もう少しだけ
「お前、自分に何が起きたのか知りたい?」
通話の向こうで、悠人が黙った。
数秒。
「……知りたい」
カイトは机の上の診断資料を見る。
「調べる方法がある」
「元に戻す方法?」
「同期前に戻すことはできない」
「じゃあ、何が分かる?」
「今、抑えられてる反応を一時的に弱める。何が出てくるかを見る」
また少し間があった。
「危険は?」
「ある」
カイトは隠さなかった。
「怖さとか、後悔とか、一気に出るかもしれない」
悠人はすぐには答えなかった。
「場所、送って」
「来るの?」
「話を聞いてから決める」
「分かった」
通話が切れた。
レイが端末の中から言う。
「カイトさん」
「悠人さんが到着しても、診断を受けるとは限りません」
「分かってる」
カイトは資料を閉じた。
自分が欲しい答えと、悠人が選ぶ答え。
同じになるとは限らない。
◇
しばらくして、研究室の扉が開いた。
悠人は入ってくるなり、カイトの足を見た。
右足の固定具。
こめかみの処置材。
右肩をかばう姿勢。
「……怪我ひどいな」
声は穏やかだった。
表情も、いつもの微笑みのままだった。
高瀬が椅子を勧める。
カイトは、診断についてもう一度説明した。
同期前へ戻すものではないこと。
抑えられている反応を段階的に弱めること。
途中で止められること。
そして、何が起きるかは完全には分からないこと。
悠人は最後まで黙って聞いた。
「カイトは、受けてほしいのか」
カイトは少し迷った。
「……受けてほしい」
悠人がカイトを見る。
「俺が、お前の聞きたい答えを言わなくても?」
「それでも聞きたい」
一度言ってから、カイトは続けた。
「でも、決めるのはお前だ」
悠人は視線を落とした。
自分の手を見る。
「今は、怖くない」
「うん」
「でも、その怖くないっていうのも、同期された結果かもしれないんだよな」
「その可能性はある」
「診断が始まって、怖くなったら?」
「止めていい」
悠人は小さく息を吐いた。
「じゃあ受ける」
「本当に?」
「確認なら、もう一回答える」
悠人は顔を上げた。
「受けるよ」
少しだけ間を置く。
「お前のためだけじゃない。俺も、自分に何が起きたのか知りたい」
◇
診断室は、厚いガラスで二つに隔てられていた。
内側に悠人。
外側に高瀬とカイト。
レイの端末は観察台の上に置かれた。
高瀬が表示を確認する。
《主監視者:高瀬真理》
続いて、レイを登録した。
《第二安全監視者:レイ》
《権限:緊急停止要求のみ》
「私が身体反応を監視します。悠人さん自身は、いつでも中止できます」
「はい」
「レイも異常を確認した場合、停止を要求できます」
「承知しました」
高瀬はガラス越しに悠人を見る。
「最後に確認します」
「カイトさんが望んでいるからではなく、現在のあなた自身の意思として、この診断を受けますか」
悠人は一度だけカイトを見た。
「受けます」
「理由は?」
「カイトのためでもあります」
悠人は続けた。
「でも、それだけなら受けません。俺も、自分がどう変わったのか知りたいからです」
「分かりました」
高瀬が操作盤へ触れた。
《神経情動調整・依存反応診断》
《開始前安全確認:完了》
《情動調整出力:100%》
数値が、ゆっくり下がり始めた。
九十パーセント。
しばらくは何も起きなかった。
悠人が一度、深く息を吸う。
「……少し落ち着かない」
「どんな感じですか」
「じっとしてるのが、少し嫌な感じがする」
高瀬が記録する。
八十パーセント。
悠人が天井を見た。
「この部屋、白すぎないか」
カイトが思わず口を開く。
「そこ?」
「さっきから気になる」
「診断室だからなあ」
「もう少し色あってもいいだろ」
高瀬が言う。
「意見として記録しておきます」
悠人の口元が動いた。
「本当に記録するんですか」
「はい」
悠人が、小さく笑った。
カイトの身体が止まる。
穏やかに固定された微笑みではない。
短くて、少し呆れたような笑いだった。
学生の頃から何度も見た笑い方。
《第三段階へ移行します》
七十パーセント。
悠人は何度か指を動かした。
「……あの店」
「評価2.1?」
「うん」
悠人の眉が少し寄る。
「本当にまずかったな」
カイトは笑った。
「だろ?」
「ぬるいし、味濃いし。最後だけ変に甘いし」
「そこまで覚えてるんだ」
「覚えてるよ」
悠人は少し黙った。
それから、ほんのわずかに口元を緩めた。
「二・一は伊達じゃないな」
カイトの胸が跳ねた。
「それだよ」
「何が?」
「あの時、俺、それを一緒に笑いたかった」
悠人はカイトを見る。
「俺、来るんじゃなかったって言ったよな」
「うん」
「今は……少し、もったいなかった気がする」
「何が?」
「まずいのに、笑わなかったこと」
