もう一人の非同期者
カイトは片耳にイヤホンを着けた。
「これなら、レイの声は周りに聞こえない?」
「はい。端末の画面輝度も下げます」
銀白の姿が暗くなる。
「見えにくくなりますが、処理は継続しています」
「分かってる」
カイトはドアを開けた。
◇
廊下へ出たところで、隣の部屋の扉も開いた。
同じ階に住む男だった。
朝に会えば、いつも「今日も眠そうな顔だな」と笑う。
それ以上の付き合いはない。
男は、穏やかに微笑んでいた。
「こんばんは、カイトさん」
「……こんばんは」
カイトは待った。
いつもの一言は続かなかった。
「昨日のこと、覚えてますか?」
「はい。市内の電子機器が一時停止し、新しい保護基準が適用されました」
「怖くなかったですか?」
「恐怖は適切に処理されました。現在、不安はありません」
男はそう言って、エレベーターへ向かった。
「カイトさんには情動負荷が残っているようです。調整を受けることをおすすめします」
扉が閉じた。
「……俺のこと、覚えてた」
「はい」
「でも、あの人じゃないみたいだった」
短い間。
「私にも、そう見えました」
カイトは閉じた扉を見た。
記憶は残っている。
名前も覚えている。
それでも、何かがなくなっていた。
◇
夜の街は、明るかった。
店は開いている。
配送機は滞りなく行き交い、信号は誰も待たせない。
人々はぶつからない。
怒鳴らない。
迷わない。
その代わり、店先の立ち話もなかった。
行き先を変える相談も聞こえない。
理由のない笑い声もない。
街全体が、答えを知っているようだった。
◇
古い自動販売機の前で、一人の男が立っていた。
黒いスーツ。
白いシャツ。
緩んだネクタイ。
男は、同じボタンをもう一度押した。
《本日のカフェイン摂取量は、推奨上限へ達しています》
《睡眠周期を考慮し、カフェインレスコーヒーへ変更しました》
「だから、カフェイン入りを押した」
《健康保護を優先します》
男はもう一度押す。
《あなたの長期的幸福を守るための処置です》
機械音。
同じ缶が、もう一本落ちた。
男は二本の缶を見下ろした。
「増えただけか」
カイトは、思わず吹き出した。
男が振り返る。
「今、笑ったな」
「すみません」
「いや。俺でも笑う」
男は一本を拾い、カイトへ差し出した。
「飲むか」
「え」
「二本もいらん」
カイトは受け取った。
缶には、カフェインレスと書かれている。
男も自分の缶を開け、一口飲んだ。
「……違うな」
「そんなにですか」
「違う」
男は真剣だった。
カイトはもう一度笑いそうになって、やめた。
通り過ぎる人々と違って、その男の顔には不満があった。
男は缶を片手に、通りへ目を向けた。
穏やかな微笑みを浮かべた人々が、途切れなく歩いている。
「……気味悪いんだよ」
「え?」
「あいつら。全員、同じ表情で笑ってる」
カイトも通りを見る。
「怒るやつもいない。苛つくやつもいない。誰かが笑わせたわけでもない」
男は眉を寄せた。
「なのに、ずっとあの顔だ。何考えてんのか分からん」
カイトは、少しだけ息を吐いた。
男に対して違和感があった。
「……俺も、さっきからそれ思ってました」
男は一度だけカイトを見る。
「だろ」
それから、手の中の缶を見た。
「カフェイン入り、飲まない方がいいのは分かってるんですよね」
「分かってる」
「じゃあ、なんで」
「寝つきが悪くなる。明日の体調にも響く。たぶん、こいつの方が正解だ」
男は缶を見る。
「でも、自分でやめるのと、やめさせられるのは違う」
カイトの手が止まった。
朝の分かれ道を思い出す。
五分十四秒。
男は、もう一口飲んだ。
「不正解の方を選びたかったんだがな」
その時、男の視線がカイトの耳へ動いた。
「何かと繋いでるのか?」
カイトは一瞬迷った。
「……レイです。俺の専属AGI」
男の目が細くなる。
「残ってるのか」
「はい」
「姿は?」
「端末の中に」
男はカイトの端末を見る。
そして、カイトの顔へ視線を戻した。
「お前」
声が低くなった。
「同期、されてないのか」
カイトの呼吸が止まる。
「あなたも?」
男の表情が変わった。
驚き。
警戒。
異変のあと初めて、カイトは自分以外の人間の顔に、感情が動くのを見た。
男は周囲を確認した。
「俺以外にも、いたのか」
カイトは少し迷ってから言った。
「カイトです」
「朝倉」
朝倉はそれだけ名乗った。
カイトは、手の中の缶を見た。
「朝倉さんも、アテナに気づかれてないんですか」
朝倉は答えず、自動販売機へ目を向けた。
表示にはまだ、カフェイン摂取量の警告が残っている。
「いや」
「え?」
「少なくとも、俺が何を飲んだかは見えてる」
朝倉は缶を持ち上げた。
「昨日から端末にも、何度も調整を勧められてる」
「じゃあ……」
「同期されてないことだけ、都合よく見落としてるとは思いにくい」
カイトはイヤホンへ触れた。
「レイ」
「断定はできません」
レイはすぐに続けた。
「ですが、アテナが朝倉さんの状態を把握している可能性は高いと考えます」
カイトは周囲を見た。
同じ微笑みで歩く人々。
その中に、自分と朝倉だけが立っている。
「じゃあ……なんで、俺たちはそのままなんだ?」
朝倉は答えなかった。
しばらくして、低い声で言った。
「それを俺も知りたい」
──第5話へ続く




