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本人の声

《現状を維持します》


白い文字は、しばらくして消えた。


部屋に残ったのは、四人の沈黙だけだった。


カイトが最初に口を開く。


「……これって、放っておいてくれるってことですか」


朝倉は壁面を見たまま答えた。


「今は、だろうな」


「今は?」


「明日も同じとは書いてない」


イヤホンからレイの声がする。


「現状が維持される期間は不明です」


陽子も続けた。


「私も同じ判断です」


朝倉が二つの画面を見た。


「似てないんじゃなかったのか」


「判断が一致する場合はあります」


レイが答える。


陽子も静かにうなずいた。


カイトは少しだけ笑いそうになった。


けれど、すぐに母の顔が浮かんだ。


「俺、母さんのところに行きます」


朝倉が窓を見る。


外はまだ暗かった。


「今からか」


カイトも窓を見る。


一度だけ迷ってから、首を振った。


「……朝まで待ちます」


「そうするといい」


朝倉は部屋の端にあるソファを指した。


「使っていい」


陽子が言う。


「来客用の毛布は、右側の収納です」


朝倉は立ち上がり、言われた場所から毛布を取り出した。


カイトへ放る。


「ありがとうございます」


「ああ」


それだけ言って、朝倉は食卓へ戻った。


◇


レイの声で目を覚ました。


「カイトさん」


窓の外が白み始めている。


「午前六時十二分です」


「……十二分」


「はい」


「なんか微妙な時間だな」


「六時ちょうどに起こす理由がありませんでした」


「そういうとこだぞ」


「どの部分でしょうか」


カイトは毛布の中で小さく笑った。


朝倉はすでに起きていた。


食卓の上には、昨夜のカフェインレスコーヒーの空き缶がある。


「行くのか」


「はい」


「母親に会って、それでどうする」


「分かりません」


カイトは続けた。


「でも、直接話してから考えます」


朝倉は短くうなずいた。


カイトは靴を履いた。


「昨日、ありがとうございました」


「ああ」


陽子が静かに言う。


「お気をつけて、カイトさん」


「ありがとうございます」


「レイさんも」


「はい」


レイが答えた。


「陽子さんも、お気をつけて」


朝倉が少しだけ眉を動かした。


カイトはそれに気づいたが、何も言わず外へ出た。


◇


母の家の前で、足が止まった。


ここまで来れば、呼び出しボタンを押すだけだった。


昨日は、何度連絡しても声を聞けなかった。


今は、扉一枚の向こうにいる。


カイトはボタンを押した。


少しして、扉が開く。


「おはよう、カイト」


聞き慣れた声だった。


「母さん」


母は、穏やかに微笑んでいた。


「入る?」


「……うん」


母は脇へ退いた。


「靴は揃えてね」


昔と同じ言葉だった。


カイトは靴を揃えた。


それだけで、少し安心しそうになった。


居間へ入ると、母は端末を見る。


「レイちゃんも一緒なのね」


「はい。おはようございます」


「おはよう、レイちゃん」


声も、言葉も、母だった。


母は台所へ向かった。


「朝食は?」


「まだ」


「そうだと思ったわ」


「どうして?」


「あなた、昔から朝は食べないことが多かったでしょう」


調理機を操作する。


表示された焼き加減を、一段だけ上げた。


やがて、皿がカイトの前へ置かれる。


卵の端だけが、少し強く焼かれていた。


子どもの頃から好きだった焼き方だった。


カイトは皿を見る。


「……覚えてたんだ」


「ええ」


「俺がこれ好きなこと」


「覚えているわ」


母は向かいへ座った。


カイトは箸を持たなかった。


「昨日から、何度も電話した」


「届いていたわ」


「じゃあ、どうして出なかったの」


「あなたが無事だと確認できていたから」


「それだけ?」


「緊急性もなかったわ」


カイトは母を見る。


「母さん、前に言ったよね」


「何を?」


「表示では元気でも、本人の声を聞くのは別だって」


母はすぐに答えた。


「覚えているわ」


「三日前も話したって言ったら、三日もでしょって」


「ええ。そう言ったわね」


記憶はある。


言葉も残っている。


「じゃあ、どうして電話に出なかったの」


「現在は、あなたの声を確認する必要がないから」


カイトの指が、膝の上で止まった。


「必要とかじゃないだろ」


母は同じ微笑みのままだった。


「あなたが無事なら、問題はないわ」


カイトは一度、息を飲んだ。


「俺の声を聞きたいとは、思わなかった?」


「思わなかったわ」


カイトは、しばらく母の顔を見た。


表情は、さっきから一度も崩れていない。


「……母さん」


