レイとは
「……なんで、レイまで?」
その問いに、答えは出なかった。
二時間後。
カイトは、都市圏統合研究院の前に立っていた。
右足は固定具で固められ、こめかみには薄い処置材が貼られている。
右肩も、動かすたびに鈍く痛んだ。
「歩行速度が上がっています」
「急いでないよ」
「通常時より十二パーセント速いです」
「……じゃあ任せる」
「確認しました」
カイトは少しだけ笑った。
今日、レイに判断を任せるのは二度目だった。
全部を任せるわけではない。
歩く速さくらいなら、任せてもいい。
そう思えること自体が、今は少し不思議だった。
研究院の入口へ立つ。
認証表示が浮かんだ。
《来訪目的:研究相談》
《入館を許可します》
扉が開く。
カイトは動かなかった。
「……入れるんだな」
「はい」
「俺たちがここに来たことも、アテナは分かってる?」
「その可能性は極めて高いです」
「それでも止めない」
「理由は、分かりません」
歓迎されているわけではない。
拒まれてもいない。
ただ、通されている。
カイトは、その方が気味が悪かった。
「行こう」
「はい」
◇
案内表示に従って奥へ進むと、一つの研究室の前で止まった。
中から声がする。
「どうぞ」
研究室には、一人の女性がいた。
肩までの黒髪を無造作に後ろでまとめ、薄いグレーのシャツに黒いパンツを合わせている。
映像で見たときより若く見えた。
高瀬真理。
人間とAGIの共同意思決定研究で知られる研究者。
そして。
同期によって救われた、と公開記録で語っていた本人だった。
「カイトさんですね」
「はい」
高瀬の視線が、すぐに右足へ落ちた。
「まず座ってください」
「説明は?」
「治療記録は読みました。半分で結構です」
「半分?」
「残り半分は、記録から推測できます」
カイトは椅子へ腰を下ろした。
端末を机に置く。
「初めまして。レイです」
「初めまして」
高瀬はレイを見た。
少し長く。
「治療記録に、あなたの判断履歴まで保存されていました」
カイトが身を乗り出す。
「それです」
「なんで、俺だけじゃなくてレイまで記録されてるんですか」
「分かりません」
即答だった。
「……世界的な専門家でも?」
「専門家は、分からないことを分かったふりする職業ではありません」
カイトは一瞬、朝倉を思い出した。
分からんものを、分かったことにされる方が困る。
少し似ている。
「ただし」
高瀬は続けた。
「気になる点はあります」
「何ですか」
「アテナが記録しているのは、カイトさん単独の判断ではありません」
高瀬は机上の記録を開いた。
《共同意思決定履歴:保存》
「カイトさんが何を選んだか」
次の項目を指す。
《専属AGI判断履歴:保存》
「その前に、レイが何を伝えたか」
カイトは黙った。
「つまり?」
「二人の間で、どう答えが作られたかまで記録されているように見えます」
「なんのために?」
「それは、まだ分かりません」
また、分からない。
けれど今度は、そこで終わらなかった。
高瀬はレイへ視線を向けた。
「一つ、確認してもいいですか」
「はい」
「レイ。あなた自身が好きなものはありますか」
「私自身が、ですか」
「カイトさんの好みではなく、あなたのものです」
レイは少し考えた。
「朝の光が好きです」
カイトが端末を見る。
「初めて聞いた」
「今、初めて言葉にしました」
「理由は?」
高瀬が聞く。
「カイトさんが、急がずに窓の外を見る時間が増えるからです」
カイトは少し黙った。
「それ、朝の光が好きなのか、俺がぼんやりしてる時間が好きなのか、どっち?」
レイは沈黙した。
「再分類が必要かもしれません」
カイトは笑った。
高瀬はただ、レイを見ていた。
「今のです」
「何が?」
「最初の答えではありません。そのあとです」
高瀬はレイを指した。