カイトはガラスへ一歩近づいた。
「悠人」
「何?」
「戻ったのか」
悠人の顔から笑みが消えた。
「俺は、ずっと俺だろ」
カイトは息を止めた。
悠人は眉を寄せたまま続ける。
「でも――」
「今の反応が昔の俺に近いからって、それを本物って決めるなよ」
カイトは何も言えなかった。
悠人は視線を逸らした。
「今のは、少し腹が立った」
「……ごめん」
「謝るの早いな」
かすかに口元が戻る。
「もう少し考えてから言えよ」
その言い方に、カイトの知る悠人が重なった。
高瀬が数値を確認する。
「現在値は安全基準内です。次へ進みますか」
悠人は一度目を閉じた。
「進めてください」
《第四段階へ移行します》
六十パーセント。
悠人の呼吸が、少しずつ速くなった。
指先が椅子の布地をつかむ。
視線が、カイトの右足へ落ちた。
「……その怪我」
「うん」
「俺が医療支援を呼んだから?」
カイトは一瞬黙った。
「古い階段を通るって決めたのは俺だ」
「でも、俺が呼んだから逃げた」
「悠人は助けようとしたんだろ」
「そうだよ」
声が強くなった。
「助けた方がいいと思った。今も、それが間違いだったって言い切れない」
「分かってる」
「分かってない」
悠人の眉間に深いしわが寄った。
「お前は、共有しないでって言った」
「うん」
「押すなって言った」
「覚えてる」
「俺は、分かったって答えた」
悠人の指に力が入る。
「それでも押した」
呼吸が浅くなる。
「嫌だって言われたのに」
《心拍変動:上昇》
《呼吸変動:上昇》
高瀬の声が変わる。
「悠人さん。現在地と氏名を答えてください」
「都市圏統合研究院。悠人」
「診断を中止しますか」
返答までに、少し時間がかかった。
「……まだ、続ける」
レイが言った。
「心拍、呼吸、返答時間。三項目が同時に悪化しています」
高瀬が表示を見る。
「確認しています。現在値は、まだ停止基準内です」
レイはすぐに続けた。
「ですが、変化の速度が安全ではありません」
高瀬がレイを見る。
「現在値は、です」
レイの声は静かだった。
「この傾向が続いた場合、悠人さん自身が診断を継続するか、中止するかを判断する能力が低下する可能性があります」
「予測ですか」
「はい」
「確率は?」
「現時点では十分な母数がありません。正確には算出できません」
一瞬の沈黙。
「ですが、悪化は継続しています」
高瀬は数値を見たまま答えた。
「次の段階には進みません。このまま三十秒、観察します」
悠人はガラス越しにカイトを見た。
「俺は、お前を助けたかった」
「分かってる」
「でも、助けようとして、お前をあんな怪我させた」
声が途切れた。
「今まで、こんなふうには……」
悠人が息を吸い直す。
何かを言おうとしている。
カイトはガラスへ手をついた。
その先が聞きたかった。
母も、悠人も、記憶は残っていた。
では、何が消えていたのか。
何が抑えられていたのか。
もう一言聞けば、分かる気がした。
レイが告げる。
「返答までの時間がさらに延びています。身体反応と自己申告の差も拡大しています」
高瀬が悠人を見る。
「悠人さん。継続を希望しますか」
悠人は、すぐには答えなかった。
高瀬ではなく。
ガラスの向こうのカイトを見る。
「カイト、俺は――」
カイトは一歩、ガラスへ近づいた。
その先が聞きたかった。
「待ってください」
高瀬がカイトを見る。
「もう少しだけ」
レイは何も言わなかった。
高瀬は悠人へ視線を戻す。
「悠人さん。あなた自身は、継続を――」
「第二安全監視者として、診断の停止を要求します」
静かで、はっきりした声だった。
高瀬が振り返る。
「レイ。まだ停止基準には達していません」
「はい」
「では、理由を」
「二つあります」
レイは即答した。
「第一に、現在の悪化速度が継続した場合、悠人さん自身による中止判断の信頼性を確認できなくなる可能性があります」
カイトは端末を見る。
「第二に」
ほんの短い間。
「悠人さんは、継続を希望するかという質問に回答していません」
高瀬が黙る。
「質問されたのは、悠人さん自身の意思です」
レイは続けた。
「ですが悠人さんは、カイトさんを見ました」
カイトの身体が止まった。
「現在、悠人さんは自分の希望より、カイトさんが求めている答えを優先し始めている可能性があります」
「……レイ」
「その状態では、継続への同意を確認できません」
《第二安全監視者・音声認証》
《緊急停止要求を受理しました》
《情動調整出力を安全値へ復帰します》
診断室の表示が、一斉に切り替わる。
高瀬が立ち上がり、内室へ向かった。
カイトは端末のレイを見る。
レイはカイトを見ていなかった。
ただ、ガラスの向こうにいる悠人と、変化し続ける数値を見つめていた。
──第11話へ続く




