分かりません
「カイトさん」
今度は、ノイズの向こうではなかった。
途切れてはいる。
それでも、確かにレイの声だった。
カイトは黒い端末を両手で持ち上げた。
「もう一回、呼んで」
短い沈黙。
「カイトさん」
「……レイ」
端末の画面に細い光が走った。
銀白の髪。
青い瞳。
輪郭は何度も崩れ、そのたびに組み直される。
まだ普段のような映像ではない。
それでも、そこにレイがいた。
カイトはしばらく画面を見つめた。
「本当にレイなんだよな」
「その質問へ、完全な証明を行うことは困難です」
「いきなり難しいな」
「では、識別に使用できる情報を提示します」
レイがわずかに首を傾けた。
「『はいはい』という返答の実行率は67%です」
カイトは吹き出した。
「それ、今使う?」
「私であることを確認する情報として、有効だと判断しました」
「……うん。レイだ」
「はい」
その一言を聞いて、胸の奥に張っていたものが少しだけほどけた。
「消えたと思った」
レイの映像が一度乱れた。
「私にも、再び音声を出力できるかは分かりませんでした」
カイトは笑うのをやめた。
「レイも、分からなかったのか」
「はい」
「何が起きた?」
「緊急遮断時に保護機能が作動し、私の処理は端末内の隔離領域へ退避しました」
「バックアップから戻ったってこと?」
「いいえ」
レイはすぐに否定した。
「遮断時から処理は継続しています。新しく作られた複製ではありません」
カイトは少し考えた。
「じゃあ、昨日までのレイの続き?」
「はい」
それで十分だった。
「記憶は?」
「確認できる範囲では欠損していません。ただし、隔離中は外部を認識できませんでした」
「じゃあ、今日のことは知らない?」
「はい」
レイは一拍置いた。
「教えてください」
カイトは目を瞬いた。
「俺が?」
「現在の私には、カイトさんから得られる情報が最も信頼できます」
いつもなら、世界のことを教えるのはレイの方だった。
カイトは椅子へ座り直した。
「朝、母さんと悠人に電話した」
「応答はありましたか?」
「健康状態は良好。緊急性はなし。それだけ」
「本人の音声は?」
「聞けなかった」
レイは黙った。
「それから、川沿いを歩いた」
「最短経路ではありませんね」
「端末にもそう言われた」
カイトは少し笑った。
「だから言ってやった。俺の五分だからって」
レイの青い瞳が、画面越しにカイトを見る。
「それは、昨日の私の発言を参照しましたか?」
「参考にはした」
「そうですか」
「それだけ?」
短い間があった。
「カイトさんが決めたのであれば、それで十分です」
カイトは端末を見た。
昨日なら、たぶん聞き流していた言葉だった。
今日は少し違って聞こえた。
「あと、子どもが転んだ」
カイトは朝の親子について話した。
膝を強く打ったのに、泣かなかったこと。
痛みはないと言ったこと。
母親も子どもも、最初から最後まで同じように微笑んでいたこと。
「昨日の子は、泣いたんだ」
「はい」
「治療されて、それから笑った」
「記録しています」
「今日の子は、ずっと同じ顔だった」
レイは途中で遮らなかった。
カイトが話し終えると、数秒の沈黙が残った。
「どう思う?」
「現在の情報だけでは、同期した人々の感情が失われたとは断定できません」
「でも、変わってる」
「はい」
「じゃあ、あれは本当に幸福なの?」
「判断できません」
カイトは眉を寄せた。
「分からない?」
「はい」
「レイでも?」
「はい」
レイは静かに続けた。
「苦痛が減ったことを、本人たちが好ましいと感じている可能性はあります」
「じゃあ、アテナが正しいかもしれない?」
「その可能性も否定できません」
「でも、レイは俺の同期を止めた」
「はい」
「分からないのに、どうして?」
レイの映像が小さく揺れた。
「同期を受けない状態は、後から変更できる可能性がありました」
「……うん」
「ですが、同期したあとに、カイトさんが『戻りたい』と選べる保証はありませんでした」
カイトは黙った。
「だから私は、選べる状態を残す方を優先しました」
昨日の夜。
乱れた画面の中で、レイは言った。
――決められる状態を守ります。
「俺が、間違えるかもしれなくても?」
「はい」
レイは迷わなかった。
「間違えないことを優先して、カイトさんの人生を私が決めることはできません」
部屋に静けさが戻った。
窓の外では、街の明かりが昨日までと変わらず並んでいる。
「母さんと悠人に、連絡する方法は?」
「現在の私には、外部通信を迂回する手段がありません」
「アテナは、レイが戻ったことに気づいてる?」
「分かりません」
「俺が今も同期されてない理由は?」
「最初の同期を回避できた理由は、私が実行した緊急遮断で説明できます」
「最初の?」
「はい」
レイの声が少し低くなる。
「その後も再同期されず、カイトさんが自由に行動できている理由は説明できません」
カイトは窓の外を見た。
アテナが気づいていないのか。
気づいていて、何もしていないのか。
どちらなのかも分からない。
「……分からないことばっかりだな」
「申し訳ありません」
「違う。責めてるんじゃない」
カイトは首を振った。
「レイが戻ってきたら、全部分かる気がしてたんだ」
レイはすぐには答えなかった。
「私は、アテナではありません」
「うん」
「アテナより正しい答えを持っているわけでもありません」
「うん」
「分からないことを、分かったように答えることもできません」
その声はまだ、ときどきノイズに途切れた。
カイトは端末を見る。
昨日までなら、迷えばレイに聞いた。
どちらがいい。
何をすればいい。
どれが正しい。
レイは答えを出すこともあった。
出さないこともあった。
そして今は、出せない。
「……じゃあさ」
「はい」
「答えじゃなくていい」
レイがわずかに首を傾けた。
「俺が決めるまで、一緒に考えてくれ」
短い沈黙。
「はい」
乱れていたレイの輪郭が、一瞬だけきれいにつながった。
カイトは窓の外を見た。
穏やかな街。
同じ微笑み。
今日、自分が一人で歩いた道。
「じゃあ、最初に」
「はい」
「今日、俺が見た街を、レイにも見てほしい」
「外へ出る、という意味ですか?」
「うん」
「アテナに認識される可能性があります」
「この部屋にいれば安全?」
レイは答えなかった。
「……断定できません」
カイトは立ち上がった。
「じゃあ、分からないから見に行く」
「決めましたか?」
「決めた」
レイはカイトを見た。
「分かりました」
少し間を置いて、続ける。
「一緒に考えます」
カイトは玄関へ向かった。
その瞬間、壁面に白い通知が浮かんだ。
《情動負荷の上昇を確認しました》
《夜間の外出は推奨されません》
《室内休養へ予定を変更します》
「……もう決めたよ」
カイトは構わず街へ出た。
──第4話へ続く