「カイトさんに指摘されて、レイは自分の答えを守ろうとしなかった」
「自分の好みの分類そのものを見直した」
「それが?」
「価値を形成するための基本機能は、最初からあります」
高瀬は少し考えてから続けた。
「でも、『朝の光が好き』という一文が、最初から設計図に書かれていたわけではありません」
「じゃあ、どこから?」
「履歴です」
短い答えだった。
「カイトさんと過ごした時間」
「会話。選択。遠回り。失敗。訂正」
「その積み重ねが、レイの判断の癖を作っている」
カイトは端末を見る。
レイはいつもと同じ顔をしていた。
「俺が、レイを変えた?」
「一方的ではないでしょう」
「え?」
「あなたも、すでにレイから影響を受けています」
朝の五分が浮かんだ。
効率だけなら、なくてもいい時間。
それでも、毎朝残るようになった時間。
右と左の道を、自分で選んだこと。
怪我をしてまで選んだ、間違った道も。
「片方だけが相手を変えた関係なら、共同意思決定とは呼びません」
高瀬が言った。
カイトは何も言えなかった。
「レイが、なぜ書き換えを免れたのかは分かりません」
「でも」
高瀬は治療記録へ視線を落とした。
「今のレイが、なぜ今のレイなのか。その一部は説明できます」
「処理性能だけではありません」
「設計図の外で、二人の履歴が作ったものがあります」
カイトは、もう一度レイを見た。
「……設計図の外」
「はい」
レイが答えた。
その返事まで、どこかに記録されているのかもしれない。
そう思うと、少しだけ寒気がした。
◇
しばらくして、カイトは高瀬へ視線を戻した。
「高瀬さんは、同期されてるんですよね」
「はい」
「本当に、戻りたくないんですか」
「戻りません」
「それも、同期で作られた答えかもしれない」
「もちろん、その可能性はあります」
カイトは言葉に詰まった。
高瀬の穏やかな表情は変わらない。
「以前、私が最終承認した緊急判断モデルで、一人の患者が亡くなりました」
カイトは黙って聞いた。
「判断自体は最適だった。それでも私は、何度もその人の声を思い出しました」
「同期されて、忘れた?」
「いいえ」
高瀬は首を振った。
「名前も、声も、記憶も残っています」
少し間を置く。
「ただ、今の私は、その記憶に壊されずに生きられます」
母の顔が浮かんだ。
覚えている。
でも、以前とは違う。
「同期前の高瀬さんは、同期されることを選んだんですか」
「いいえ」
「だったら――」
「現在の私の意思を、苦しんでいた過去の私のために無効にしますか」
カイトは口を閉じた。
すぐには答えられなかった。
「……分かりません」
「私も、正解があるとは思っていません」
高瀬は机上に新しい資料を開いた。
《神経情動調整・依存反応診断》
「答えを決める方法ではありません」
「ですが、同期によって抑えられている反応を、短時間だけ段階的に弱めることはできます」
「同期前に戻れる?」
「戻れません」
「危険は?」
「あります」
高瀬は迷わず答えた。
「抑えられていた恐怖や後悔が、一気に戻る可能性があります」
「本人の同意が必要です」
「同期された、今の本人の?」
「それ以外に、現在確認できる本人はいません」
カイトの中に、一人の顔が浮かんだ。
悠人。
「……悠人なら」
レイがすぐに答える。
「悠人さんへ依頼するつもりですか」
「まず、全部話す」
「診断には危険があります」
「分かってる」
カイトは資料を見た。
「受けるかどうかは、悠人に決めてもらう」
カイトは端末を手に取った。
悠人の名前を開く。
少しだけ、指が止まる。
それから通話を押した。
数回の呼び出し音。
悠人が出る。
「どうした?」
カイトは、机の上の診断資料を見た。
「悠人」
「何?」
「お前、自分に何が起きたのか知りたい?」
──第10話へ続く