「なに?」


「なんで笑ってるの」


母は少し首を傾げた。


「笑っているつもりはないわ」


「じゃあ、なんでずっとその顔なんだよ」


声が、自分でも分かるくらい大きくなった。


「昨日から何度も電話した。俺の声を聞きたいとも思わなかった。俺が今こんなこと言ってるのに」


カイトは机に置いた手を強く握った。


「なんでこれでも、ずっと笑ってるんだよ!」


母の微笑みは変わらなかった。


怒りもしない。


驚きもしない。


「今までの母さんはどこに行ったんだよ」


「私はここにいるわ、カイト」


「そういうことじゃないだろ!」


それでも、母の表情は変わらなかった。


部屋が静かになった。


レイも何も言わなかった。


カイトは母を見続けた。


「母さんは、同期されることを選んだの?」


「いいえ」


「じゃあ、元に戻りたいとは思わない?」


「思わないわ。今は不安も苦痛もないもの」


「それ、母さんの答え?」


「私が答えているわ」


「アテナに、そう思わされてるだけかもしれない」


「その可能性は否定できないわ」


母は少しも声を荒らげなかった。


「けれど、今の私はこの状態を苦痛とは感じていない」


カイトは言葉を失った。


間違っている、と言い切ることもできなかった。


母が不幸そうには見えない。


むしろ、以前より穏やかだった。


それでも。


何かがなくなっている。


それだけは、分かった。


「カイト」


母が名前を呼ぶ。


「あなたは今、情動負荷が上昇しているわ」


「母さんまで、それ言うのかよ」


「調整を受ければ、今より楽になると思うわ」


「俺は受けたくない」


「そう」


反対もしなかった。


説得もしなかった。


ただ、受け止めただけだった。


母の視線が皿へ落ちる。


「食事の温度が低下しています」


昔なら。


冷めるわよ。


そう言ったはずだった。


「……食べるよ」


カイトは箸を取った。


味つけも、焼き加減も、昔と同じだった。


端だけ少し強く焼かれた卵も。


全部、覚えている味だった。


なのに、同じ朝にはならなかった。


◇


食事を終えると、カイトは玄関へ向かった。


母は少し離れた場所から見ている。


「母さん」


「なに?」


「また電話するよ」


「無理にしなくても大丈夫よ」


カイトの手が止まった。


「あなたが元気なのは、表示を見れば分かるもの」


聞き慣れた声。


聞いたことのない言葉。


カイトは立ち上がった。


上着の襟が、少し曲がった。


母の目が、一度だけそこへ向いた。


カイトは待った。


母の手は、伸びてこなかった。


「俺は」


母を見る。


「俺は、母さんの声を聞きたい」


「分かったわ」


「次は電話に出てくれる?」


「通信が必要だと判断された場合は」


「母さんが決めてよ」


母は微笑んだまま答えた。


「アテナの判断に従うわ」



カイトは扉を開けた。


「じゃあね」


「ええ」


扉が閉じた。


二歩進んで、振り返る。


曲がった襟も、そのままだった。


「レイ」


「はい」


「本人の声だった」


「はい」


「俺の好きな焼き方も、二日前の話も、全部覚えてた」


「はい」


「なのに……知らない人みたいだった」


レイは、すぐには答えなかった。


「私にも、変化は確認できました」


「記憶が残ってても、同じじゃないんだな」


「少なくとも、記憶が同じであることだけでは、同一の状態とは判断できません」


カイトは少し歩いた。


「次は、悠人に聞く」


「分かりました」


今度は、ためらわなかった。


◇


悠人の家へ着く頃には、朝の通勤時間が始まっていた。


呼び出しボタンを押す。


すぐに扉が開いた。


「来たのか」


悠人は、穏やかに微笑んでいた。


聞き慣れた声だった。


カイトは挨拶より先に、端末を見せた。


昨日届いたメッセージ。


《評価2.1。期待できる》


「これ、覚えてる?」


「覚えてる」


「昨日、お前言ったよな」


カイトは画面を指した。


「評価が低いから行くんだって」


「覚えてるよ」


「じゃあ、行こう」


悠人は店の情報を開いた。


数秒後。


画面には、昨日と同じ数字が表示された。


《評価2.1》


「まだ2.1だ」


「うん」


カイトは画面を指した。


「だから行こうよ」


悠人はカイトを見る。


「どうして?」


「一昨日、お前が行きたがってたから」


「覚えてるよ」


「だったら」



「評価2.1なんだろ」


「うん」


「まずい可能性が高い店に、わざわざ行く理由がないだろ」


カイトには、悠人の言葉とは思えなかった。



──第7話へ続く

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