「少なくともここなら、部屋がひとつ以上あるでしょうね」


「ええ」リッカも絶対の確信を持って頷きました。「あるはずです」


……語り手である私は、これ以上何も言うつもりはありません。


馬車のネタはすでにやりましたからね。二度同じ手は使いません。


(ですが……一応、覚えておいてくださいね?)


(第4章へ続く……)

ここまでお読みいただきありがとうございました!


思わず笑みがこぼれたリッカと、それを愛おしそうに見つめる姫佳……!


そして次回の舞台は宿屋『疲れたガチョウ亭』。


果たして部屋は「ひとつ」しかないのか!?(フラグ)


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次回の更新もお楽しみに!

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