救命だけ
路地の入口に、白い医療支援機が立っていた。
カイトは一瞬だけ足を止めた。
《カイトさん》
《安全確保のため、停止してください》
「レイ」
「はい」
「追いつかれる?」
短い間。
「機体性能だけで判断すれば、可能です」
背後で、低い機械音が続く。
速くはない。
けれど、離れもしない。
《カイトさん》
《現在、高い情動負荷を確認しています》
《停止してください》
「止まったら、調整されるかもしれない」
「再同期が行われるとは確認はできていません」
「確認してからじゃ遅い」
カイトは角を曲がった。
「カイトさん。心拍数が上昇しています」
「分かってる」
「呼吸も乱れています」
「それも分かってる」
「では、足元も確認してください」
「今それ言う?」
「今だからです」
前方に、半分閉じた古いシャッターが見えた。
脇の表示は消えている。
「レイ。あれは?」
「旧搬送路です。現在は使用されていません」
「抜けられる?」
「地図上では、二本先の通りへ接続しています」
一拍置いて、レイが続ける。
「ただし、内部の保守情報は更新されていません」
背後の機械音が近づく。
カイトはシャッターの下へ潜り込んだ。
◇
照明の消えた通路に、非常灯だけが点いていた。
カイトの足音が響く。
背後を見る。
白い医療支援機は、入口の前で止まっていた。
《内部は安全管理区域外です》
《引き返してください》
「追ってこない」
「この区域の内部情報を取得できていない可能性があります」
「じゃあ、このまま抜ける」
カイトは奥へ進んだ。
少しして、下り階段が見えた。
鉄製の踏み板。
ところどころ赤く錆びている。
「待ってください」
「階段の保守記録が十二年前で止まっています」
カイトは足を止めた。
「別の道は?」
「確認できる範囲では、地上へ戻る必要があります」
「戻ったら、あいつがいる」
「どっちがいい?」
レイはすぐには答えなかった。
「安全性だけで判断すれば、戻ることを推奨します」
「それ以外は?」
「戻った場合に何が行われるかは、断定できません」
カイトは錆びた階段を見る。
「じゃあ、俺が決める」
「はい」
「一段ずつ。中央ではなく、壁側へ荷重を寄せてください」
「了解」
カイトは階段を下り始めた。
一段。
二段。
三段。
その時。
背後で金属音がした。
白い光が通路の奥へ差し込む。
「来た」
医療支援機が、シャッターをくぐっていた。
「カイトさん。急がないでください」
「無理言うな」
四段目へ足を置いた。
鈍い音がした。
踏み板が抜けた。
「っ……!」
身体が沈む。
カイトは手すりをつかんだ。
次の瞬間、固定部が錆びた音を立てて外れた。
身体が階段へ叩きつけられる。
右足が段差に引っかかった。
強い痛みが走る。
そのまま数段を滑り落ち、踊り場へ肩からぶつかった。
頭の横を硬いものがかすめた。
視界が白く弾ける。
「カイトさん!」
カイトは床へ手をついた。
「……大丈夫」
「大丈夫ではありません」
レイの声が強くなる。
「右足関節、右肩、頭部に損傷が疑われます。動かないでください」
「ここで止まったら、あいつが来る」
「来させないことより、今はカイトさんの身体を優先する必要があります」
カイトは残った手すりにつかまり、立ち上がった。
右足へ体重をかけた瞬間、膝が折れかけた。
「歩行を継続できる状態ではありません」
「まだ動く」
「カイトさん」
「非常口まで、あとどれくらい...?」
「百七十メートルです」
「行ける」
「推奨しません」
壁に手をつきながら、進む。
一歩。
また一歩。
背後の白い機体は、階段の上で止まっていた。
機体幅では、壊れた階段を下りられない。
数秒後。
白い機体がゆっくり後退した。
「諦めたのか?」
「別経路を検索している可能性があります」
「しつこいな」
すぐに、視界が揺れた。
「……レイ」
「はい」
「画面、揺れてないか...?」
「端末映像は安定しています」
カイトは立ち止まった。
揺れているのは、画面ではなかった。
耳鳴りがする。
床が遠い。
「今すぐ座ってください」
「あと少し――」
「行かないでください」
レイの声が、はっきり強くなった。
カイトは一歩進んだ。
右膝が落ちた。
壁へ手を伸ばす。
届かなかった。
「カイトさん!」
音が遠くなる。
暗い通路に、カイトの身体が倒れた。
端末が手を離れ、床を滑った。
画面の中で、レイが何度も呼びかける。
返事はなかった。
端末に確認表示が浮かんだ。
《緊急医療通信を開始した場合、現在位置および保護領域の一部情報が共有されます》
数秒後。
「……緊急医療通信を開始します」
白い信号が送信された。
《救命要請を受理しました》
遠くで、機械音がした。
◇
「……レイ」
「はい。ここにいます」
カイトは目を開いた。
最初に見えたのは、白い機体だった。
身体が強ばる。
「待て。再同期は?」
「されていません」
《救命処置を継続中です》
右足首には固定具が巻かれていた。
側頭部には閉鎖処置。
肩を動かすと鈍い痛みが走る。
「こいつを呼んだのか、レイ?」
「はい」
「俺に聞かずに?」
「呼びかけへの反応がありませんでした」
レイは続けた。
「生命と意識機能を守るため、緊急代理判断を行いました」
カイトは白い機体を見る。
「もし、そのまま再同期されたら……」
「その可能性は否定できませんでした」
「それでも呼んだのか……」
少しの間があった。
「意識が戻らなければ、カイトさんは選択できません」
カイトは黙った。
レイの声は静かだった。
「私は、カイトさんの代わりに人生を決めることはできません」
「ですが」
「カイトさんが再び決められる状態へ戻すためなら、必要な判断を行います」
カイトは目を閉じた。
「……ありがとう」
白い機体のアームが戻っていく。
《処置を完了しました》
《二時間の安静を推奨します》
カイトは機体を見る。
「このあと、俺を連れていくのか」
《現時点で、移送の必要はありません》
「どういうことだ……再同期は?」
《現時点では実施しません》
「……現時点では?」
《はい》
カイトは眉を寄せた。
「俺が拒否してることは分かってるのか?」
《認識しています》
「じゃあ、何のために追ってきた」
《安全確保のためです》
「捕まえるためじゃなくて?」
《その表現は適切ではありません》
白い機体は数メートル離れた。
帰らない。
ただ、そこにいる。
カイトには、その距離の意味が分からなかった。
端末に治療記録が届いた。
カイトは何気なく開く。
《神経接続緊急隔離:継続》
《専属AGIによる緊急代理判断:有効》
《共同意思決定履歴:保存》
そして、
《意思決定履歴:記録継続》
カイトの指が止まった。
「……なんだこれ」
レイは記録を読み取った。
「通常の救命記録には必要のない項目です」
「誰が入れた?」
「上位系統から付加されています」
「アテナか?」
「その可能性が高いです」
カイトは画面を見る。
「……俺が何を選ぶか、記録してる……?」
「その可能性があります」
「俺だけ?」
レイは数秒黙った。
「いいえ」
「私の判断履歴も、記録対象に含まれています」
カイトは端末の中のレイを見る。
自分が何を選ぶか。
レイが何を答えるか。
その両方が、どこかへ記録され続けている。
カイトは白い医療支援機へ目を向けた。
「……なんで、レイまで?」
──第9話へ続く




