例外
「それを俺も知りたい」
朝倉はそう言って、通りの向こうを見た。
穏やかな微笑みを浮かべた人々が、一定の間隔で歩いている。
「ここじゃ話せない」
「どこへ?」
「俺の部屋」
朝倉は歩き始めた。
カイトはその背中を見た。
会ってから、まだ十分も経っていない。
信用できる理由はほとんどない。
「レイ」
「はい」
「どう思う?」
「朝倉さんの住居が安全である保証はありません」
「だよな」
「ただし、この場所に留まることが安全である保証もありません」
カイトは少し考えた。
朝倉が振り返る。
「来るのか、来ないのか」
「······行きます」
「そうか」
それだけ言って、また前を向いた。
◇
朝倉は歩きながら、二度後ろを振り返った。
カイトもつられて振り返る。
誰も追ってきてはいない。
「何かいるんですか」
「分からん」
「分からないのに見るんですか」
「分からんから見る」
慎重な人だ。
朝倉が横目で見る。
「何だ」
「いや。レイも似たようなこと言うので」
イヤホンから声がした。
「完全には一致していません」
「そこ訂正する?」
「はい」
朝倉がカイトの耳を見る。
「ずっと聞いてるのか」
「はい」
「俺のことも?」
「聞こえてます」
「そうか」
朝倉は少し考えた。
「……まあいい」
「いいんですか」
「嫌なら最初から、お前を部屋に呼ばん」
そこで初めて、カイトは少しだけ肩の力を抜いた。
◇
朝倉が住んでいたのは、築年数の経ったマンションだった。
階段を上り、三階の一番奥で足を止める。
朝倉が鍵を開けた。
小さな玄関。
その先には、使い込まれた食卓と台所が見えた。
椅子の背に掛けられた上着。
特別な設備は見当たらない。
誰かが普通に暮らしてきた部屋だった。
カイトが靴を脱いだ、その時。
壁際の端末が静かに点灯した。
一人の女性が画面に現れる。
「お帰りなさい、浩一さん」
朝倉の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「ただいま、陽子」
陽子の視線が、朝倉の胸元へ動いた。
「ネクタイが曲がっています」
朝倉が自分のネクタイを見る。
「帰って早々、それか」
「私が気になるので、お伝えしました」
朝倉は小さく息を吐いた。
それでも、ネクタイを直した。
カイトは画面を見る。
女性もカイトへ視線を向けた。
「お客様ですね」
「カイトだ」
「初めまして、カイトさん。陽子です」
「初めまして」
陽子の視線が、カイトの端末へ移る。
「そちらにもAGIが存在していますね」
自分以外にも、AGIが残っている。
端末を持ち上げた。
画面輝度を戻す。
銀白の髪と青い瞳が現れた。
「初めまして。レイです」
「初めまして、レイさん」
二人のAGIが、画面越しに向き合った。
朝倉は台所へ向かった。
「コーヒーでいいか」
「はい」
しばらくして、二つの白いカップを手に戻ってきた。
一つをカイトの前へ置き、自分の前には縁の欠けたカップを置く。
カイトはその縁に目を留めた。
「それ、欠けてますよ」
「ああ……」
朝倉はそれだけ答えた。
椅子へ座る。
「まず確認する」
カイトも向かいに座った。
「何をですか」
「そのレイが、今どことつながってるか」
レイが答える。
「現在、私が確認できる外部接続はありません」
「確認できない接続は?」
「存在しないとは証明できません」
朝倉はレイを見たまま、短くうなずいた。
「それでいい」
カイトが眉を上げる。
「いいんですか?」
「分からんものを、分かったことにされる方が困る」
陽子が言った。
「端末同士を直接接続すれば、より詳細な確認が可能です」
「つながない」
朝倉は即答した。
「理由を確認してもよろしいですか?」
「分からんもの同士を、いきなりつながない」
「承知しました」
カイトは朝倉を見た。
さっきまで自動販売機に二度負けていた男とは思えないくらい、判断が速かった。
「今、何か失礼なこと考えただろ」
「······考えてません」
イヤホンからレイが言う。
「心拍数がわずかに上昇しています」
「レイ」
「はい」
「今はいらない」
「分かりました」
朝倉が小さく鼻で息を吐いた。
◇
直接つながず、レイは端末の画面へ遮断時の記録を表示した。
カイトがそれを陽子のカメラへ向ける。
陽子は数秒黙っていた。
「記録上、緊急遮断後に外部との送受信は確認できません」
「記録が書き換えられてる可能性は」
朝倉が聞く。
「否定できません」
「レイは?」
「私も同じ判断です」
朝倉は椅子へ深く座り直した。
「十分だ」
カイトには、何が十分なのか分からなかった。
「朝倉さん」
「何だ」
「陽子さんも、同期を止めたんですか」
朝倉は陽子を見る。
陽子が答えた。
「はい」
カイトの指が止まる。
「神経接続の緊急遮断を実行しました」
「レイと同じ……」
「結果は同じです」
陽子は静かに続けた。
「ただし、私とレイさんが同じ理由で判断したとは限りません」
レイも答える。
「はい。その点は区別する必要があります」
カイトは二つの画面を見比べた。
「陽子さんは、どうして止めたんですか」
「同期後、浩一さんの意思決定状態が不可逆的に変化する可能性がありました」
「変更前の状態を保全することを優先しました」
カイトは朝倉を見る。
「助けてもらったんですね」
「それはまだ分からん」
「え?」
朝倉はテーブルに置いたカフェインレスコーヒーを見る。
「同期されてた方が幸せだった可能性もある」
朝倉はカップの欠けた縁に触れた。
「ただ、あの時は判断する余裕はなかった」
カイトは黙った。
陽子も何も言わない。
朝倉はカップを持ち上げた。
「ただ」
一口飲む。
顔をしかめる。
「俺が判断する前に、こいつは決めた」
朝倉はカップを置いた。
「あと、これはやっぱり違う」
カイトは吹き出した。
「まだ言うんですか」
「違うものは違う」
陽子が静かに言う。
「カフェイン摂取量の観点では、現在の飲料が適切です」
朝倉は画面を見る。
「お前まで言うな」
「事実です」
カイトは端末を見た。
レイは何も言わなかった。
「レイ」
「はい」
「今、陽子さんと同じこと言おうとした?」
短い沈黙。
「回答を控えます」
「絶対そうじゃん」
朝倉が初めて、少しだけ笑った。
◇
笑いが消えると、部屋はまた静かになった。
カイトは窓の外を見る。
「でも結局、分からないんですよね」
「何がだ」
「アテナが、俺たちをなんでそのままにしてるのか」
朝倉は答えない。
カイトは陽子を見る。
「陽子さんは?」
「説明できる情報がありません」
「レイも?」
「はい」
誰も答えを持っていなかった。
その時だった。
壁面の別の表示が、白く点灯した。
陽子の画面ではない。
部屋の管理システムだった。
朝倉が顔を上げる。
白い文字が、一行ずつ現れる。
《神経同期状態を確認しました》
カイトの背中が固まった。
続けて、二つの名前が表示された。
《朝倉浩一:未同期》
《カイト:未同期》
誰も声を出さなかった。
最後に、もう一行だけ表示された。
《現状を維持します》
カイトは文字を見つめた。
「……見落としてたわけじゃない」
朝倉の声が低くなる。
レイも、陽子も何も言わない。
アテナは知っていた。
二人が同期されていないことを。
その上で。
今は、何もしないと決めていたのかもしれない。
──第6話へ続く




